平らな深み、緩やかな時間

118.『ピアノのレッスン』アンリ・マチスについて

先日から、しつこくPRしてすみません。
上野の森美術館『なんでもない日ばんざい!』に私の21歳の時の静物画が出品されます。
7月23日からですが、詳細については展覧会のホームページをご覧ください。
http://www.ueno-mori.org/specials/2020/nandemonaihi/
また、私の作品『静物』については私のホームページをご覧ください。
http://ishimura.html.xdomain.jp/work/その他の作品/静物1983.jpg
ということで、上野に行かれた際には、よかったら美術館にお立ち寄りください。

さて、学芸員の方から、私の昔の作品が展示されることをご連絡いただき、40年近く前にその絵を描いたときのことを思い出しました。そしてもしかしたら、この絵を描いていた時が私にとって、もっとも幸福な時期だったのかもしれないな、と思ってしまいました。
これはたんに、若い頃が懐かしい、という話ではありません。そうではなくて、絵画というものをどのように探究していくべきなのか、という話です。
何のことやら、わかりませんよね?できるだけ、わかりやすく説明します。

この静物画を描いていた時、私はマチス(Henri Matisse, 1869 - 1954)の絵を頻繁に参照していました。マチスのような巨匠になると、参照すると言ってもいろいろなケースがあります。例えば、若い頃の激しい色彩を用いていたフォーヴィズムのマチスと、晩年の喜びに満ちた切り絵の作品を作っていたマチスとでは、同じ画家でもずいぶんと作品が違います。
私は当時、どんなふうにマチスを見ていたのか、というと画家の宇佐美圭司(1940 - 2012)が『絵画論』(1980)のなかで論じていたようにマチスを見ていたのかもしれません。
それは次のような見方になります。

『ピアノのレッスン』を見てみよう。この絵における水平線、垂直線は、明らかに客体の線として利用しうる経線と緯線であり、利用されない線は消しさられて平面にあらわれない。それでは奥行きをあらわす線は何にかわったか。それはこの絵に表れるすべての斜線である。もっとも印象深い子供の顔にくいこむ三角形、同じくメトロノームの三角形、開かれた窓に出現するグリーン、ピンクの台、子供の上方に小さく描かれた人物の太ももの線とテーブル等々、これらは奥行きを表わす線の代理表象であると同時に、表面に二次元内の運動を呼びこむために、マチスによって複雑な客体世界から選択され、画面の中に色面としてよみがえったものたちである。色彩を想像力によって大胆に開放することを師のモローから学び、色面の力によって空間の奥行きをうめていったマチスは、空間を抑圧することによって空間の形式を再認識し、その形式の平面化と、平面化された客体とを折衷的に描いたのであった。彼はピカソのように、そして近代科学の主流がそうであるように、要素還元主義的な抽象の方向をとらなかった。抽象の入口に色彩という武器をもって立ったマチスは、色面による客体の消去、単純化の方向で抽象表現に到達したのである。
(『絵画論』「マチスの悪夢」宇佐美圭司著)

これはマチスの『ピアノのレッスン』(1916)を分析して書いている文章ですが、もしもこの作品をご存じない方がいらしたら、次の画像を見てください。
https://art.hix05.com/Matisse/matisse-image/m1691_piano.jpg
この『ピアノのレッスン』は、実際に想定される室内空間を平面化し、単純化して描かれたものですが、マチスはどのような方法でそれを実践したのでしょうか。
宇佐美圭司は、マチスが「要素還元主義的な抽象の方向をとらなかった」と言っています。それでは宇佐美の言う「要素還元主義」とはどのようなものなのでしょうか。「要素還元主義」というのは、複雑な事象を単純な要素に還元して考え、そこからもとの事象の構造を解き明かす、というような意味でしょう。絵画で言えば、例えばピカソ(Pablo Picasso, 1881 - 1973)の分析的キュビズムやモンドリアン(Piet Mondrian、1872 - 1944)の樹木の形体の単純化のように、色彩をモノクロームや茶褐色などに制限し、形も短い直線的なものに統一していく、というような方法で還元していくのです。そのことによって、もとの具象的な形体は解体され、絵画空間の構造だけが表象されていく、というわけです。ところがマチスの絵画は、その方法をとらなかったのです。
それでは、マチスはどのような方法を取ったのでしょうか。具体的に『ピアノのレッスン』の画面を見てみましょう。マチスの色彩の使い方も、ピカソたちのように抑制的に見えますが、ピンク色や黄緑色、オレンジ色が効果的に使われているので、モノクロームに近い画面だという印象はありません。形体は単純化され、平面化されていますが、そこにモンドリアンの絵画のような規則性を見つけることは困難です。子供の顔を見てみると、その右半分と左半分の描き方が異なり、さらに左半分は塗りつぶされた上に三角形の形が見えます。後ろの女性に至っては、まだ描きかけのように見えますし、体に穴が開いたようにグレーの塊が塗られています。画面全体に形体が単純化されている印象を受ける一方で、窓の手すりのような形の模様は、その装飾的な曲線がしっかりと表現されています。
ここでマチスの取った方法は、ひとつひとつの形体の単純化ではなく、画面全体の平面化です。しかしもちろん、それはただの単純化であるはずがありません。絵画としての魅力をそぎ落とすことなく、単純化と平面化を進めていくのです。だから、色彩の平面化を進めていくかわりに、画面の奥行を表象する斜めの線、三角形の斜辺にあたる線は強調されます。煩雑な曲線は排除されますが、画面全体にリズム感を与える曲線や模様は残されることになるのです。画面の中の具象的な形は説明的である限り省略されますが、そうでなければあえて抽象化される必要もありません。むしろピアノやメトロノームがイメージさせる音楽的な要素が、絵画全体に好ましい印象をあたえています。このマチスの取った方法は、「要素還元主義」のような規則的な法則がありません。つねにケースバイケースで対処され、はたしてうまくいくのかどうか、最後までわかりません。宇佐美圭司の言葉を借りれば「色彩という武器」だけがたよりなのです。それだけに、実際にやってみる価値がありそうだ、と思いませんか?私はそう思いました。

私事で恐縮ですが、そこでやってみたのが、今回、展示されることになった『静物』です。
画面はいたってシンプルですが、真ん中あたりに塗りつぶされたビンがあることが、わかりますか?他にも、アルバイト代で買った観葉植物の小さな植木鉢がいくつか並んでいますが、その痕跡はかろうじて葉の外形を描いた赤やオレンジの線として残されています。画面全体を通して、形体の単純化への基準となったものは、とにかく画面がゆったりと広く見えること、というその一点です。ですから、青い色面が画面の外まで広がっていくように見えれば、絵のねらいがかなり達成できたことになります。
結果的には、自分の作品のなかでもかなり気に入ったものになりました。そして何よりも、描いているときの画面の展開が、とても楽しく感じられました。振り返ってみると、知性も才能もない自分が二十歳そこそこで、よくマチスのやったことを理解できたな、と褒めてあげたいところです。そして、このことが私にとってもっとも幸福な時期であったのかもしれない、と先ほど書いた意味なのです。
ところが私は、こういう作品へのアプローチを、じきにやめてしまいます。その結果、私にとって幸福な時期は、ごく短期間で終わってしまいました。なぜ、そんな成り行きになったのでしょうか。
以前にも書きましたが、私の若い頃の現代美術の状況は、とにかくこういうふうにこつこつと絵を描くことが許されないような雰囲気がありました。私自身も、このように具象的なモチーフから平面化を進めていくことをひとつの通過点のように考えていました。それは状況的な判断だけではなくて、理論的にも、そのような方法論は行き詰っているように思えたのです。その根拠となったものが、例えばこの宇佐美圭司の『絵画論』です。
先ほどの、この本の引用部分の章のタイトルが「マチスの悪夢」となっていたことに、お気づきになったでしょうか?マチスの絵画の平面化についてみごとに記述して見せた宇佐美は、その後に次のように書いているのです。

図版の『形』はジャズ・シリーズでもっとも単純なものであり、色数も二色で、それも同系統のブルーの濃淡にすぎぬ。色彩は色紙になることで、完全にフラットになり、色そのものもマチス独特のものというよりもむしろ普遍的で誰にでも作りうる色である。ここではもう絵画の表面は、何らかの内容をもる容器であるというよりも絵の内容そのものであり、彼の絵画の表面性の強調はついに絵画をその本来の前提である一枚の画布に戻してしまう一歩手前まできていたのである。
読者もマチスが『形』で試みたように自分自身で作ってみられるとよい。一枚の白い画用紙と少しニュアンスのちがうブルーの二枚の色紙ですべての材料は整う。技法はちぎってはりつけるだけであり、誰もそれほど上手へたがあるわけはない。もちろんマチスほどうまくないかもしれぬ。しかしあなたはそこに自分自身の一つの表現を作ることができるだろう。そしてそれがなぜマチスよりまずいのだろうか。それはたんに思いすごしであるかもしれないではないか。もし自分のちぎった色紙が気に入らなければ、あるパートを子供にちぎってもらって交換してもよい。
同一の条件から発生した十点の作品を持ちよるとき、そこに何が見えるか。マチスが消えるのである。各個人にとっての好みの順列はあるだろう。しかし十点の作品は一系列のバリエーションであり、おたがいの間に価値のヒエラルキーは存在しない。相互交換できるほど表現が均質に近づいているともいえるのである。マチスの『緑のすじのある肖像』は誰にもまねのできない芸当である。しかし表面性の強調=抽象化を推進したマチスの表現が、もっとも単純な『形』に還元されたとき、マチスの絵は、マチスという特殊な個性からはなれ、無名な状態、いわば材質の状態に近づいたということができよう。『形』はその中に『ダンス』や『室内』を描き込むいちばんはじめの下塗りのキャンバスに近いのである。もちろん彼にこのような作品が多いわけではない。マチスが消えてしまうような作品を作り続けるわけにはいかぬだろう。それは近代絵画の巨匠にふさわしくない。晩年のマチスが平面上のアラベスクの遊びのなかで装飾的で美的センスの洗練をうたうことになるのは、不思議なことではない。しかし重要なのは、彼個人の喜びに敬意をはらうことではなくて、マチスが推進した絵画の表面性の強調が、絵画をそのもともとの前提であった平面におし戻したこと、内容であった客体が、内容をもる容器へと転倒したということである。
(『絵画論』「マチスの悪夢」宇佐美圭司著)

ここでも『形』と『緑のすじのある肖像』をご存知ない方のために、図版を紹介しておきます。
『形』は次のアドレスからご覧いただけます。
https://media.artgallery.nsw.gov.au/collection_images/1/151.2014.21.a-pp%23s%23S.jpg
『緑のすじのある肖像』は次のアドレスからご覧いただけます。
https://i.pinimg.com/originals/b1/12/96/b11296d406bbf96f2bf88552b999c217.jpg

学生時代の私は、このような宇佐美圭司の理論の推進力に、ただただ圧倒されました。このように絵の制作と理論を絡ませた説得力のある文章を読むこと自体が稀有なことであったし、この宇佐美の理論の展開に異論をはさむことなどできるはずもありませんでした。そして、マチスの芸術の行きつく先がマチスの消滅であり、その袋小路から脱出するためには、宇佐美のような新しい理論による絵画を自分も創造しなければならない、というふうに追い詰められていました。このあたりの経緯は、以前にもこのblogで書きました。
私は、このように自信をもって持論を展開し、それを堂々と世に問うことができた宇佐美圭司に敬意をはらう者ですが、その一方でいまでは私自身としての異論を持っており、そのことを宇佐美の文章にぶつけることを、彼はきっと許してくれるでしょう。
まず、この宇佐美の文章には、いくつか引っかかるところがあります。
一番引っかかるところは、「マチスが消えるのである」という一節、つまりマチスの『形』を私が真似て制作するとマチスという芸術家が消えてしまう、という点です。確かに『形』はマチスの中でも最もシンプルな作品で、それに近い作品をつくることも可能なのかもしれません。しかしそのためには、私は「一枚の白い画用紙と少しニュアンスのちがうブルーの二枚の色紙」をそろえるところから、マチスを真似しなくてはなりません。そしてマチスの作品の形状をよく見ながら、同じような形を切り抜くわけですが、それはマチスの作品をお手本にするからできることです。このようなシンプルな方法で、まるで人間のトルソーのように力強くて心地よい作品ができるということを創造したのは、マチスです。その創造行為の全体を考えてみると、けっして容易にまねできることではありません。
それから、この作品がマチスの作品の中でもっともシンプルであることから、彼の芸術の到達点であるかのように解釈するということは、一つの見方に過ぎません。私は、この作品がマチスの代表作だとは思いませんし、人の形をした作品なら、もっと好きな作品があります。ここで語られていることは、マチスの芸術を「絵画をそのもともとの前提であった平面におし戻したこと」に意義を見出す、宇佐美の立場から見た結果なのです。理論家である宇佐美は、マチスの方法論がどのような結論をもたらすのか、ということを厳しく問いかけていますが、このように作品の方法論を極端に突き詰めた作品がマチスの創造行為の結論だ、と考えるのはひとつの意見に過ぎないのです。
そしてもうひとつ、宇佐美は「まねる」ことが可能かどうか、ということをひとつの価値基準のように語っていますが、その点にも疑問があります。宇佐美は「マチスの『緑のすじのある肖像』は誰にもまねのできない芸当である」と言っていますが、だからこの肖像画には価値がある、という理屈なのだとしたら、それには頷けません。宇佐美圭司ほどの理論家が、たんに技術的な難易度を芸術的な価値として認識しているとは思いませんが、この言い方を突き詰めると、そういうふうにも読めます。また、マチスの『形』という作品が複製可能であり、そのことが作品の価値を貶めている、という話であれば、それはベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)が『複製技術時代の芸術』で提起した「アウラ」(オーラ)の問題ともつながってきますが、それはまたの機会に検討しましょう。
これらを通じて読みとれることは、この『絵画論』という著作が、ピカソ、モンドリアン、マチスなどから発する現代絵画が方法論的な行き詰まりに達していて、その危機的な状況から脱するためには、宇佐美自身が自ら提起しているような方法論が有効なのだ、ということです。そして宇佐美はそのことを正面から世に問うているのです。
そのような思考の過程の中で「マチスの悪夢」という章が書かれているわけですから、マチスの芸術のたどり着く先が、悪夢として認識されるようなものでないと困ります。そのために、宇佐美の豊かな知見が総動員されて書かれているのです。
その一連の思考に対し、かつて私はただ頷くしかありませんでした。しかし現在では、発展期にあったマチスの絵画をこれだけ鋭く分析できた宇佐美圭司が、もう少し違った結論を導き出せなかったのだろうか、と少し残念な気持ちを持っています。宇佐美は著作家であると同時に実作者でもありましたから、自分が制作を続けるために新たな方法論を開拓しなければならなかったし、それをみごとに実践した人でもありました。そこのところが、一歩引いたところから見ることの多い評論家とは違うのだと思いますが、それにしてももう少し幅広い結論を導き出すことは不可能だったのでしょうか。
例えば、もしも私が学生時代の私に出会ったら、この方法論でも十分に面白い絵画が展開できるはずだよ、と言ってあげたいところです。世の中には抽象絵画と具象絵画を中途半端に掛け合わせたような絵画があふれていますし、公募展や団体展の展示室の壁面を見れば似たような作品が所狭しと並んでいるわけですが、マチスの絵画をていねいに学んでいけば、それらとは一線を画した作品がきっと描けるはずです。そして、そういう良質の絵画を見分けることができる人にも、きっと出会えるはずだよ、と言ってあげたいですね。もちろん、それも私にそれだけの能力や才能があれば、という話ですが・・・。
ただ、私の例は別として、いまの時代は芸術が持っている豊かな可能性を、その時代性を気にせずに突き詰めることの出来る時代なのではないか、と思います。たとえそれがはるか以前の古典的な絵画や彫刻であっても、いま、それを辿りなおすことで豊かな意味が生まれるのであれば、ためらう必要はありません。このところ、しつこく言及しているマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )の哲学が、そのことを私に教えてくれました。いま、もしも古典や近代、現代の美術を学び、そこに新たな可能性を見出している若い方がいたら、がんばってください。応援しています。

ところで、このblogでもよく取り上げる藤枝晃雄(1936 -2018)という美術評論家がいます。フォーマリズム批評の日本における代表的な評論家ですが、彼が『絵画論の現在』という本を残しています。これは美術手帖という雑誌に連載されていたエッセイをまとめたもので、私は毎月、この連載を楽しみにしていました。その頃の私ははっきりと気が付かなかったのですが、フォーマリズム批評というものが、実は藤枝の師でもあるグリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)以降、痛烈な批判にさらされていて、それを主導したのがグリーンバーグの教え子でもあったクラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )たちであった、ということがあったのです。評論家の誰がどういう主張をしているのか、日本ではあまり気に留められないし、判然としないことが多いのですが、そのなかでも藤枝はぶれない批評の姿勢を示していました。それだけにフォーマリズム批評に対してどのような批判があり、またどのような誤解があったのか、ということも意識していたと思います。『絵画論の現在』は、そんな状況下で藤枝が、フォーマリズム批評がいかに絵画を語り得るのか、ということを示した本だとも言えるのです。
前置きが長くなりましたが、その『絵画論の現在』の中で藤枝がマチスの絵を取り上げています。その作品は『ニースの大きな室内』(1921)という、マチスの中でもどちらかと言えば地味な作品です。『ピアノのレッスン』から5年が経過しており、マチスはアグレッシブに平面化を推し進める作品を描いたのち、落ち着いた味わいの作品を描くようになりました。それらの作品は、美術愛好家からは好まれそうな作品が多いものの、現代美術の批評で取り上げられることはあまりありません。藤枝は、そういう作品をあえて取り上げているのです。藤枝はそのあたりの事情をこんな風に書いています。

わが国でマチスがにわかに注目されるにいたったのは、マルスラン・プレーネの「マチスのシステム」とフランク・ステラなどの賛美による。絵画を化石と考えていた者たちが突如としてマチスを取り上げ、それを絵画忘却の罪障を逃れるための免罪符とする。
(『絵画論の現在』「アンリ・マチス『ニースの大きな室内』」藤枝晃雄著)

マルスラン・プレーネ(Marcelin Pleynet、1933 - )はフランスの詩人、評論家で、美術運動「シュポール/シュルファス」に大きく影響した人です。フランク・ステラ(Frank Stella, 1936 - )については言うまでもありません。日本の現代美術が海外の流行に影響され、一時は絵画を古臭い表現だと見なしていたにもかかわらず、ステラの活躍やプレーネの批評によってにわかに絵画に、そしてマチスに注目しはじめたことに対する、藤枝の痛烈な批判です。そして、ここで取り上げた『ニースの大きな室内』については、こう書いています。

マチスに対する評価は、欧米においても評価の仕方の相違-個々の作品を対象とするほうに比重をかけるか、ある作品なり全体的な印象によってすべてを代表させるかの相違-はあっても一定していたのではない。概して、1920年代に向かうにつれて衰弱していったと見なされた時期がある。してみると、テラスに座っている女性とインテリアを描いた『ニースの大きな室内』は、衰弱に向かうアンティームな作品といえそうだが、はたしてそうなのかどうか。
(『絵画論の現在』「アンリ・マチス『ニースの大きな室内』」藤枝晃雄著)

解説するまでもありませんが、アンチーム(フランス語 intime)とは「くつろいでいるさま、親しいさま」ということですから、この作品は衰弱に向かったマチスが安楽な作品を描いたもののひとつと見なされている、ということでしょう。ちなみに『ニースの大きな室内』の画像は次のアドレスからご覧いただけます。
https://farm4.static.flickr.com/3059/2583063336_91b66a6855.jpg
あえてそういう作品を取り上げた藤枝が、その作品についてどのように書いているのか、というと次の通りです。長い引用になりますが、「突然、絵画を擁護しはじめた批評家」と揶揄されている峯村敏明(1936 - )との綱引きが興味深いので、ぜひ読んでみてください。

ある日、何かの理由によって突然、絵画を擁護しはじめた批評家のひとりは、『ニースの大きな室内』についてこう説明している。「高い位置から平面的に捉えた手前の空間が、ねじれるようにして窓外の透視空間に吸い込まれてゆく」、そして、開かれた窓は、この二つの異質な空間の仲立ちをするとされる。対象の捉え方は、基本的にジェイコブスに近いが、彼は手前が平面的で、窓の外が透視空間とはいっていない。この絵画の特徴は、いま引用したものとは反対の見方をすれば理解できる。手前の空間が、俯瞰されてはいるが、床の勾配が急になっており、そのために平面的ではなく立体的になっている。窓の外は通常の視点から描かれている点で透視空間をもつといえなくはない。見るものと女性の間には距離間があるが、それはまさに手前の空間が平面的ではないからである。だが、女性の後ろでは海の上に空が幾何学的に積み重ねられていて手前の空間よりもはるかに平面的である。透視空間の視点によって描かれながら透視空間に拒まれているのであって、そこに手前の空間が「吸い込まれてゆく」のではなく、その逆、すなわち手前の空間を積極的に作り出し、画面を見るものの手前に広げている。透視空間なら、海、空は立ちあがり、空の色彩のカーテンへ、鏡、化粧テーブルへと結びついてゆく。テラスの床、窓の横と下にある淡い黄褐色は、壁の模様とそこに掛けられた絵、鏡の枠、そして大きな肘掛け椅子へと連なる。
(『絵画論の現在』「アンリ・マチス『ニースの大きな室内』」藤枝晃雄著)

確かに、手前の室内は俯瞰的に描かれているために、床が平面的に描かれていると言えなくもないのですが、マチスの絵にしては壁と床との角度がしっかりと感じられ、そこに箱型の空間を感じさせています。その点から言うと、藤枝の分析に分があるように感じます。そして窓の外の空と海は「吸い込まれていく」ような奥行きを持っているというよりは、平面的に描かれているように感じます。このように分析した後、藤枝はマチスのこの絵をどのように読み解いているのでしょうか。

この作品でマチスが表しているのは、人間とか事物の関係からさらに、これによって成り立つ室内の、不可視の空気なのである。『赤の調和』では、室内と窓から見られる風景が空間的にほぼ同じ次元にあり、それによって画面が単調にならないように強い色彩の対比が用いられている。『ニースの大きな室内』で、画面はわれわれ見る者の手前に進出する。それは大きな肘掛け椅子の色彩にゆだねられ、平面的になされるのではない。上から見下ろされ、斜めにかしいでいる室内において、あわい黄褐色とピンクの対比は『赤の調和』ほど強烈ではない代わり、そこには深さがあり、空気に満ち膨張した室内=空間があり、それがわれわれに開かれている。ここでは、西洋の伝統が逆転されて息づいている。
(『絵画論の現在』「アンリ・マチス『ニースの大きな室内』」藤枝晃雄著)

ちなみに、『赤の調和』は有名な作品ですが、次のアドレスからご覧いただけます。
http://classconnection.s3.amazonaws.com/1503/flashcards/765343/png/26.9.png
藤枝がこの作品批評から言いたかったことは何でしょうか。
「そこには深さがあり、空気に満ち膨張した室内=空間があり、それがわれわれに開かれている」と藤枝は書いていますが、「われわれに開かれている」という部分がポイントでしょう。マチスがこの絵で描いた室内空間は、立体的な空気の塊を感じさせると同時に、それが私たちの方に広く開放されているように感じます。すべてが平面的に描かれていれば、このような空気の塊を感じることはありません。おそらく、その空間を見る者と共有するために、手前の室内を箱型に描いたのでしょう。そしてこのような空間の塊を感じさせることが「西洋の伝統」なのだろうと思います。マチスの試みたことは、その伝統的な空間をこちらに向かって解放したということで、それが「逆転されて息づいている」という意味でしょう。
そして藤枝はここにおいて、新しければ良い、という芸術観を示してはいません。それに、マチスの絵画が衰退していった、という一般的な見方も否定しています。時代の流行の先端を見るのではなく、一枚の絵画としっかりと向き合うことで、その絵画が表出する空間の質を問題にしようとしているのです。
私自身、この時期のマチスの、このような類の作品を彼の衰退期にあるものと考えて、あまりていねいに見てきませんでした。しかし、反省してもっと作品と向き合う必要がありますね。私はこのような藤枝の批評の姿勢に賛同します。彼には、もっと多くの作品を取り上げてほしかったくらいです。
そしてもうひとつないものねだりをするとしたら、藤枝晃雄にはもう少し現存の画家で、このような作品を描いている画家を発掘し、批評してほしかったと思います。晩年のマチス風の作品が氾濫する日本の画壇の中で、もしも良質の作品を取り上げるようなことを彼がやっていれば、具象的な絵画においても本物の美術批評の必要性が喚起されたことでしょう。藤枝晃雄ほどの批評家がそういう姿勢を見せれば、日本の絵画はもっと変わっていたのかもしれません。
そんなことができるものなら、自分でやれ、と言われてしまいそうですね。
そんな力はありませんが、とりあえず、わかりました、がんばります、と言うほかありません。なかなか展覧会を安心して見に行ける状況ではありませんが、機会があれば少しでも本物の作品を見たいと思っています。

 
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