前回の、岡田温司(1954 - )の『半透明の美学』が提示する問題の続きです。前回のおわりに私は、この「半透明」という概念が絵画の制作においてどのように捉えられるのか、ということを書きました。実はこの本でも、具体的にいくつかの絵画が取り上げられています。
例えば、リヒター(Gerhard Richter, 1932 - )の『グレイ』、ボッス(Hieronymus Bosch、1450頃- 1516)の『天地創造の三日目』、クレー(Paul Klee、1879 - 1940)の『親密な遊び』、ベーコン(Francis Bacon、1909 - 1992)の『眠っている人物』などです。岡田がこれらの作品を取り上げた理由は、灰色(グレイ)を使っていることです。なぜ、灰色を使った作品が、「半透明」という概念と関わってくるのでしょうか。
晩年のウィトゲンシュタイン( Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889 - 1951)が広く色彩について思索を巡らせていたことはよく知られているが、この言語ゲームの哲学者も、「どっちつかずの曖昧な色」、灰色の魅力にとり憑かれたひとりであった。そして、灰色の特徴をその否定性のうちに見る一方で、それは肯定性へと転ずる可能性のあることを示唆している。いわく、「灰色は(白と黒という)二つの極の間にあり、他のどんな色合いも受け入れることができる」、と。その意味で灰色は、アリストテレス(Aristotles、紀元前384 - 紀元前322)的な「ディアファネース」にも通じるところがあるように、わたしには思われる。
(『半透明の美学』)
この「どっちつかずの曖昧な色」が「二つの極の間にあり、他のどんな色合いも受け入れることができる」という肯定性へと転じて、それが「透明」と「不透明」の間にある「半透明」に通じる、とされているわけです。
さらに「灰色」が喚起するものとして、「埃」が取り上げられています。これはジャコメッティ(Alberto Giacometti, 1901 - 1966)と親交があったジャン・ジュネ(Jean Genet, 1910 – 1986 )が、ジャコメッティのアトリエについて「虫食いだらけの木と、灰色の埃からできている」と書いていることから関連付けられているようです。ジャコメッティの描く肖像画が、グレイやそれに近いトーンで描かれていることは周知のことですが、実際のアトリエも埃だらけの灰色で、それをジャコメッティが気に入っていたことも、ジュネの文章からうかがい知ることができます。
灰色の埃に愛着を持っていた美術家はジャコメッティばかりではありません。そのなかでもやはり、と思わせるのがモランディ(Giorgio Morandi, 1890 - 1964)です。モランディのアトリエを訪問した批評家は、掃除が行き届き食器もピカピカであった家のなかとは別に、アトリエのモチーフには意図的にうっすらと埃がかぶっていたことを記録しています。
ジャコメッティやモランディの逸話は、それだけで興味深いものではありますが、「灰色」と「埃」という共通項だけで語られるのでは、ちょっともったいないような気がします。
この本ではセザンヌ(Paul Cézanne、1839 – 1906 )についても取り上げられていますが、こちらはもっと込み入った事情で関連付けられています。セザンヌ解釈に新しい展開をもたらしたのが哲学者のメルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty 1908~1961)であったことは、12月29日のブログにも書きました。そのメルロ=ポンティが晩年に、著作『見えるものと見えないもの』のなかで「肉」についての思想を考えていました。もちろん、ここで言うところの「肉」というのは、肉屋で売っているような具体的な肉のことではありません。たとえば水のたまったプールの底を覗きこんだとき、私たちはプールの底のタイルを見ることができますが、それは水の厚みを通して見ている、ということになります。このときの「水」の存在は、見ている私たち=主体には属さないし、見られているタイル=対象物にも属していません。そのような「中間に介在するもの」、これまでの哲学では言いようがなく、「名前のないもの」のことを、メルロ=ポンティは「肉」と呼んだのです。ここまで書くと、その中間的な存在こそ「ディアファネース」にそっくりではないか、という理屈が分かることと思います。そしてセザンヌについて、こう書かれています。
たしかにセザンヌが晩年に好んで描いた『サント=ヴィクトワール山』を見ると、遠近法空間から引き剥がされて外へと放射する「世界の肉」ないし「自然の肉」と呼ぶにふさわしいものに見えてくるから、不思議である。
(『半透明の美学』)
セザンヌの筆のタッチが「世界の肉」に見えるのかどうか、なかなか微妙ですね。
いずれにしろ「半透明」という概念が「灰色」であったり、「埃」であったり、「肉」であったり、という高度な言葉のつながりで考察されると頭がついていけない、というのが私の正直なところです。それよりも、もっと直接的に「透明」「不透明」「半透明」という概念で、絵画の空間や構造を語ることはできないのでしょうか。
『半透明の美学』のなかでも「注」として取り上げられているのですが、コーリン・ロウ(Colin Rowe、1920 - 1999 )という建築史家が、「透明性」(1963 )という論文を書いています。これは『マニエリスムと近代建築』(伊東豊雄・松永安光 訳)という本に入っている論文です。
余談ですが訳者の一人である伊東豊雄と言えば、昨年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で最高賞となる金獅子賞を受賞したことで、ニュースでも報道されていました。また、岩手県釜石市の復興にかかわって、NHKのドキュメンタリーでもその仕事ぶりが放映されていましたし、それ以前に『新しいリアル』という展覧会が神奈川県立近代美術館で開催され、私も楽しく拝見させてもらいました。そういう忙しい人でも、論文の翻訳などという地道な研究をやっているのですね。
さて、ロウの論文ですが、透明性という概念について、ロウはモダニズム絵画と建築に関連させながら、二種類に分けて考えています。それは物理的な「実」(リテラル)の透明性と、知覚的な「虚」(フェノメナル)の透明性です。岡田は「注」のなかで次のように書いています。
すなわち、物質的・物理的な意味での「リテラル(字義通り)」な透明性と、知覚や空間秩序にかかわる「フェノメナル(字義通り)」な透明性である。前者にはピカソやグロピウスが、後者にはブラックやル・コルビュジエがそれぞれ結びつけられたことも、記憶に新しい。とはいえ、わたしには両者がはっきりと区別されうるようには思われない。というのも二つはたいていの場合、たがいに絡まりあっているからである。この論文のなかには、(およそはからずも)「半透明(translucent)」という語が何度か登場している。
(『半透明の美学』)
確かに、岡田が書いている通り、この「実」と「虚」の透明性の見分け方は難しいと思います。たとえば分析的キュヴィズムと言われる時代に描かれたピカソ(Pablo Picasso、1881 – 1973)とブラック(Georges Braque, 1882 - 1963)の絵について、ピカソの『クラリネット吹き』(1911)は「奥行きのある空間の中に画像が透けて見えるような感じを持つ」が、ブラックの『ポルトガル人』(1911)は「奥行きがなく平坦で、横に広がった空間の中に物理的にはっきりした像をとらえることはできない」というのです。言われてみればそういう気がするものの、はっきりとは見分けるのは難しいのです。そしてドローネー(Robert Delaunay, 1885-1941)とグリス(Juan Gris, 1887 - 1927)を比較すれば、「更に明らかになるだろう」とロウは書いていますが、なかなかそうはいきません。
私から見ると、それらの相違を見るよりも、モダニズム絵画の平面性と形象の表現とを両方ともに実現しようとする意図において共通しているのではないか、と強く感じてしまいます。同じ手法を使っているのだから共通するのがあたり前だ、と言われてしまうかもしれませんが、それにしてもこの矛盾した二つの要素を一枚の絵に実現しようとする意志や緊張感が、キュヴィズムの絵画の魅力だったのではないか、とあらためて考えてしまいます。モダニズムの絵画の歴史を見ると、結局、このような矛盾はいずれ解消されてしまい、その魅力も長くは続かないのですが・・・。
おそらく私は、ロウの「透明性」をおぼろげに思い出しながら、岡田の「半透明」という概念を知ったので、そのなかに絵画の矛盾した要素を構造的に解き明かす可能性を感じたのだと思います。
ところが残念ながら、たとえば岡田が示したリヒターの『グレイ』には、そのような要素を感じません。リヒターは「灰色」が両義的であることを知的に分かっていて表現したのではないか、と私は思います。それは優れた作品であるのかもしれませんが、そこには制作上の矛盾や葛藤がなく、楽しめないのです。私が期待した、「半透明」の概念をもちいた絵画の考察とは、たとえば次のようなものです。
フィラデルフィア美術館所蔵の一九〇四~六年の「聖ヴィクトワール山」などに見られる後期のセザンヌの特徴は、その極端な簡略化である。中でも全景に対して正面像が圧倒的な支配力をもっていること、奥行きを感じさせる要素が少ないこと、その結果として、前景・近景・遠景が極めて凝縮された構造の中に組み込まれていることなどが、その特徴である。光源は限定されているが、多様に変化する。そして彼の絵画をじっと見つめると空間の中で対象物が前に飛び出してくるように見えてきて、この感じは不透明でコントラストの強い色彩により、一層強められ、また山の裾が画面の緑と交差することによって更に強められる。画面の中心部にはかなり密な斜め方向に直行するグリッドがかかり、周辺部には更にはっきりした水平および垂直方向のグリッドがかかって画面の中央部を支えている。
(『マニエリスムと近代建築』「透明性」)
この話の前段として、「透明性」とは「空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できること」、という定義があり、そのことから「透明性」が空間と時間の固定化を脱却するものである、という考察があります。それをふまえて、セザンヌの絵画に見られる奥行きの圧縮、不透明な色彩による距離感の近さ、グリッドによる画面構成などが解き明かされているのです。ロウはこれらの特徴が1911~12年ごろの分析的キュヴィズムの特徴でもあり、そのことが「喧伝された制作意図以上に重要な意義を持っていた」と書いています。キュヴィズムの意義とは、よく言われるようにモチーフを幾何的な形体へと簡略化することにあったのではありません。いまから見れば、「透明性」の概念をモダニズムの絵画に導入することにより、絵画を構造的に「脱構築」することにあった、と言いたいところですが、時代はまだ1911年頃のことです。セザンヌは、さらにその前、ということですから、彼らの仕事を何といって整理したらいいものでしょうか・・・。
ロウは「透明性」という言葉を使いますが、岡田が整理したように、イタリア・ルネサンスで成立した透視図法の整然とした空間が「透明」な空間だとするならば、ロウが分類した「実」と「虚」の「透明性」は、岡田のいう「半透明性」としてくくることも可能でしょう。セザンヌはモダニズムの絵画が誕生する前から、「透明」と「不透明」の矛盾を自分の絵画に引き受けて仕事をしていたのです。ピカソもブラックも、一時的にその仕事を引き継ぎながら、やがて異なる方向へと行ってしまいました。
「半透明」という概念には、そういった絵画の問題を明らかにする可能性があるのではないでしょうか。
話がうまくまとまりませんでしたが、私の感じている予感のようなものを共有していただければ・・・というところです。
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