「桑山忠明展」(1月14日まで)を神奈川県立近代美術館・葉山館に見に行きました。
ミニマリズムの作家、桑山忠明(1932 - ) の作品は、学生の頃によく見ました。その頃はメタリックな塗料を均質に塗布した作品が多く、常に仕上がりが完璧で妥協のない感じがしました。今回の展覧会は、おおむねそのイメージのままですが、作品はさらに大掛かりになり、順調なキャリアを積んでいるのだな、という印象を受けました。
素材として使っているチタンの表面は、見る角度により色が違って見えて、その効果を生かすために工夫されたインスタレーションの作品、と言ってもいいと思います。単体として見るよりも、部屋全体として見るように配慮されています。わざわざ壁を作らせているところにも、力の入れどころが想像できました。
出口のところの一室では、桑山本人のインタビューのVTRが視聴できます。
自分の作品は、従来のタブローの作品とはちがって、異なる芸術観に立って作っているのだ、ということを語っていました。たとえば、富士山を描いた絵があるとすると、それならば富士山を見ればよいではないか、絵を描く必要はない、という趣旨のことを言っていたと思います。
何気なく言っていたことですが、この言葉のなかに桑山忠明という作家のすべてが込められている、と感じました。富士山を描く、という主体を限りなくゼロに近付け、直接富士山を見るような作品を作ることに、この作家は取り組んできたのです。今回の作品でいえば、チタンという魅力的な素材に直接、鑑賞者が出会うための仕掛けが作品だったのです。素材と鑑賞者とのあいだに介在する、自分という存在を消すために細心の注意を払っています。その労力の大きさは、作品を発表したことがある者ならば、よくわかることでしょう。
その一方で、さきのインタビューでは物足りない、と感じたところもあります。
富士山を見る、というのは意外と複雑な問いをはらんだ行為です。富士山を他の山と比べて美しいと感じたり、日によって見え方が違うと感心したりすることは、人間に特有の感じ方です。どうして人はそういうふうに感じてしまうのでしょうか。そもそも、人がものを見るとはどういうことなのでしょう。また、あっさりと必要がない、と言われてしまった絵画という表現は、どうあるべきなのでしょうか。短いインタビューで、わざわざそんなことは話さなかったのかもしれませんが、絵を描かずに直接富士山を見ればいい、という簡潔な答えではすまされないことがあると思うのです。
これだけ映像表現が多様化した現代において、たしかに富士山を絵に描く必要はないのかもしれません。それだけに絵を描くことの意味が厳しく問われる時代だと、私も思います。考えてみると、この問いは写真による表現が発達した19世紀のころから、あるいはもっと以前から潜在的に絵画のなかに存在していました。印象派以降、表現主義や抽象絵画など、美術史を紐解けばさまざまな表現様式に出会いますし、桑山忠明のように、表現主体をゼロに近づける、というのもその解答のひとつでしょう。私がこの問いに対して、もっともリアルな答え方をしていると思うのはセザンヌ(Paul Cézanne、1839 - 1906)です。セザンヌは、(誰かが書いていたことですが)ものを見ていること、絵を描いていることをそのまま表現しようとした画家です。どうして、あるいはどのようにして、そんなことができたのでしょうか。そのことを、これからもこのブログで書き綴っていかなくてはならないでしょう。
少し前になりますが、「アートプログラム青梅2012『存在を超えて』」という展覧会を見に行きました。正確に言うと、そのプログラムのごく一部、青梅市立美術館の展示を見たのです。このプログラムは他にも多数の会場があり、ゆっくりとまわれば面白いのでしょうが、仕事の都合で美術館を見るのがやっとでした。継続的に作品を見ておきたい、と思っている藤井博という作家を見るためにねらっていた日で、最終日の前日になってしまいました。
藤井博という作家について、ご覧になったことがなければ次のホームページを参照してください。
(http://fuujin.jimdo.com/ 「藤井博~極北の表現」)
あるいは、私が彼について書いた論文が、雑誌「美術手帖」のホームページから読むこともできます。
(http://www.bijutsu.co.jp/bt/hyouron_effect.html)
さきほどの桑山忠明との比較で言うと、藤井博は、ものを見ること、そしてものと自分との関係について、絶えず追究してきた作家です。過去の作品については、私の拙論を参照していただくとして、今回の作品について書いておきましょう。
今回の作品は、一応、タブロー形式の作品です。画面上からは、テーブルを囲む人々や野外風景といったモチーフが透けて見えてきます。描写が部分的であったり、色彩が必ずしも画像に寄り添っていなかったりするので、はっきりとした形は分かりませんが、おおよその内容はわかります。具象絵画として鑑賞することも可能な気もしますが、簡単にそうできない仕掛けがあります。画面上には不定型の布の断片が貼られていて、それらが描画後にはがされ、ずらされているのです。部分的に画像がずれ、何も描かれていない白い下地が見えるので、タブローとして見るにはいかにもじゃまな気がします。私たちは画家が描いた行為や時間、そして絵画という表現形式について、いやがうえにも意識することになります。
このところ、藤井博は同じような表現方法で、作品を制作しています。モチーフが静物であったり、肖像であったりしたこともありました。また、窓ガラスに直接、透明のシートなどを貼って、外の風景をそのまま作品にするような試みもしてきました。
今回の作品では、モチーフの描写と表面の布やテーピングとの関係が、とてもうまくいっていたように感じました。画面全体を描きこんだ作品も、余白を残した作品も、それぞれが見ていて楽しめるのです。それは作家が、モチーフを描写しながらも、絵画という表現形式に対してつねに覚醒した意識を持っているからでしょう。とくに、このようなグループのなかでの作品展示を見ると、ものを見ること、作品を作ることに対する意識が、際立っているように思いました。
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