平らな深み、緩やかな時間

176.再び『小田原ビエンナーレ2021』、ジャコメッティ、宇佐美英治『見る人』から

『小田原ビエンナーレ2021』の第二期が終わりましたが、私の後に展示されている方の作品を昨日、見に行きました。終了のギリギリになってしまったので、事後報告になってしまうのが残念です。
ギャラリーNEW新九郎は海老塚耕一、上楽寛、野村俊幸のベテランの三作家です。ベテランらしく、お互いを引き立て合うスッキリとした見事な展示でした。色のある野村さんの作品とモノクロの上楽さんの作品が向かい合って並び、奥に海老塚さんの作品がそのスペース全体を作品化してしまうように、しっかりとした存在感を示していました。個人的には、多様な表現手段を持つ野村さんの一つの面の作品しか見られなかったのが、ちょっと残念でした。しかし、はじめて彼の作品を見た人は、その美しさにびっくりしたのではないでしょうか。
アオキ画廊の加藤仁美さんと平塚幹男さんは、ユニークな発想の作品です。私が見ていたときに親子連れが入ってきて、小さな女の子が平塚さんの人の形を不思議そうに見ていました。加藤さんの作品は、紙の本に対する愛着に溢れていて共感が持てました。もしも私だったら、文字のある本を作品にしたいなあ、などと空想しました。
ピアノカフェ伊勢治の駒林文代さん、杉木奈美さん、米満泰彦さんは、ふだん画廊での展示を見せていただいていますが、こういう空間での小品展示も良いですね。米満さんとは20代からの付き合いですが、その作品の前でコーヒーをいただきました。振り返ると杉木さんの緻密な都市風景があって、駒林さんの花びらのような形が広がっていました。カフェのお店の方も親切で、「どうぞ、ゆっくりご覧ください」と声をかけていただき、心地よい時間を過ごせました。
ツノダ画廊では白井嘉尚さんと八田淳さんの紙の作品です。八田さんのことは、以前にここで書きましたが、藤村さんがカタログの文章で書いていた猫を見つけました。それから壁の一部が透明になったように、後の風景が透けて見える部分があって、これは作者自身の視点の移動を表現しているのかな、と考えました。画廊主の角田さんと、ここの部分が欠けているのは始めから描かなかったのか、それとも後から抜いたのか、などとあれこれお話ししたのも楽しかったです。白井さんの作品は一枚の作品として素晴らしいものが何点もありました。組作品として全体を捉えたときにどのような意味があるのか、その答えを見出すのに私にはもう少し時間が必要です。
昨日は朝起きると台風の影響の雨風が強かったのですが、無理して出かけてよかったです。神奈川県内のコロナウイルスの感染者がこれまでで最多となりましたが、ビエンナーレの会場内は安全だと思います。まだこれからも会期がありますが、いらっしゃる方は小田原への移動の際に、ぜひ感染予防にご注意ください。
それにしても、政治家や知事は自粛せよ、と簡単に言いますが、オリンピックというお祭り騒ぎを開催しておいて、よく恥ずかしくもなく一般市民にそういうことが言えますね。それに横浜市民の方は、林市長が選挙演説でこう言っているのをご存じですか?「コロナを抑え込み、絶対に重症化させない。横浜の医療スキルは高く、市内病院が連携している。この大都市でも重症化する方が少なく、病床逼迫はしていないので安心してほしい。」(8月9日 朝日新聞より)私は横浜市民ですが、安心できてよかったです。
菅首相も記者会見と言えば、ワクチン接種が進んでいるという自慢話ばかりで、まったく危機感がありません。しかしいざとなると、彼らは経済活動からもっとも遠いと思っている文化や教育行政の自粛を真っ先に狙うのです。見たい展覧会があれば開館しているうちに博物館や美術館へ行った方が良いのでしょうか、迷うところです。

さて、その小田原ビエンナーレに関連して話を続けます。
もう二週間ほど前になりますが、私の展示会場に職場の若い同僚が来てくれました。彼女は英語の先生ですが、実はかつてフランス語を勉強していたことがわかりました。そこに偶然、旧知のフランス語を専門とする友人が来てくれて、話に花が咲きました。フランス映画のことなどを話してその日は別れましたが、数日後に私は『想い出のサンジェルマン』というドキュメンタリー映画のことを思い出しました。ずいぶん前に見たものですが、この映画は1940年~50年代のパリのサンジェルマン・デ・プレの街の様子を描いたものです。街頭やカフェに集う若者たちとジャン・コクトー(Jean Maurice Eugène Clément Cocteau, 1889 - 1963)らの芸術家、ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre、1905 - 1980)らの哲学者が登場していたと思います。その中心になっていたのが作家、詩人のボリス・ヴィアン(Boris Paul Vian, 1920 - 1959)でした。それぞれの人が自己主張し、ときに議論をする様子などが、パリの自由な雰囲気を感じさせてうらやましい気持ちになったことを思い出しました。パリという街はただのおしゃれな場所ではなくて、文化的に見ても魅力的な場所だったということを、その同僚と話すことができてうれしかったのです。
しかし実は、私はその映像作品よりも色濃く、パリの夜のカフェについてのイメージを持っていました。それは彫刻家、画家のジャコメッティ(Alberto Giacometti、1901 - 1966)について勉強していたときに得たイメージです。ジャコメッティ関する本を読むと、そのたびに夜のカフェで会話する場面が出てきて、それがなかなか印象的なのです。ジャコメッティが出入りしていたモンパルナスの街と、先ほどのサンジェルマン・デ・プレではだいぶ雰囲気が違っていたと思いますが、1950年から60年代のパリという点では共通しています。
そのことに加えて、少し前に見た神奈川県立近代美術館の『空間の中のフォルム』という展覧会で、久し振りにジャコメッティの作品を見たことも、私の記憶に影響したのだろうと思います。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/exhibition/2021-forms-in-space
そこで今回は、ジャコメッティを通してその当時のパリの雰囲気について書かれたものを読み直してみたいと思います。ジャコメッティに関する膨大な本の中から、誰の書いた本を選ぼうかな、と考えたときに、『空間の中のフォルム』に出品されていた『裸婦小立像』(1946年頃)が、宇佐見英治が所蔵していたものだったことを思い出しました。詩人でフランス文学者、美術評論家でもある宇佐美英治(1918 - 2002)には、『見る人』というジャコメッティについて書いた文章をまとめた本があります。『裸婦小立像』のことも書かれていますので、後でご紹介することにしましょう。
それではさっそく、宇佐見の『見る人』を読んでみます。

蓬髪を風になびかせ、長身で頑丈なジャコメッティは、片足をややひきずりながら、毎夜半モンパルナスに姿を現した。それは何十年来の習慣で、彼はアレジアに近い場末のアトリエで真夜中腕が動かなくなるまで彫刻の仕事をつづけ、それから遅い夕食をとりに、街に出かけてくるのだった。モンパルナス・ヴァヴァンに近いレストラン・クーポールやドームのバーにゆくと、そんなジャコメッティがときに一人で、またたいていの場合は奥さんや二、三の友人に囲まれて、一日一度の正餐をとっているのが見られた。「アルベルト、仕事はうまく行って?」とアネット夫人がいうと、「うまくゆかない。随分遠くへ来ていることは事実だが、まだ到底できない。もう少しのことができない。もう少しのことができないということは、すべてができないということだ。時間がない。時間がない。」彼はそういって、ときどき他の客がふりむくような奇声を放った。「アルベルト!」と奥さんが制すると、彼は肩をすくめて、たちまち奥さんや向きあっている友人の顔を新聞紙の上にボールペンで描き出すのであった。
<中略>
私は1960年の夏から冬にかけて、アネット夫人や限られたジャコメッティの友人たちとしばしば彼を囲んで夜食を共にした。(われわれにとっては夜食であったが、先に書いたとおり、彼にとってはそれが夕食であった。)彼が入ってくると、夜が一段深まるのではなく夜明けがそれだけ近づく戦(おのの)きが感じられたのをいま私は思い出す。
ジャコメッティは自身でもそれを認めているが、いわば夜行性の人だった。昼間から仄暗い、泥と石膏と埃で埋まったイポリート・マンドロン街のアトリエで、彼はモデルを前にたえまなく注視し、たえまなく腕を使い、夜は裸電球が霞むまで仕事をしつづけた。パリにいる限り一日として仕事を休まず、旅行をしなかった。夜半食事に出かけるときにも、決して深酒をせず、午前二時か三時半になると、ひとり飄然と夜の街をさまよい、仕事に帰っていった。
(『見る人』「夜と死者たちの時」宇佐見英治)

この部分からでもジャコメッティの一日がどんな感じなのか、おおよそわかりますが、この本の後半に載っている矢内原伊作(1918 - 1989)との対談によれば、それはこんな感じです。
朝はそれほど早くない時間に起きて(昼ごろ?)、午後の一時からモデルを前にして仄暗いアトリエで制作を始めます。ジャコメッティは暗さを気にしない人だったようですが、日が暮れて制作できなくなると近所のカフェに行って、コーヒーを飲んで一休みします。それからアトリエに戻って、今度は裸電球の灯りの下で再びモデルを前にして別の作品の制作を始めます。夜中の十二時か一時頃になって、やっとカフェで一日に一度の食事を取ります。深夜二時か三時頃に食事が終わると、アトリエに帰って、モデルなしで試行錯誤をして、次の日の制作について考えるのです。明け方に寝ると、昼ごろに起き出してモデルと制作を始める、という繰り返しだったようです。これが土曜日も日曜日も関係なく続き、常に「5分の時間が惜しい」と言っていたようです。
こんなふうでは、ジャコメッティはストイックで暗い人のように想像しますが、実はそんなことはなく、モデルを務めた矢内原とはよく話し、またカフェでの食事は一時間ぐらいかけるので、その中で人と会って、ときにはさまざまな議論もしたようです。こんな生活は辛そうでしょうか?私には理想の生活に思えます。私は色を使う仕事をしているので、アトリエの照明が暗いことだけは気になりますが、それ以外は文句ありません。あまりアトリエにこもりすぎると作品が独りよがりになりそうですが、ジャコメッティの場合は、食事の時間が議論の時間ですから、私のようにわざわざ東京の画廊まで出かけなくても、他人からの刺激をもらえたのでしょう。もしもあなたが美大生だったり、美術系の学校に勤めていたりすると、こんなことは何でもないことだと思うのでしょうが、一般的な社会に出ると、他人と芸術に関する話をするなんてことは、まずありません。あなたが学生で、コロナウイルス感染防止のために学校に行けず、引きこもって自宅で制作をしていたとするなら、まさに私の生活はそんな感じです。仕事で多くの人と毎日会っていますが、芸術的な意味での他者との出会いはありません。ですから、例えば先ほどの若い同僚との会話などが貴重な機会なのです。ジャコメッティが故郷のスイスではなく、パリに暮らしていたのは、やはりこの一見過酷に見える生活が、彼にとって芸術を制作し、思考していく上で理想的だったからだと思います。
それでは、そのカフェでの会食は、どんな様子だったのでしょうか。宇佐見はそういうことを生き生きと書いてくれているので、とてもありがたいです。

私の友人、矢内原伊作がモデルをしていたその夏、私たちージャコメッティ夫妻と彼と私ーは、ほとんど毎晩、夜中の、カフェ・ドームのバーで食事をしていたものだ。もっとも私は何も彼のためにしていないのに、毎回御馳走になるわけにゆかず、多くの場合はただ飲物をとって同席していた。(バーといっても一般にパリのバーは広く、明るく、閑散なものである。そしてどこでも夜どおしかなりうまい食事がとれる。)
深夜のそんな席にふらっとジャコメッティを訪ねてくるのは、前に書いた女たちのだれかか、独特の友人たちであった。医師のフランケル氏、麻薬中毒にかかった詩人のオリヴィエ・ラロンド、ラロンドの友人でラロンドを寄宿させている貿易商のジャン・ピエール、ニューヨークの画商で画家マティスの息子であるピエール・マティス、平素はジュラに住んでいた女流詩人のレーナ・ルクレール。私がときどき顔をあわせたのは、こういう人たちであった。
ジャコメッティは仕事着の背広のまま街に出て来たが、上衣の両ポケットやズボンのポケットには夕方に買っておいた実に沢山の新聞が突っ込まれていた。(ときには「現代」誌や「N・R・F」が、またその頃彼が愛読し始めた探偵小説が入っていることもあった。)「ドーム」か「クーポール」の食卓に坐ると、まず彼は新聞を広げる。スープのスプーンをおくと、次の皿が来るまで、彼はひとしきり読む。食後も読む。われわれはわれわれで勝手にその日の出来事を話す。
<中略>
もちろんジャコメッティもたのしく話に加わった。「そうか、きみは今日ルーブルのプーサンを見に行ったのか。それはよかった・・・プーサンがそれほど好きじゃないという君の意見に私も同感だ。プーサンはキュビズム以来の最悪のもの、つまり視覚におけるメカニズムの元凶ともいうべきものだ。あそこにはすでにピカソがあり、現代絵画のすべてがある。しかし君もいうとおり彼の色彩はすばらしい。それにプーサンもまた人間はすべて小さく描いているではないか」彼はそういい、いつのまにかペンをもち、いま読んだ新聞紙の上に、眼の前にいるアネット夫人の顔を描き出す。眼から鼻へ、鼻から耳、耳から口へ、すべてが同じ曲線でつながったあの渦を、あのコイルのようなデッサンを。彼はときどき手をとめて呟く。「時間がない、ああ、時間がない」「早く仕事を始めなくちゃ」
夜の親しい仲間とのこの団欒は、いわば一種の開かれた家庭であった。そこでは各人が自由であり、孤独であり、必要なときには他の者の話に耳を傾け、ときに心を確かめあい、またひとりびとりになって闇の中に消えてゆくのだった。アネット夫人さえ例外ではなかった。睡くなったから、といって立ち上がり、明日があるからといって、誰かが別れの言葉をかけると、ジャコメッティは必ず「どうぞ好きなように」というのだった。ときにはそんな団欒のなかから、ジャコメッティはふっと立ち上がり、バーの窓ガラスを下に押して、その横木に腕をのせながら、午前二時の人通りの絶えた街を、10分も、20分も見ているのだ。「アルベルトはどうしたのかしら、また街を見ているわ。」アネット夫人が呟く。そして彼の背をめがけて叫ぶ。「アルベルト、どうしてそんなに街を見ているの、どうしたのよ。」ジャコメッティは振り向きもせず、ただ床の足を動かして、「実に美しい。何という美しさだろう」、そう呟きながら、なおも夜気に顔をつけているのだった。
(『見る人』「法王の貨幣」宇佐見英治)

つまらないことかもしれませんが、「バーといっても一般にパリのバーは広く、明るく、閑散なものである。そしてどこでも夜どおしかなりうまい食事がとれる。」というところが、羨ましいですね。日本のファミレスの深夜営業よりも情緒がありそうですし、コロナ禍の今ではそれすらも懐かしい話です。
そして、これはさまざまな会話のほんの断片なのでしょうが、例えばプーサンが現代絵画の元凶だという話など、もっと聞きたいですね。ニコラ・プッサン(Nicolas Poussin, 1594 - 1665)は、バロック時代のフランスの画家で、本によって「プサン」「プーサン」とも表記されます。日本人に馴染みの画家とは言えませんが、古典的なフランス絵画の総本山のような大物です。日本で言えば狩野派の大物、狩野永徳(1543 - 1590)のような人だと言えるでしょう、時代的にも近いですね。私は、モダニズム絵画の病理が古典派にまで遡ることができる、というジャコメッティの考え方に完全に同意します。それゆえに、ジャコメッティがモデルの写生にまで戻って制作を続けたことも、よくわかるのです。こんな会話が毎晩、ジャコメッティとできたなら、それはもう最高に楽しそうですね。
このように、ジャコメッティの芸術について考えるときに、彼の言葉、彼の生活のすべてがそのヒントになります。今回は彼のパリでの生活を知ることが目的でしたから、これ以上の深入りはしませんが、宇佐見や矢内原の本をお読みになったことがないなら、ぜひ読んでみることをお勧めします。
最後になりますが、予告した通り『空間の中のフォルム』に出品されていた『裸婦小立像』に関する文章を書き写しておきましょう。ここに書かれている小像(マケット)が『裸婦小立像』と同一のものである証拠はありませんが、まず間違いないでしょう。

私はジャコメッティからもらった小さなマケットを持っている。少し力をこめて押せば崩れかねないこの石膏の人物像は、比較的大きな台座にのっているが、高さがやっと5センチを越すほどである。それは小さいが五体をそろえた立像で、表面には微かだが勢いの強い突兀(とつこつ)がある。脚は異様に長く伸びている。体躯は芯になる一本の細い針金で支えられているが、堅固に築かれ、充分に肉付けされて、台座の上にそびえている。それ羽を立てた蝶のように空間を切る身体の刃だ。じじつ側面から見ると、この微小な像はまるで一枚の刃物のように薄い。
いまその小像を机の上の任意の箇所におくと、像はたちまち恐ろしい空間を孕む。遠くから見ると始めは地平線上に小さな棘のように見えてくるあのシャルトルの尖塔よりも遠く、像は机上に、しかも明らかに私の眼の前にある。この小像は私と像との間にそのような広大な距離を生むばかりか、背後に気の遠くなるようなひろがりを生む。それは遠い遠い砂漠につながり、彼方の海をひきつれ、私の視線を幾千年の過去にさまよわせる。この人物はわれわれのあずかり知らぬ遥遠のなかから現れ、過去から未来に向かって歩んでくるのか、逆に過去に向かって返ってゆくのかわからない。
<中略>
像が生むこの強力な空間の威圧を何ものが支えうるだろうか。私はそのときふっとサッカーラのピラミッドを思い浮かべる。ピラミッドを彼方に思い浮かべるとき、私は彼の小像が辛うじて微笑むように思う。だが、ピラミッドは像に比べて何と小さいことだろうか。
(『見る人』「法王の貨幣」宇佐見英治)

略したところには、この文章と同じくらいの量の像に関する記述が続きます。それは詩人らしく、像が巻き起こす時空の変容を語っていますが、なるべく具体的な記述に留めておきたいので中略の形を取りました。ちなみにサッカーラのピラミッドとは次の通りです。「サッカラ(Saqqara)は、エジプトにある広大な古代の埋葬地であり、古代エジプトの首都だったメンフィスのネクロポリスだった。サッカラには多数のピラミッドがある。中でも有名なジェセル王のピラミッドは、その形状から階段ピラミッドとも呼ばれる。他にもマスタバがいくつかある。現在のカイロから南に30kmほど行ったところにあり、7km×1.5kmほどの領域をサッカラと呼んでいる。サッカラという地名は、エジプトの葬祭神ソカル (Sokar) に由来すると言われている。」(wikipediaより)ということですから、私たちがイメージする巨大なピラミッドに違いありません。いずれにしても「ピラミッドは像に比べて何と小さいことだろう」ということは物理的にはあり得ませんが、小さな彫像が巨大なピラミッドよりも広大な空間をうちに含んでいるのだ、という詩人の感性が言わせた感想なのだと思います。
それにしても、なぜこのような小さな彫像があるのでしょうか。一時期のジャコメッティは、彫像を作れば作るほど小さくなってしまう、ということがありました。そのことについても、宇佐見はこの本の中で書いているので引用してみましょう。

ジャコメッティは第二次大戦中二、三年間ジュネーブのホテルの一室でディエゴ(弟)をモデルに彫刻を作りつづけたが、彼が目指す類似をうるためには、いつも彫刻が10センチ、3センチと小さくなってゆき、ついには地上から消失してしまうのをくりかえし経験した。彼は二年間毎日制作をつづけたが、ただの一作をも残しえず、戦後もそのため一年同地に滞在をのばしたことは、今ではよく知られている話だ。以来彼の彫像は、彼自身も驚いたことに、消失しないために高さを一定にすると、細くなればなるほど現実に似てくるのだった。
(『見る人』「夜と死者たちの時」宇佐見英治)

自分の作る彫像が消えてなくなってしまうので、高さを一定にしなくてはならなかった、というのは面白い話です。そして辛うじて形の残った彫像は、細く削れば削るほど現実(のモデル?)に似てくる、というのも興味深いです。確かにジャコメッティの針金のような肖像彫刻は、モデルとなった矢内原やアネットの写真とそっくりです。それにしても、これらの逸話のいずれもが、凡人にはあり得ない話です。

さて、こんなふうにジャコメッティがカフェでどう過ごしたのか、などという話が彼の芸術と関わりがあるのでしょうか。私は大いにあると思います。彼はつねに芸術のことを考え、寸暇を惜しんで制作した人ですが、だからといって、他人と話したり、議論をしたり、場合によっては人の意見を聞き入れたり、ということを晩年まで惜しまなかった人です。あるとき、ジャコメッティはこう言っていたと言います。
「若いときには、アンドレ・ブルトンもアンドレ・マルローも夜おそく、このモンパルナスの街を毎夜のようにぶらぶらしていたものだ。しかし今では彼らは滅多にこの街に顔を出さない。・・・今でも夜更けのこの街を浮浪人のようにぶらぶらしているのは自分だけになってしまった」(『見る人』「歩く男の像」宇佐見英治)
ただ単に、夜更けにぶらぶらしていることに意味があるとは、私も思いません。しかしジャコメッティだって、ブルトンやマルローのように巨匠や大物としてモンパルナスから離れて暮らすこともできたはずです。しかし、彼はそうしませんでした。
おそらく、制作と対話を能率的に繰り返すには、モンパルナスでの生活がぴったりだったのでしょう。そういう風通しの良さが、芸術には必要なのだと思います。今は多分、世界中のどこにも、当時のパリのような街はないのでしょうが、制作と対話を繰り返すことだけは忘れたくないものです。
幸いなことに、私はもう巨匠や大物になることはありませんので、街の画廊でみなさんの声を聞きながら制作を続けることができます。このblogを読んでくださっている若い方の中には、将来、巨匠になる方もいらっしゃると思いますが、ぜひ、こんな三流芸術家の文章にまで目を通す広い心を持っていたことを忘れないでいてください。それに巨匠になって、自分の作品が高い資産価値として買い取られて、大企業の倉庫の中で眠ってしまう、というのは悲しい話ですよね。作品を取引きの対象としてしか見ない人たちが大金を握っているのですから、これはよくある話です。これに対して、ジャコメッティには魅力的な逸話があって、宇佐見はそれをアネット夫人の話として紹介しています。

「アルベルトといったら変なのよ」と或るときアネット夫人が私にいった。「昨日或る画商がやってきて、ヤナイハラの首を一点400万円で6点ぬき、売ってほしいといってきたの。夕食のとき、ほら、アレジアの例のカフェで会ってね。そしたらアルベルトが画商にいうの。なぜ君はそんなに高い値で、私の作品を買うのか。私の作品はそんなに値打ちのあるものじゃない。もっと廉く買い、廉く売ってはどうかって。それじゃ困る」アネット夫人は満更でもなさそうに苦笑しながら、そういった。
(『見る人』「パリ・サンファン」宇佐見英治)

ジャコメッティを知れば知るほど、好きになります。

 
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