平らな深み、緩やかな時間

117.『阿部 隆 新作展』(トキ・アートスペース)から絵画について考える

街の画廊が少しずつ活動を再開し始めたところで、東京は連日200人を越える感染者のニュースが重くのしかかります。東京都は県境をまたがないようにしてほしいようですが、その一方で国の「Go Toキャンペーン」は前倒しで実施のようです。この状況では計画というものが立ちにくく、何が良いのか悪いのかわからないので、軽々しく批判めいたことは書きたくありませんが、とにかく、文化や教育の分野においても経済の分野と同様の配慮をしていただけるとありがたいです。

そんな中ですが、東京・神宮前のトキ・アート・スペースで開催中の『阿部 隆 新作展』を見に行きました。余計なことですが、画廊近くのパーキングまで車で行き、寄り道せずに展覧会だけを見て帰り、その間マスクを取ったことは一度もありませんでした。この行動が「正しく感染を恐れる」ことに合致するのかどうかわかりませんが、貴重な展覧会はぜひとも見ておきたいものです。まだ7月19日まで開催していますので、みなさんも無理のない範囲でご覧になられると良いと思います。トキ・アート・スペースの場所は、みなさん、ご存知だと思いますが、念のため画廊のホームページを記載しておきます。
http://tokiart.life.coocan.jp/2020/200706.html
さて、上記のページには2点の作品が掲載されていますが、今回の本物の作品と比べて陰影が濃く、明暗のコントラストが際立っているところが気になります。今回の作品をイメージするためには、以前の展覧会のページになりますが、例えば次のアドレスを開いてみてください。
http://tokiart.life.coocan.jp/2018/180910.html
ここに写っている作品の方が、全体の印象は今回の作品群に近いと思います。ただ、作品の密度の濃さ、という点では、今回の写真の方が展示作品に近いと言えるのかもしれません。むずかしいですね。
でも、今回の阿部隆志の作品の素晴らしいところは、明暗のコントラストに頼ることなく、作品の密度を上げたことにあります。それも、どの作品も粒ぞろいで、描き込みの度合いや支持体の素材にばらつきがあるのに、どれも絵画的な奥行が安定しているのです。そのあたりをくわしく分析してみましょう。

阿部の作品を見ていくにあたって、まずは今回の画廊のホームページに作家自身が寄せている言葉を書き留めておきましょう。

 構造について考えすぎると絵が老いる感じがする。完成を夢見るよりこの絵が今、生きているかを問題にしよう。
 いたずらに相対的で稚拙な自己分析でもって自分自身を分解してしまう前に、今一度<感ずること>をより意識化すべく作業に向かい合おう。
(トキ・アート・スペースのホームページより)

この言葉は、実は今回の展覧会のために書き留めたものではなくて、2013年に他のギャラリーでの展覧会にも、作家のノートとして引用されていたものです。つまり、少なくとも7年間ぐらいは、阿部はこの言葉の思いを継続して持ち続けている、ということになるのでしょう。この言葉から読みとれることは、それほど多くのことではありません。阿部は作品について観念的に考えるよりも、作品と接する感覚を重視しているということ、その感覚というのは「生きているか」という問題意識によって感受されるものであること、というところでしょうか。
この「生きているか」という問題意識ですが、これは絵画表現として見れば、画面が生き生きと息づいているように見えるのか、ということになるのでしょう。このような問題意識は、抽象表現主義以降のモダニズムの絵画を正統に継承している作家であるなら、誰もが意識しているのではないでしょうか。自分の描いた描線が、自分の残した筆致が、いま描かれたばかりのように、目の中で動き出すように見える絵画、それは絵画がその描画行為の最後の瞬間から、過去に描かれた遺物になるという事実に抗う、モダニズム絵画の夢のようなものなのです。
それにしてもなぜ、モダニズムの絵画はそういう夢を追いかけるのでしょうか。古典的な絵画においては、描かれた人物や物が精巧に描かれているのかどうか、宗教的な絵画や歴史画であれば、そこに崇高さや臨場感など、鑑賞者の心を打つ要素があるのかどうか、が画家にとって問題であったはずです。それが、画面そのものが「生きているのか」どうか、とか、絵画が生き生きと息づいて見えるのかどうか、という価値観に転換したのは、明らかにモダニズム以降、もう少し詳しく言えば抽象表現主義以降のアメリカ絵画を経験した後に、私たちが感じるようになった価値観だと思います。
そのことに言及したのは美術評論家の宮川淳(1933 – 1977)ですが、このblogでも何度か引用した彼の『引用の織物』にその明晰な解釈が記されていますので、それを読んでみましょう。

アメリカ美術の《プロテスタンティズム》を語るとすれば、われわれはなによりもまず描く行為の現在進行形-イリュージョニズムを否定する禁欲性に支えられたこの現在への意志をこそ挙げなければならない。
アクション・ペインティングの名付け親であるハロルド・ローゼンバーグはつぎのように書いている。

<行為である絵画は作家の年代記から切りはなすことはできない。絵画自体が作家の生活というまぜこぜの混合物のなかのひとつの《瞬間》なのである。>

ここにはほとんどプロテスタンティズム(あるいはカルヴィニズム)の世俗内禁欲と職業倫理を想わせるものがありはしないだろうか。シュルレアリスムのオートマティスムには恩寵への幸福な信仰があるとすれば、描くことの現在進行形には、たしかにマイケル・ジェイコブスも指摘するように、カルヴィニズムの予定説の救いと堅忍とのディアレクティクにも似たものがある。
(『引用の織物』「記憶と現在」宮川淳著)

プロテスタンティズム(Protestantism)とは、もちろん16世紀のカトリック教会に対抗した宗教改革の根源となった理念です。そしてカルビニズム(Calvinism)と言えば、その宗教改革者カルバン(Jean Calvin、1509―1564)から発した思想ですが、いずれにしろアメリカ建国の祖となったメイフラワー号の清教徒(ピューリタン)たちから連綿と続くアメリカ合衆国の精神的な支柱となった理念だと言えるでしょう。そして「カルヴィニズムの予定説の救い」というのは、キリスト教の神の救いが訪れるという「予定説」を、カルヴィニズムにおいては現世での積極的な活動とリンクして解釈され、いまを積極的に生きることを肯定する理念となっているのです。その理念が、伝統の無い国であるアメリカの資本主義を支えてきた、というふうに分析できるのです。
宮川は、抽象表現主義の代表的な画家ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)のドリッピングによる絵画を「アクション・ペインティング」と名付けたハロルド・ローゼンバーグ(Harold Rosenberg、1906 – 1978)の言葉を取り上げています。そしてその言葉の中に、今を生きる作家の描画行為を肯定的に捉えようとする、ローゼンバーグの言葉の中にアメリカ的な理念を読みとろうとしたのです。

ちょっと話がそれますが、その「描くことの現在進行形」を重視する理念は、やがてアメリカ美術のみならず全世界的に広がっていきます。例えばアメリカで抽象表現主義の画家たちが活躍していた頃に、フランスではアンフォルメル(Art informel、非定型の芸術)と呼ばれた画家たちが活動していました。そのなかのジョルジュ マチュー(Georges Mathieu、1921 - )という画家は、制作行為を重視するあまり、作品の公開制作を積極的に行って話題になりました。しかし、その一見派手に見える作品は、いまでは歴史的な価値以上のなにものでもありません。マチューの作品に見られるのは、演劇的な大仰な行為がそのまま絵画表現に反映できるという誤解であり、日常の行為が表現行為として昇華されるには、やはりそれなりの何かが必要だというあたりまえの事実です。そういう誤解は現在でも続いていて、むしろ絵画や彫刻と言った明確なジャンルがなくなり、メディアの発達によって表現行為が容易になった今だからこそ、わけのわからないものが増えたような気がします。美術批評の言葉も単なるジャーナリズムの広告と見分けがつかなくなり、この先はどうなっていくのか、先行きはかなり暗いと言わなくてはなりません。しかしとりあえず私にできることは、良い作品と出会ったことをこうして書き留めるぐらいのことしかありませんので、それを実践していくことにします。

さて、ここまでちょっと話が長くなってしまいましたが、「絵が今、生きているかを問題にしよう」という阿部の態度が、モダニズム以降の絵画をいかに正面から受け止めているものなのか、ということが分かっていただけたのではないでしょうか。そしてこのような態度は、まったくタイプは異なりますが前々回に取り上げた高島芳幸とも共通していると思います。阿部の絵画が一見、抽象表現主義か、その後のカラー・フィールド・ペインティングのように見えたとしても、また高島の作品がミニマル・アートの作品のように見えたとしても、それらはすでに終わってしまった表現などではありません。どのような表現活動にも終わりはありませんし、彼らがいま、制作の上で感受している問題意識は間違いなく現在のものですし、これからも追究する価値のあるものです。
そのことを、阿部の作品を具体的に見ながら考えてみたいと思います。

例えば、今回の展覧会で奥のスペースの左の壁にある作品を見てみます。その壁の二点の作品のうちの奥の壁に近いところにかけられている、向かって右側の作品です。まるで印象派のモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)の絵画のような明るい色調の中で、青や黄、オレンジ色のタッチが美しい作品です。絵具の層は厚く、もしかしたら旧作の上から改めて制作されて、仕上げられた作品なのかもしれません。みなさんもご存知のように、モネは晩年において表現主義的なもうろうとした作品を多数描いています。私はそれらの作品が大好きですが、ひとつだけ無いものねだりがあって、それはモネの絵の空間の深さに関することです。モネは印象派の画家の中でも比較的、絵の奥行が浅い画家で、それは彼の日本の絵画への興味が影響しているのかもしれませんし、睡蓮の池の絵に見られるような平面的なモチーフを好んだことも関係しているのかもしれません。しかしそれでも、やはりモネは19世紀から20世紀初頭の画家なので、モダニズムの絵画と比べるとたっぷりとした空間感覚があり、それが絵画空間の深さにつながっているのです。もちろん、そういう絵として素晴らしい作品なのですが、もしもモネが抽象表現主義以降の絵画を見ていて、さらに絵画の平面性を前面に押し出した作品を制作したとしたら、どんな絵画が描かれたのだろうか、と想像してみたくなるのです。フランスの「シュポール/シュルファス(支持体/表面)」運動の代表的な画家、ルイ・カーヌ(Louis Cane, 1943 -)がそれらしい絵画を描いていると知り、彼の作品を見てみましたが、どうも物足りません。それが今回のこの阿部の作品を見た時に、とうとうそういう作品とめぐりあえたな、という気がしました。この作品は絵具の塗りは重厚ですが、比較的明度の高い色で描かれていて、全体に重たい感じはしません。それでいて軽々とは見過ごせない、絵画特有の平面的な緊張感、いわゆる張りのある画面になっているのです。それも明らかにそれとわかるような形体の対照性や画面構成によるものではなく、あくまでももうろうとした画面のなかで醸し出されている緊張感なのです。おそらく淡い色彩の相互の影響関係、作家が画面に触れるときの平面的な意識などが、そういう絵画を生んでいるのだと思います。

その作品と様相の似た作品が、反対側の壁の対角の位置にあります。やはり絵の具が厚く、これも古い絵具の層の上から改めて描かれた作品なのかもしれません。さきほどの作品よりも色が深く沈んでいて、それでてい紫がかった色と黄やオレンジがとてもうまく響き合っています。先ほどの作品が、ほとんど絵の表面と同じくらい手前の位置に画面が感じられたのに対し、こちらの作品はそれよりも少しだけ深いところ、手で触れたらすっぽりと手のひらが入ってしまうくらいの位置に画面があるような感じがします。しかし、ここでも明暗のコントラストや形体の対比は避けられていて、それでいて平面的な緊張感を感じるのです。

さらに、その左の作品に目を移してみましょう。作品のあり様としては、この作品は、いま見てきた2点とはまったく異なります。むき出しのキャンヴァスに薄く溶かれた青い絵具でさらっと描かれただけの作品です。画面全体に広がる筆致はところによって強く、あるいは弱く、キャンヴァスの張り具合を確かめるように自由に触れられています。一色だけで即興的に描かれた作品だと思ってよく見ると、白い絵具の跡がところどころであって、その滴った絵具の痕跡が、青い絵具のそれと合わさって一体化して見えます。もしかしたら、深すぎた青い色を抑えるために上から白が塗られたのかもしれません。いずれにしろ、その白い色が画面の平面性を強調していることは間違いありません。そしてこんなふうにシンプルに描いても、画面に平面的な張りを感じるのです。この作品は、例えばジャズのコンサートを聞きに行ったときに、バンドの重厚な演奏の合間にサックス奏者がほとんどきまぐれに短いソロ演奏を聴かせてくれたような、そんな作品なのだと思います。ほんの短いアドリブの一節であっても、演奏者がどのようなレベルにあって、彼がどのような音楽を奏でたいのか、ということが伝わってきます。こういう作品を見ると、阿部が絵画と交感することのできる本物の画家であり、表現者であることがわかります。
これも余計な話になりますが、アメリカの抽象表現主義の絵画以降、抽象絵画と言えば大きな作品が注目されがちです。そして、大きな作品を制作することが、画家としての実力を示すものだ、という誤解もあります。しかし私は、ある日本を代表する抽象画家がとんでもない小品を描いているのを見て、がっくりとしたことがあります。大きな作品を見ると物量的に圧倒されることが多く、それだけで素晴らしい作品に見えてしまいます。しかし、前前々回ぐらいに取り上げたマイケル・フリード(Michael Fried、1939 - )の言葉に従えば、それは「演劇的」な大舞台で鑑賞者を説得してしまうような安易な方法でしかありません。そういうことに慣れてしまっている画家は、大作を描くための手順が無効になってしまうと実力が丸裸になってしまうのです。阿部のように絵画との間で生き生きとした交感をするためには、画家は絵が描けなければならないし、日々絵と接することも必要です。絵画表現には理論的な構築だけでは何ともならないものが確かに存在するのです。

ここまで取り上げた作品が、重厚なものとそうでないものの対照をなすものだとすれば、今回の展覧会のスタンダードとなるものは、奥の壁にかかっている2点の作品ということになるでしょう。
左側の作品は黄色を基調とした作品で、右側の作品は青を中心とした作品に見えますが、たぶん、使っている色合いはそれほど変わりはないでしょう。しかし、左側の作品の方が絵の具の薄さが際立ち、筆を引っぱるように使っている分だけ渋い色彩になり、またその分だけ基底材の位置をはっきりと感じます。右側の作品はそれよりも絵具の色を残していて、その分だけ色彩を用いて画面に触ろうとしている意志が伝わってきます。その触れ方の違いはあっても、そのいずれの作品も絵の表面に近い位置に画面があることに気が付きます。今回の阿部の作品で一様に言えることなのですが、画面の位置、つまり絵の深さが一定していて、旧套的な絵画のように奥には行かないし、逆に浅くて物足りないということもありません。
さらりと書いてしまえばそういうことなのですが、実はこのように安定した位置に画面を据えるということは、難しいことです。とくに阿部のように形体もなく、色彩も制限せず、基底材もさまざまなヴァリエーションを試みながら、このように描き進めていくことには困難が伴います。私の場合で言えば、どうしても眼が刺激を求めてコントラストが強くなり、結果的に画面がひずんでしまったり、とりとめのない空間になってしまったりするのです。しかしこの正面の2点の作品を見ただけでも、そこには継続的な画面とのやり取りが感じられ、その不断の営みの結果、適切な絵の深みが獲得できたのだとわかります。例えていえば、それはマラソン・ランナーが日々のランニングを積み重ねていくように、あるいはボクサーがさまざまな相手とスパーリングをするように、阿部は絵と接していたのでしょう。この2点の作品は、その日々の中の典型的な時間を切り取っただけで、仮にこの展覧会がこの2点だけで構成されていても、その背後に大量の作品が存在することが分かるのです。

そして阿部の絵画の全般において言えることですが、それらの基底材の素材感、絵具の溶き方、色彩の表出の仕方、絵具のマチエールなどが、彼の描画行為の中ですべて一体になっていて、そのどれかひとつの要素だけを抜き出して分析したり、探究したりしても意味がない、ということです。そんなことをしてしまえば、作家が大切にしている「絵が今、生きているかを問題にしよう」という努力が台無しになってしまいます。それは例えば、人間の身体をいくら切り刻んで分析しても、それが呼吸をし、心を持って活動していることが理解できないことと同じです。このことは、このblogを読んでくださっている方なら、どこかでマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )の考え方につながっていることに気が付くのではないでしょうか。「構造について考えすぎると絵が老いる感じがする」と阿部は書き留めていますが、芸術について考えるときに自然科学的な考察には限界があることを、彼は感じ取っているのだと思います。
ここで阿部とは逆に、モダニズムの絵画の構造を考え、制作のすべてを方法論として表現するような、そんな作家のことを考えてみましょう。そのもっとも優れた例が、私はゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 1932 - )の抽象絵画だと思います。彼の制作方法を動画で見ることができるようですが、作品を見ただけでも十分にその方法を理解できます。併置するべき色彩を考え、それを板状のもので一気に延ばしていくのです。その方法論は、モダニズムの絵画に取り組む画家たちが、どのようにして表現行為の「瞬間」性を実現したものなのか、と腐心していた問題を一気に攻略する優れた方法でした。しかし、例えばこんな意見もあります。

そうそう、ポロックだって数少ない、いい作品というのは。リヒターとかサイ・トゥオンブリーとかブライス・マーデンも、あれは絵画というものを作家も評論家も見るほうもそうだけど、描くことを細分化してきたものですよ、この30年間。リヒターはただ明るい、一見強力に思われる色を現代美術の認識論的な教科書として塗ってるだけでしょ。文法というのがすでにありすぎるわけね。
(『武蔵野美術 NO.110(1998年11月発行)』「絵画/平面」藤枝晃雄・鼎談での発言)

以前にも、どこかで引用したことのある藤枝晃雄(1936 -2018)の発言です。私はリヒターの作品が嫌いではないし、初めて見た時には感動もしました。しかしその後、彼の作品の構造が見えてくると、その先が楽しめない作品だということに気が付きました。作品の出来栄えが安定していることはさすがですが、そこから私は何を感受したらよいのでしょうか。リヒターがモダニズムの絵画を深く理解していること、そして表現者として最善の方法を見出したこと、そのことについてはいまでも感動しますが、そこから先にリヒターが見たいと思っている絵画が、私にはよくわかりません。
その一方で、阿部の絵画には、その一点一点に対し、ドキドキするような興味を感じます。実を言えば、これまでの阿部の絵画には、画面の位置に不安定な奥行を感じることが多くて、しっくりとくるものとそうでないものとのムラがありました。しかし今回のように、作品としてはヴァリエーションがありながら、画面の位置が彼の行為を感受させるのに適したものばかりが揃ってみると、彼の絵画との交感の様子がひしひしと伝わってきて、興味が尽きないのです。

おそらく、芸術というものはいろいろな人がかかわり、いろいろな形で発展し、広がっていくものでしょう。知的に芸術の領域を分析し、それを広げていく人もいるでしょうし、その広げられた領域を反芻し、さらに芸術の意味を豊かにしていく人もいます。前者は改革者としての困難が付きまとい、認められるのに時間がかかる場合もありますが、ある意味でわかりやすいものです。その一方で後者は評論家にとっては語りにくく、多くの人が気づかないところで良質の仕事が埋もれていくことが多いのではないでしょうか。阿部や高島の絵画は、まさにそのような仕事だと思います。しかし、彼らが埋もれたままでよいはずがありません。そこで思い出される批評があります。
これも以前にblogで取り上げた文章ですが、持田季未子(1947 - 2018)という研究者がこんなことを書いています。

本書の野心は、絵画の現象学とでも呼べそうな方法で作品をできるだけ厳密にたどり創作の本質をとらえるようにしつつ、テクストに言葉を与え、ディスクール(言説)の次元に引きつける端緒をみつけ、無言のテクストを世界・社会・歴史・人間に向けて開くことなのである。絵画を美術史の言説の内部に閉じ込めておいてはならない。絵画を思想に向けて開くディスクールが必要である。それは行為者である当の画家たち自身がよく成し得るところではない。ここに批評の出番がある。
「絵画の思考」というものが存在するとすれば、それはどんな性質のものだろうか。描くときに活動する思考とはいったいどのような思考か。私たちはフランスの批評家ユベール・ダミッシュとともに、問いを、
「画家にとって考えるとはどういうことか?」
というふうに立て直してもよい。画家(生身の個人を指すのではなく、絵画的エクリチュールを実践しつつある存在を指す)の思考はたとえば哲学者の思考とどう異なるのか。それはどのようなことを可能にするのか。
芸術の思考は哲学のそれとちがって推論などによるのではなく、科学のように分析と総合を事とするのでもないが、しかし芸術には単に感覚や感情の発露にとどまらぬまぎれもない思考がある。私たちはそれを、遠いむかし幾何学的精神に対してより直覚的な繊細の精神の大切さを説いたブレーズ・パスカルに敬意をはらいつつ「繊細なる精神」と呼んでもいい。それは絵画という場所においても生動しているはずだ。
(『絵画の思考』「序」持田季未子著)

何度読んでも、心に響く文章です。持田の書いている通り、阿部や高島は絵画における思考を実践しており、彼らはそれをある程度の言葉にもしています。それだけの手掛かりをもらいながら、私は彼らの「絵画を思想に向けて開く」だけの文章を紡げているのでしょうか?その自信はまったくありませんが、勉強を継続しなければ何も改善しません。少しずつでも努力を続けましょう。
今日のところは、このあたりが限界のようです。


最後に、東京の感染状況がますます心配ですが、前回お知らせしたように上野の森美術館で私の作品が1点だけですが展示されます。7月23日から始まる『なんでもない日 ばんざい!』という展覧会です。この展覧会にかかわらず、行政の適切な感染防止と文化活動の両立に期待するところです。
いま、星野源のオンラインのライブを見ている若い方も多いと思います。文化行政の方々も、民間の一音楽家に負けずに頑張ってください。若者の心を掴まなければ、どんなジャンルにも未来はありません。

 
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