年末から年始にかけて、村上春樹(1949 - )のラジオを聞いていました。ゲストはノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥(1962 - )と、ゴリラの研究で有名な、京都大学総長、日本学術会議会長も務めた山極壽一(1952 - )でした。年が明ける前に山中伸弥と、年が明けてから山極壽一との対談でした。
印象的だったのは、山中伸弥との会話の中で、山中がドイツのメルケル首相の説得力のあるメッセージについて触れたのに対し、村上春樹が日本の政治家は自分の言葉を持っていない、「自分の言葉を持てない政治家は、ブルース・コードを弾けないエリック・クラプトンみたいなもの」という面白い比喩で返していたところでした。しかし、このようなウィットに富んだ比喩では、話題の対象になる政治家には、何のことだかわからないでしょうね。
それから、山極壽一との会話では、学術会議の政府による会員任命拒否について、かなり話が広がりました。任命拒否そのものが山極にとって驚きでしたが、その理由を首相に問いただしたときに、理由は言えない、という返答に民主主義の危機を感じた、ということでした。学術会議は専門家の集団だから、専門家の立場から意見を述べ、政治家は政治家の立場でそれを生かせばいい、というあたりまえの話が展開し、必要以上に専門家の意見を警戒するのは政治家の自信の無さの表れであり、それを無理やり強権によって解決しようとするのは、猿の群れの特徴に似てきている、というのが山極の意見です。猿に比べてゴリラのボスは群れの意見にも耳を傾けながら判断するので、いまこそゴリラに学ぶべきだというのが二人の結論でした。こういうふうに自由に意見を述べること、そこに風通しの良いユーモアを交えることを忘れたくないものです。
ネット上の監視的な社会状況にも話が及びましたが、そういえば以前に村上春樹が「首相は自分の言葉で語っていない」というコメントをのべたところ、ある著名人から「日本人なのに日本の首相を批判するのはおかしい」という趣旨の意見がネット上に寄せられました。村上が首相を批判したように、村上の発言を批判する人がいるのはいいとして、その理由がちょっと信じられません。これは日本の為政者に対する批判封じでしょうか、不健全な管理的志向性を感じます。
そのほか、学術会議のメンバーが中国の研究者招致「千人計画」に協力している、という情報がある新聞に載り、それに乗っかるように政治家のコメントがネット上で流れていますが、真偽のほどは分かりません。中国で働いている日本人はたくさんいますし、学術的な研究をしている人も少なからずいるでしょうから、その人たちにいわれのない偏見や非難が及ばないか、心配です。いずれにしろ、学術会議の今回の問題とかかわらないことが、こういう機会にささやかれることに疑問を感じます。
この番組でもっとも印象的だったのは、山中教授がコロナ・パンデミックによる世界の変容をまったく読めなかったことを告白したうえで、これまで良しとされたグローバル化が変わってくるのかもしれない、という感想を述べたところです。実は前回も取り上げたマルクス・ガブリエルも、『美術手帖』のインタヴューで次のように述べています。
現在もわれわれが暮らす社会空間は、HIV感染とエイズの存在とともに構成されています。同様に、現代社会も今後何十年にもわたって新型ウイルスとともに構成され続け、不規則でランダムな集団感染があるでしょう。つまり、「コロナ後」の世界は存在せず、すべての経済的打撃が人間のシステムに衝撃を与え続けるということです。だから私たちはみな、ローカルなものの復活を目の当たりにしているのです。これは正しい行動だと思います。人類のローカライズを始める必要があります。それはもちろん、私たちがばかげた自国中心主義のようなアイデンティティのモデルに後退することを意味しませんし、私が哲学者として日本へ行ったり、日本人のアーティストが、インドネシアに住んだりすることができなくなるわけではありません。しかし、以前よりも移動の量を抑えた生活に、愛着を持つ必要はあるかと思います。私たちは移動手段に関して、とてつもない発展の段階を遂げてきましたが、新型コロナウイルス、さらには気候危機といったものが、これを不可能にします。
アート界は、現状を制作の対象に変え、何かに貢献し、新しいコミュニティづくりを始めるべきだと思います。ローカル・ツーリズムは、今後数十年で大きな成長を遂げるでしょう。アーティストにとっては、空間を飾るだけでなく、空間そのものを考案するまたとない機会です。そしておそらく、アートはこれから都会に限った現象にはならないでしょう。なぜ、コンテンポラリー・アートをつねに都市空間と見なすものと結び付けるのでしょう。なぜ、ドイツの田舎にコンテンポラリー・アートがないのでしょう?これこそ、パリが19世紀の、そしてニューヨークが20世紀のアートのキャピタル(中心地)であったことの影響です。21世紀には人類の単一のキャピタルは存在しないのです。
(『美術手帖 2020年10月号』 特集「ポスト資本主義とアート」マルクス・ガブリエル)
いつものように、マルクス・ガブリエルはポジティヴです。このコロナ禍によって、世界的な市場という考え方は、縮小を余儀なくされるのかもしれません。あなたが、自分の作品がいつかニューヨークの市場で数百億円で取り引きされることを夢みている作家でしたら、がっかりするのかもしれません。しかし、あなたが住んでいる地方であなたの作品を愛する人たちの間で、あなたの作品が展示され、取引されるとしたら、なかなか素敵なことではないでしょうか。もちろん、それでは経済的に回って行かないと言われるでしょう。だから前回紹介したように、マルクス・ガブリエルはベーシック・インカムを当然のようにやるべきだと言っています。
もちろん、それを実現するためには、いろいろやらなければならないことがあります。
こんなことを書くと、何を気の長い話を、と笑われるのかもしれませんが、まずは教育です。みんなが近所の美術館や画廊に出かけ、自分の気に入った作品を自宅に飾り、それぞれが自分の趣味を誇りに思うようになるには、美術に限らず、そういう人間的な営みを大切に思うような人を少しずつ増やしていくしかありません。それには、学校教育をはじめとして、さまざまな機会に文化的なことに親しむ楽しさを、多くの人に知ってもらうしかありません。
それから、マルクス・ガブリエルが言うように、ローカル・ツーリズムが成長していくのだとしたら、そこにコンテンポラリー・アートが入っていくことも大切です。肝心の作家たちが、「コンテンポラリー・アートをつねに都市空間と見なすものと結び付ける」のでは、うまくいかないでしょう。大規模な〇〇ビエンナーレのように、世界各地のアーチストをある場所に集める、というのも知見を広める良い機会でしょうが、もう少しその土地に、作家も鑑賞者も継続的に根付いていくような方法がないものでしょうか。それでいて、偏狭なナショナリズムや地方主義に陥らないような・・・、考えると道のりは遠いと感じますが、世界が変化を求めていることは間違いありません。ネガティヴに考えずに、少しずつ進んで行くしかないのです。まずはコロナ禍にあっても足を運べるような文化的な場所が近所にあれば、その場所を大切にしていきたいものです。
今回も、前置きが長くなってしまいました。新年早々、新型コロナウイルスの感染状況が悪くなっている一方で、政治があまりにも無策なので、つい言いたいことが増えてしまいます。次回からは控えます。
それでは、今回は前々回からの流れで、谷川渥(1948 - )による『美学講義』のなかで気になっていた、フランク・ステラ(Frank Stella, 1936 - )の『ワーキング・スペース』と、ロザリンド・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )、イヴ=アラン・ボワ(Yve-Alain Bois ,1952 - )の『アンフォルム』についてですが、前回は『ワーキング・スペース』について書いたので、今回は『アンフォルム』について書いてみます。
ところで、私はこれまでにもロザリンド・クラウスの著作について、二回ほど触れています。
4.『オリジナリティと反復』「序」と 田中恭子の作品について
110.『視覚的無意識』ロザリンド・E・クラウス
よかったら、これらのblogもお読みいただければ、と思います。
そのうちの「4.『オリジナリティと反復』「序」と 田中恭子の作品について」で私は、『アンフォルム』について、次のように書いています。
クラウスはグリーンバーグとは「正反対の立場に立っている」と書いていますが、これは構造主義とモダニズムの違いでもあります。さらにクラウスは、「アメリカの一世代の批評家たちの批評的・知的発展」に「視覚芸術に関わる批評家はほとんど含まれていない」と書いています。つまり、彼女と同世代の構造主義以降の評論家には、ほとんど視覚芸術の分野に関わる者がいない、ということです。なぜなのかと言えば「ニューヨークを中心とする美術界が『芸術と文化』の衝撃に見舞われていた」からだというのですから、グリーンバーグの影響の大きさをあらためて感じてしまいます。
さて、そのグリーンバーグとは「正反対の立場」とは、具体的にどんな立場でしょうか。
クラウスは、イヴ=アラン・ボワと組織した展覧会『アンフォルム』において、「低級唯物論」「水平性」「パルス」「エントロピー」という四つの概念を提示しています。それらは、例えば絵画を平面性へと純化していったフォーマリズムに対して「低級唯物論」があるように、グリーンバーグ的な視点をずらすことによって、グリーンバーグが捉えきれなかった課題に取り組んでいく、というようなものだと思います。
クラウスの論文は視野が広くて難解・・・、というのが正直な感想ですが、もうすこし読み込めば理解も進むのかもしれません。くわしくは、もうすこし時間をおいて書いてみたいと思います。
(4.『オリジナリティと反復』「序」と 田中恭子の作品について)
このように書いておいて、ずいぶんと時間が経ってしまいましたが、かといって『アンフォルム』を読み込む学習が進んだのかと言われれば、まったくそうではありません。しかし、いくら時間をかけてもクラウスやボワの言っていることを十分に理解できるレベルには達しそうもありませんから、このあたりで『アンフォルム』という著作、展覧会について書いておきたいと思った次第です。
この『アンフォルム』ですが、私の手元にあるのは『アンフォルム』という一冊の本です。しかし、その成り立ちはかなり複雑なものです。
まず、イヴ=アラン・ボワとロザリンド・クラウスの共同キュレーションにより、1996年にパリのポンピドゥー・センターで『アンフォルム 使用の手引き』という展覧会が開催されました。その展覧会のカタログとして書かれたのが私の手元にある『アンフォルム』の原形ですが、そのカタログの図版などを絞りこんだ英語版があって、それを底本としながら改めて図版を補ったのが、この日本版だそうです。以上が本としての成り立ちの説明になります。
しかし本の成り立ちよりも、そもそも『アンフォルム 使用の手引き』という展覧会がどのような事情で組織されたのか、ということの方が興味深いところです。
これまでのblogでも紹介してきたように、もともとクラウスはモダニズム批評、フォーマリズム批評の第一人者であり、アメリカ現代美術の大物であったクレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)のもとで学びました。しかしやがてクラウスはフォーマリズム批評に対し、ポストモダニズムの理論を導入してその批判を展開しました。その拠点となったのが、『オクトーバー』という学術誌で、ボワはクラウスと一緒にその編集委員を担当しました。『オクトーバー』誌はマサチューセッツ工科大学出版から1976年に刊行された季刊誌でした。ハル・フォスター(Hal Foster, 1955 - )、ベンジャミン・ブクロー(Benjamin H. D. Buchloh, 1941 - )らも関係していたようで、日本語に訳されていないのが残念です。私のように外国語ができない人間からすると、あこがれだけが広がりますね。
そのような状況において、クラウスとボワはフランスの思想家、作家であるジョルジュ・バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille、1897 - 1962)が提唱した「アンフォルム(L'Informe)」という概念に目をつけました。この「アンフォルム」という言葉について、『美術手帖 ART WIKI』の前半部分を引用しておきます。
フランスの思想家ジョルジュ・バタイユが、自ら事務局長を務めたグラビア雑誌『ドキュマン』で論じた、毛髪や泥、蜘蛛、痰といった、定まった理想の形を持たず、また何かの象徴として詩的な言語に置き換えられることのないような、取るに足りない物質を指す言葉。アンドレ・ブルトンにシュルレアリスムを除名された詩人や画家たちが集った同誌で、バタイユは、シュルレアリスムに潜むひとつの理念へと上昇しようとする志向を観念論として退ける一方で、同誌に掲載された足の親指や屠殺場などの大判の写真図版が示すように、身体を持ち都市を生きる人間がしばしば直視することを避けてしまう、不定形な物質としての現実を肯定する議論を展開した。
(『美術手帖 ART WIKI』副田一穂)
クラウスとボワはこのバタイユの「アンフォルム」をそのまま踏襲したのではなく、自分たちの理論の展開のために利用したのだと言えるようです。この「アンフォルム」概念を契機として、彼らは『アンフォルム 使用の手引き』という展覧会を企画し、その内容を「低級唯物論」「水平性」「パルス」「エントロピー」という四つのカテゴリーに分けました。さらにアルファベット順に28項目が取り上げられるなど、事典としての仕様にもなっていて、作品を一義的に解釈する普通の展覧会との差別化を図ったようです。
やれやれ、展覧会の企画意図の説明だけで疲れてしまいますが、グリーンバーグのフォーマリズム批評を超える企てというのは、それだけ大変だということでしょうか。
そしてさらに複雑な事情が絡んできました。この『アンフォルム 使用の手引き』という展覧会が企画されている段階で、『アンフォルムからアブジェクト(おぞましいもの)へ』という展覧会が、パリの別な機関で企てられていた、というのです。しかし、この後発の展覧会は取りやめになったのですが、クラウスはこの『アンフォルム 使用の手引き』のカタログの「結論」において、この「アブジェクト」と「アンフォルム」の差異について書かなくてはならなかったようです。私のように事情に疎い者にとっては、そのことがこの展覧会をますますわけのわからない複雑なものにしてしまっていて、ちょっと残念です。
そんな入り組んだ展覧会ですが、まずはこの「アンフォルム」の概念について、本のはじめにバタイユの言葉が引かれているので、それを書き写しておきます。
アンフォルム―事典というものは、もはや語の意味を与えるのではなくて語の働きを与えるようになるというところから始まるらしい。とすると「アンフォルム」はこれこれの意味をもつ形容詞であるのみならず、階級を落とす(=分類を乱す)のに役立つ用語、すべてのものは形をもつべしと全般的に要求する用語だということになる。「アンフォルム」という語が表すものは、いかなる意味においても権利をもたず、至る所でクモやミミズのように踏み潰される。実のところ、アカデミックな人間が満足するためには、宇宙は何らかの形をしているのでなければならない。哲学全体の目標はこれに他ならない。すなわち、ありのままに存在するものにフロック・コートを、数学的なフロック・コートを与えることだ。これに対して、宇宙が何にも類似していない、アンフォルムなものだ、と断言することは、結局のところ、宇宙が何かクモや痰のようなものだと言うに等しい。
ジョルジュ・バタイユ
(『アンフォルム 使用の手引き』イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス著 加治屋健司他訳)
これを読んでも、何のことやらわかりませんが、これはバタイユが『ドキュマン』誌の「批評事典」の項目から引かれているらしいのです。しかしこの「事典」というのは「語の意味を与えるのではなくて語の働きを与えるようになるというところから始まる」というのですから、私たちが事典をひいてその後の意味を知る、という通常のイメージとはずいぶんと異なるもののようです。そしてボワは「序論」において、次のように書いています。
そこで彼(バタイユ)は「アンフォルム」を定義することを拒否する。「「アンフォルム」はこれこれの意味を持つ形容詞であるのみならず、、階級を落とす(=分類を乱す)のに役立つ用語〈・・・〉だということになる。」これは、私たちが引き合いに出すことができるような安定したモティーフや、象徴可能な主題や、特定の性質というよりもむしろ、階級を落とすという操作を可能にしてくれる用語である。それも、下落させるとともに、分類を乱す、という二重の意味での操作である。アンフォルムそれ自体としては何でもなく、操作上の存在でしかない。それは卑猥な語と同じく行為遂行的なものであり、その暴力は、意味から生じるというより、この語を口にするという行為自体から生ずる。アンフォルムとは一つの操作である。
したがって、ここで私たちは、アンフォルムを定義しようと企てたりしない。もちろん、美術史という衣裳が、「ありのままに存在するものにフロック・コート」のようなものを付与してしまいはするだろう(私たちはバタイユを模倣しようとはしないし、私たちの事典はアルファベット順を尊重している)。とはいえ私たちの意図は、アンフォルムを働かせることにある。それも、ある種の軌跡や横滑りを位置づけるだけでなく、わずかなりとそれらを「遂行」しようというのである。それはたとえば、ジャクソン・ポロックの『五尋の底に』(1947年)が目玉焼き(それがクレス・オルデンバーグの目玉焼きであるにせよ)として読解できると示すことであったり、ジャン・フォートリエが『人質』展のオープニングでこれ見よがしに履いていたヘビ革の靴や、ルーチョ・フォンターナの『神の終わり』シリーズ中の一作に見られるピンクと同じようにキッチュである)と示すことであったりする。モダニズムのトランプを配りなおすことこそ、私たちの企図である―それは、モダニズムを埋葬すること、つまり、ある種の「ポストモダニズム」が長年にわたって懸命に行ってきた躁病めいた服喪の儀式をあらためて行うということではない。モダニズムの統一性はフォーマリズムと図像学の対立によって構成されてきたが、そこに内側からひびが入るようにし、いくつかの作品がこれまで読まれていたようには読まれないようにする、ということ(たとえば、ポロックの作品を前にしたときに目玉焼きを思い出してしまうようにするということ)である。
(『アンフォルム 使用の手引き』「序論」イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス著 加治屋健司他訳)
ここで語られていることは、「アンフォルム」の固定した意味や説明ではありません。「アンフォルム」を実践しよう、ということなのです。それが『アンフォルム 使用の手引き』という展覧会であった、ということなのでしょう。それでは、その展覧会の4つの区分について見ていきましょう。
1. 私たちは水平性から始めた。というのは、アンフォルムがもつ操作的な本性が最も明白になるのが、この水平性だからである。・・・・しかし、垂直的なものと水平的なものの対立は、人間と動物のあいだの位階秩序的な諸関係(より効果的に告発するために、バタイユはつねにこれらの関係をまず逆転させようとする)によって完全に限定されているわけではないことを指摘しておく必要がある。実を言えば、モダニズムはこうした対立のもう一つ別のヴァージョンをうち立てているのであり、そちらは人間の象徴的実践にのみ関わっている。・・・・
2. 低級唯物論は、観念論に抗してバタイユが行おうとしていた戦いにおける主要な武器である。彼は物質をフェティッシュ化(ないしは存在論化)することを克服しようとした。彼の考えでは、そうしたフェティッシュ化こそ唯物論の思想家たちが行ってきたことなのである。バタイユは次のように書いている。「唯物論の大半は、あらゆる精神的実体を除去しようと欲したにもかかわらず、事物間の秩序を記述してしまった。位階秩序的な関係によって観念論特有のものと特徴づけられるような秩序である。・・・」バタイユの議論によると、たいていの唯物論は、弁証法的唯物論ですらも、いや何よりもそれこそが、基本的に観念論的なのである。・・・
3. パルス(Pulse、短時間に急峻な変化をする信号の総称。また、脈動の意。)はバタイユの語彙には含まれていない。これが私たちの範疇の中に登場しているのは、私たちの方でバタイユの思考を敷衍したからにすぎない。(類推によって、次のように言うこともできるだろう。水平性と低級唯物論は、人間の直立や「純粋視覚性」の神話を反駁するするが、それと同じように、パルスは、モダニズムが視覚野から時間性を排除することを攻撃する)。この時間性の排除は、すでに述べた通りレッシングとともに始まった。レッシングは時間と運動をもっぱら物語と見なし、いずれも一つの終わりへと方向づけられていると考えた。それに対し、パルスは終わりの無いビートを含んでいる。それは純粋視覚性という脱身体的な自己完結に穴を開け、肉体的なものの侵入を励起する。・・・
4. エントロピー(entropy)(あらゆる体系におけるエネルギーの恒常的かつ不可逆的な散逸を意味する。この結果、物質の内部では無秩序状態と無差異状態が連続的に増大していく)もまた、バタイユの語彙から取られたものではない。(バタイユなら「濫費」と言う方を好んだだろう。これはエントロピーと同じ領野をカヴァーするものではなく、エントロピーの反対物とさえ思われるかもしれない。バタイユは、エントロピーの古典的な例―太陽系の冷却化は避けられないという例―を逆向きに用いられる。太陽は過度に濫費し、私たちに過剰生産と濫費を強い、それによってわずかな均衡までも維持させようとしているのである。エントロピーは否定的な運動である。それは、もともと秩序があるということ、その秩序が劣化するということを前提している。その反対に濫費は、もともと無秩序があり、過剰を通してそれを調整するということなのである。そのような調整は不十分であるがゆえにけっして成功しない―したがって、その競争は終わることがない。)
(『アンフォルム 使用の手引き』「序論」イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス著 加治屋健司他訳)
むずかしい言葉が並びますが、ごく単純に解釈してみましょう。
1. 水平性は、例えば絵画が平面を垂直に壁にかけて眺めることを前提としており、それを上方へと昇華していくイメージで批評したのがフォーマリズム批評であるとするなら、ボワとクラウスはそれを、水平性を強調することによって拒絶したのです。
2. 低級唯物論は、フォーマリズム批評が視覚を重視し、作品の物質性を軽視したのに対し、ボワとクラウスは作品の物質性をそのままに見ようとしたのだと思います。例えば画面に貼り付けられた釘やたばこがあれば、それを絵画におけるマチエールとして解釈するのではなくて、釘やたばこという(低級な)物質のままに見る、ということなのだと思います。
3. パルスはフォーマリズム批評が作品を視覚的なものと見なすことで、その時間性を排除してしまうのに対し、身体的なありのままの時間や運動をそのまま受け容れる、ということなのだと思います。
4. エントロピーは構造や秩序を重視するフォーマリズム批評に対し、それらを崩壊させるような作品を重視する、ということなのでしょう。
ボワとクラウスは、これらことを意味として提起し、それを象徴する作品を展示する、というのではなく、それらの意味が作用するような展覧会を目指したのだと思います。実際の展覧会を見ていないので何とも言えませんが、作品の様式や年代がさまざまな形で並べられた展覧会は、刺激的であると同時に、分かりにくいものであっただろうと思います。
そして、実際にこの展覧会の評価はどうであったのでしょうか。「翻訳者のあとがき」には、このように書かれています。
批判者たちによれば、以上のさらなる帰結として、『アンフォルム』は、それが攻撃しているはずのフォーマリズムと同じ陥穽におちいる。クラウス/ボワは、純粋に形式的な価値体系にもとづいて、新たな正典(カノン)を打ち建てているだけなのではないか、なるほど判断基準は<形式の確立>から<形式の解体>へと移行してはいる。にもかかわらず、現実から隔離されたある抽象的な場のなかで、限られた数の特権的個人=偉大な芸術家たちがなしとげる(純粋に形式上の)達成の系譜、という歴史的記述の構図自体はいささかも変わっていないのではないか。
(『アンフォルム 使用の手引き』「翻訳者あとがき」イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス著 加治屋健司他訳)
この批判は、ボワとクラウスがフォーマリズム批評の批判として論文を書き、展覧会を組織する限り、継続していくものなのではないでしょうか。フォーマリズムの批判として為されることは、フォーマリズムと表裏一体のものであり、モダニズムに拘泥されることからは逃れられないのだろうと思います。このことは、私自身のことも振り返って戒めにしなくてはなりません。しかし、それを踏まえたうえで、この翻訳者たちは次のような文章を寄せています。
本書で賭けられていたのは、乱暴に要約すれば、対象の多義性ということになるだろう。本書においてクラウスもボワも一貫して、作品の物質的特性・構造そのものが、単一の解釈を与えようとする試みの裏をかき、思いがけない意味を産出する、その過程を記述しようと試みている。見やすい例が「部分対象」の項目冒頭のジャコメッティ『宙吊りの球』の分析だ。ロラン・バルトが重要な参照項として引かれていることからも明らかなように、構造主義的視点がきわめて顕著な箇所だが、ここでクラウスは、ジャコメッティ作品が強くセクシュアリティを喚起する一方で、男性性/女性性の二極のあいだを(文字通り物理的な意味で)振動することにより、そのセクシュアリティをたえず揺るがし、曖昧な状態にとどめおくさまを指摘する。この分析の意義は、それ自体としてきわめて啓発的な読みを呈示していることにとどまらない。ここでのクラウスは、作品が特定的な意味を持ちうることを認めたうえで、形式的特徴が意味に対して行使する攪乱的な効果に説き及んでいるわけであり、その点で、彼女が(少なくとも具体的な対象と触れ合っているときには)必ずしも意味作用を頭から拒絶してしまうわけではないことを示す事例となっているのである。
(『アンフォルム 使用の手引き』「翻訳者あとがき」イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス著 加治屋健司他訳)
さらっと読んでしまえば、作品のいろいろな見方を示した展覧会だ、ということになるのでしょうが、ボワやクラウスなどの学者レベルになれば、これまでの見方をひっくり返すのは大変なことなのだと思います。そもそも、グリーンバーグのもとでフォーマリズム批評を学ぶということも、そこから離反するということも、その知的なエネルギーの量は私の想像を絶しています。
そして、彼らが「賭けた」解釈の多義性を、私たちがどう受け止めるのかが問題だ、と繰り返し翻訳者は書いています。なかなか、そういう水準で作品を受けとめるのは大変です。そもそもフォーマリズムの文脈をちゃんと知らなければ、そのような問題意識すら持てないのですから・・・。
最後に、この本を紹介するには、私では力不足であったと思います。しかし、この本はせっかく事典形式になっていますから、フォーマリズム批評について見なおすときに、時々開いて内容を反芻したいと思います。「アンフォルム」という概念の正しい評価、使い方は、次の谷川渥の文章のなかに書かれている通りでしょう。
ですから、これはイヴ=アラン・ボアが言っていますが、アンフォルムという概念は操作的な概念、オペレイティヴな概念であって、実体概念ではない。実体概念だと誤解すると、たとえば、画廊に土をぶちまければ、これはアンフォルムで、いままでと違ってすばらしいではないかということになりかねない。そういうことを言っているのではないのです。絵画はあくまでもひとつのフォルムです。全体的なフォルムであるのだけれど、フォルムの内なるアンフォルムの問題を考える必要があるのではないか、というひとつの問題提起をしたのだろうと思います。
(『美のバロキスム 芸術学講義』「フォルムとアンフォルム」谷川渥著)
おそらく、私たちのそれぞれがフォーマリズム的なものの見方に疑問を感じた時、この「アンフォルム」の問題提起を参照し、前へ進めばよいのだろうと思います。私の感触からすると、どのように前へ進めばよいのか、はこの本には書いてありません。ここにあるのは、これまで見てきたものの別な解釈であって、新たな創造は私たち自身が担うしかないのだと思います。
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