平らな深み、緩やかな時間

258.ゴダールと新実存主義について

前回に続き、ヌーヴェルヴァーグと新しい実存主義について書いてみます。

今回は、ヌーヴェルヴァーグ運動の中心人物であったゴダールさんについて考察してみましょう。ジャン=リュック・ゴダール (Jean-Luc Godard, 1930 - 2022) さんは、先頃亡くなったフランスの映画監督です。以前のblogでそのことについて触れました。彼は、映画プロデューサー、映画批評家などとしても、圧倒的な存在感を持った人でした。

例えばゴダールさんの映画『女は女である』ですが、これは1961年にベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞しました。『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』の間に撮られた作品なので、商業映画との決別宣言のはるか以前の作品ということになります。そのせいか、音楽あり、インチキ臭い歌と踊りあり、妊娠を中心とした物語らしきものあり、ということで、とても楽しい映画に仕上がっています。ヌーヴェルヴァーグ(フランスで起こった新しい映画の波)の映画って、こんなに面白いんだ!と、実は久しぶりにゴダールさんの映画を見た私は感動してしまいました。そんなこともあって、今回ゴダールさんについて書くことにしたのです。

https://youtu.be/ZLhGhWetqgk

 

ゴダールさんについては、批評している文献が山ほどあるので、私のような者が迂闊に感想を書いても仕方ないのでしょうが、『女は女である』を見ると、初めて映画を作った人がその動きや音をどんなふうに楽しんで撮影したのか、がわかるような気がします。映画の原初的な喜びを、そのまま映像に収めたような、そんな感じに見えるのです。

膨大なゴダールさんに関する批評が世の中には存在するので、その中から何を参照したらよいのかも私にはわかりません。そこで、たまたま持っていたゴダール特集の古い雑誌から、ゴダールさん自身の言葉を引用してみましょう。このインタヴューはリュミエール兄弟が映画を初めて公開してから100年を記念して、1995年に行われたもののようです。

そのインタヴューで、映画の現状について問われたゴダールさんは次のように答えています。

 

最初のうちは、映画は知覚の新たな道具、微小な事物の観察器具、遠方の事物の観察器具とみなされたが、すぐに、その機能が妨げられ、おもちゃ扱いされるようになった。映画は思考の道具としての役割を果たさなかった。映画は世界を見る唯一の方法であると同時に、大勢の観客の前で、また同時に複数の場所で、大きな画面に映し出すことができる個々のヴィジョンでもあったからだ。でも、すぐに映画は庶民の間で大当たりするようになったので、その見世物的な側面が重視された。実際には、そうした見世物的な側面は映画の機能の10ないしは15%を占めるにすぎない。それは資本家の利益を得るためのみに利用されることになり、資本としての役割しかはたさなかった。

(『現代思想1995年10月臨時号 ゴダールの神話』「インタヴュー」細川晋翻訳)

 

ゴダールさんの言っていることを読み取ってみると、映画ができた頃には、「映画は知覚の新たな道具」だったのです。しかし、それがすぐに大衆化されて「見世物的な側面が重視」されるようになってしまいました。映画は「資本家の利益を得るためのみに利用されること」になったのですが、これは別に映画に限ったことではありません。美術や絵画だって同じです。

余計なことを言わないで、先に進みましょう。ゴダールさんは上記の言葉に続けて、「かつては世界を知る方法が隠されていた映画があった」とか、「世界観を持つ映画も存在したし、今も存在する」と言っています。しかし、それは少数派だと嘆いています。その一節を読んでみましょう。

 

とはいうものの、世界観を持つ映画は存在したし、今も存在するが少数派だ。例外的存在なので今の映画産業の一般的な趨勢を妨げることはない。今の映画産業は活字媒体やテレビと同じように権力と密接に結びついている。今では人々が「映像」と呼ぶものは権力と密接に結びついているんだ。かつては、そうではなかった。グーテンベルクは世界を支配しようとしなかったが、スピルバーグは違う。

(『現代思想1995年10月臨時号 ゴダールの神話』「インタヴュー」細川晋翻訳)

 

グーテンベルク(Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg、1398頃 - 1468)は、言わずと知れた活版印刷技術の発明者です。ゴダールさんは、活字文化に比べて、映像文化の影響がいかに大きいかを言いたいのだと思います。スピルバーグの映画は、世界を支配しようとしている、と言っているのですが、インタヴュアーが「どうやって世界を支配すると言うのですか?」と聞くと、ゴダールさんは次のように答えています。

 

真実や知識を見出すのではなく受けを狙うことによってだ。スピルバーグは、他の多くの監督と同じように、問題を検討するのではなく納得させようとする。そこには全体主義的な何かがある。結局、言ってみれば、ぼくにとって映画とは独創的な思考の道具なんだ。そして独創的な思考とは哲学、科学、文学の間に位置付けられ、人々が自分の目で見るということ、既存の説明に頼らないという前提に立つ思考のことだ。ぼくは自分の映画が、しばしば不明瞭な方法であれ、そうした役割を果たすよう努力してきた。でももちろん、流れを逆転させることはできなかった。事態はなるようにしかなっていない。

(『現代思想1995年10月臨時号 ゴダールの神話』「インタヴュー」細川晋翻訳)

 

商業主義の人たちからすれば、映画は単なる金儲けの道具であり、彼らは映画のことを一般受けをすることが最も重要で、そうでなければ(金儲けの)役に立たない、と思っていることでしょう。しかしゴダールさんにとっての映画は「独創的な思考の道具」であり、それは「哲学、科学、文学の間」に位置付けられるものなのです。このゴダールさんの意見は、まったく正当なものだと思うのですが、一般の社会ではそうでもないのでしょうか?

そして、そのゴダールさんでも商業主義の「流れを逆転させることはできなかった」と言っています。ああ、ゴダールでもそう思っているのか、と思いつつ、先日、ゴダールさんが亡くなったときに蓮實重彦さんという権威ある学者、批評家、作家が次のように言っていたことを思い出します。

 

60年代にトリュフォーやシャブロールとともに(ゴダールが)「ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手として世界の映画シーンを一新したなどといわれているが、それは真っ赤な噓(うそ)である。ゴダールのような映画を撮った映画作家は、世界に一人として存在していないからだ。

(2022年9月4日 朝日新聞)

https://www.asahi.com/articles/ASQ9G543WQ9GULZU00H.html

 

私の映画好きの友人は、この記事を読んで「(蓮実は)ゴダールを愛しすぎる!」とメールを送ってくれました。しかしゴダールさん自身が、自分の後継者はいない、と嘆いているのですから、蓮実さんのコメントも無理からぬ話かもしれません。

そして、このように映画について語るゴダールさんですが、彼がデビューした頃の映画はどのような状況で、そのなかでゴダールさんはどのようにして映画を作ったのでしょうか?

 

ぼくらはフランス映画で、すべてが禁じられ、動脈硬化が生じ、最悪の意味での談合主義に陥っていた時代に出発した。ぼくらはこう言った。「違う、何をしてもいいんだ」。自分の彼女を起用して映画を撮ることも、書きたい話を書くことも可能だ。そしてぼくらは決められた規則に逆らって映画を撮った。ヌーヴェルヴァーグは反逆精神の産物でもあるんだ。ぼくらは街で撮影した。当時はどの映画も室内で撮られていたからだ。もしどの映画も街で撮られていたら、ぼくらは室内で撮ったかもしれない。今では逆で、もはや確固たる規則などないと言っていい。あるとしても、「私が作家です」などという規則には意味がない。大半の監督が自分は作家だと思っているが・・・。

(『現代思想1995年10月臨時号 ゴダールの神話』「インタヴュー」細川晋翻訳)

 

なぜ、映画監督は「私が作家です」と思ってはいけないのでしょうか?インタヴュアーに「あなたは(作家とは)違うのですか?」と聞かれて、ゴダールさんはこう答えます。

 

ああ!ぼくは違う。確かに、最終的にぼくが作品の作者だけど、重要なのは作品だ。ぼくが映画を撮り始めた頃、プロデューサーと話し合い、脚本を批評された。今ではもうそんなことはない。ボールガールと組んだ時にはそういう体験をしたが、その後、そんなことはない。もう全くね。ぼくがそれで失うものは多い。それに、今、映画を作っている若い人たちも失うものは多いと思う。彼らは自分たちのことを神聖な権限を持つ作家だと思い込んでいる。もはや議論は交わされない。敵対する場合でさえもだ。フェリーニと『道』のプロデューサーであるポンティとの間には議論が交わされたはずだ。

(『現代思想1995年10月臨時号 ゴダールの神話』「インタヴュー」細川晋翻訳)

 

もちろん、文中のフェリーニとは、イタリア映画の巨匠、フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini, 1920 - 1993)さんのことです。そしてフェリーニさんの傑作、『道』(1954)はフェリーニさんに二年連続のヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞をもたらし、第28回アカデミー賞でアカデミー外国語映画賞も受賞した作品です。音楽はニーノ・ロータ(Nino Rota, 1911 - 1979)、主演はアンソニー・クイン( Anthony Quinn, 1915 - 2001)とジュリエッタ・マシーナ(Giulietta Masina, 1921 - 1994)です。彼らのすべてが名演で、ストーリーは単純なものなのに、内容はとても深い映画です。私のような者が解説するべきではありませんが、映画好きの人も、そうでない人も、すべての人が見るべき映画です。

https://youtu.be/_lGhmfyTNLE

ゴダールさんは自らを「反逆精神」の塊のように語りますが、言葉の端々に優れた映画作品へのリスペクトが感じられます。それに、映画制作には議論や批評が大切だ、と言っているのも印象的です。日本の映画界では、映画制作者によるセクハラ、パワハラが告発されていますが、ゴダールさんの言葉を信じるならば、彼は民主的に映画を作りたかったみたいです。

 

さて、『女は女である』がいかに面白い映画であるのか、という感想から発して、ゴダールさんのインタヴューまで見てしまいました。そして前回の『緑の光線』の話から引き続き考えてきて、わかったことがあります。

それは、私はエリック・ロメール(Éric Rohmer、1920 - 2010)さんの作品の主人公の行動から、「何やらこの女性(デルフィーヌ)は『本物の人との出会い』を求めているようだ」、ということをひしひしと感じて、それは思想や哲学の分野で「本物の世界との出会い」を模索している「新実存主義」となんだか似ているな、と思ったのです。自分でそう思いながら、これは偶然か、あるいは私自身のこじつけではないか、と疑っていたのですが、どうやらヌーヴェルヴァーグの映画から「新実存主義」へと思いついていく流れには、必然的なものがあったようです。

たまたま『緑の光線』がそういう話だった、ということではなくて、ヌーヴェルヴァーグという映画運動そのものが、「本物の世界との出会い」を模索していたのですから、それは「新実存主義」の指向性と、少しだけリンクしていたのです。

 

さて、それでは「本物の世界との出会い」を模索する思想としての「新実存主義」について考察していきましょう。

 

今回は、教科書として『新しい哲学の教科書』岩内章太郎著を参照します。この本は副題として「現代実在論入門」と書かれています。最近の哲学の動向から、実在論とか実存主義に関わるものをピックアップして紹介している本です。なぜ、このような本が書かれたのか、この本の「まえがき」に次のようなことが書かれています。

 

本書の目的は二つある。

(1)現代哲学の舞台に登場した「実在論」に注目することで、「ポスト・ヒューマニティーズ」の哲学に一定の見通しを与えること。思弁的実在論、多元的実在論、新しい実在論の中心的な考えを可能なかぎり簡明に提示する。

(2)現代の実存感覚に光を当てることで、「実在論」の意義を「実在論」的に取り出すこと。したがって、本書が扱うのは「現代実在論」でもある。

時代の趨勢が実在論に傾くのには、それなりの哲学的理由があるが、現在、これほど実在論が歓迎されるのは、哲学上の立場を越えて、それが現代の実存感覚にこそ深く関係するからだ、と私は考えている。

大局的な見地で哲学の歴史を眺めるなら、現代実在論は20世紀後半から人文学を席巻したポスト・モダン思想を超克する試みだと言える。ポストモダン思想は徹底した相対主義によって、しばらくのあいだ西洋の思潮を先導してきた。そのポストモダン思想の相対主義的ラディカリズムに対抗するため、21世紀になってフランス、イギリス、イタリア、ドイツ、アメリカ、カナダ、日本などで同時多発的に「実在論」のもとに哲学者が結集した。そこには、アラン・バディウ、チャールズ・テイラー、ヒューバート・ドレイファス、ウンベルト・エーコといった20世紀の哲学を牽引してきた著名な哲学者から、カンタン・メイヤスー、マルクス・ガブリエル、グレアム・ハートマンといった新世代の哲学者までが名を連ねている。

(『新しい哲学の教科書』「はじめに」岩内章太郎)

 

できるだけ簡明に書こうという気持ちが伝わってくる文章ですが、しかし内容は難しいです。例えば「ポスト・ヒューマニティーズ」の哲学って何でしょうか?これは人類亡き後の哲学ということのようですが、なんでそんなことを考えなくてはならないのか、素人にはよくわかりません。でも、わからないなりに説明してみましょう。

私たちがどうして存在するのか?そもそも、そのように問うだけの存在意義があるのか?と考えたときに、どうしても私たちは自分を中心にして、「私は存在する意味があるのか?」と問いかけてしまいます。この「私は」という個人的な問いかけを、もっと普遍的な問いにするためには、「私=人間」というふうに問いを広げるべきなのかもしれません。しかし、それでも人間が人間に対して存在意義を問うているかぎり、当事者同士の問いかけに過ぎません。これをもっと哲学にふさわしい、普遍的な問いにするにはどうしたらよいのでしょうか?

そこでこの本では、異星人が地球に来て「あなたたちの生に意味なんかないよ」と告げたとしたら、それでも私たちは生命を繋いでいくだけの意味を見出すことができるのか、というような話が書かれています。この異星人の問いは、「人間ではない者からの問い=人間不在の問い」という意味では、「人類亡き後の問い」と、似たような意味を持つことでしょう。

何だか冗談のような話ですが、人間が自らの存在について客観的に評価するためには、このような突飛な設定が必要なのかもしれません。この問いかけには容易に答えることができませんが、大事なことはこれまでの私たちの問いは、自分たちの存在について自分たちで問いかけて、自分たちで答えるという自問自答でしかなかった、ということに気づくことです。「他者」も「外部の世界」もなくて、まったく内輪の話だったのです。その閉じられた問いをこじ開けるには、「人類の滅亡後」や「異星人」のような、ちょっと現実離れをした想定をしなくてはならないのです。

 

このように、私たちの存在の意味を問うということは、なかなか大変なことなのです。その例を、もう一つあげておきましょう。

私たちの生命は、数々の偶然の出来事の中で生き継がれてきました。私たちが生きていて、「たまたまそうなってしまったこと」、「意味もなく偶然にやってしまったこと」を思い出すとキリがありません。もしもあなたが「私の人生は意味のあるものだった」と強弁したとしても、実はほとんど「無意味な偶然」によって左右されていたのかもしれないのです。

この無意味な「偶然」ですが、私たちにとってはどうしようもないものです。その「偶然」に意味があるのだ、と考えるのには無理があります。しかしその一方で、私たちは偶然に生きたり死んだりするような存在なのだから、生きていくことに意味なんかないのだ、と割り切ってしまうのも何だか残念です。学問的に素人の私には、このように気軽な感想を漏らすこともできますが、哲学者にとってはこれは大問題です。

昔の人は、そのようなどうしようもないものを「神」と言ったり、そこに目に見えない真理のようなものを感じて「イデア」と言ったりしたのでしょう。しかし、現在の私たちは「神」のような存在を信じるわけにはいきません。偉大な思想家のニーチェ( Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844 - 1900)が「神の死」を宣言してから、随分と時間が経っています。それでは、現在の哲学者は「偶然」についてどのように考えているのでしょうか?さきほど名前の出たカンタン・メイヤスーという哲学者は、「思弁的唯物論」という立場から、次のように考えたそうです。

 

生は絶対的な偶然性に絶えずさらされている。しかしだからこそ、そこに希望もあるのではないか。偶然の気まぐれは私たちを困惑させるが、徹底的に考えることで偶然性を我がものとし、それを飼い慣らす可能性はたしかに存在する。

(『新しい哲学の教科書』「第1章 偶然性に抵抗する カンタン・メイヤスー」岩内章太郎)

 

なるほど、優秀な哲学者が考え尽くすと、このような考察ができるのですね。メイヤスーさんの言っていることを、もう少し考えてみましょう。

私はこの「思弁的唯物論」の哲学者が、「偶然性」に囲われた世界からなんとか外に出たいと考えているように思えます。上記の「偶然性を我がものとし」というのは、偶然性を思うがままに操ることではないと思います。それでは「偶然性」とは言いませんし、いかに科学が発達しても偶然をなくすことは無理でしょう。だからそうではなくて、「偶然性」というものがあることを認めつつ、それを考慮した上で「生きることの意味」を見いだす、ということだと思います。

そのためには、「偶然性」を否定せずに、むしろ積極的に「偶然性」に身をさらすことが必要なのではないでしょうか?いままで私たちは、自分の存在の意味を考えるときに、「偶然性」などという要素を考えないようにしていました。「偶然」なんてことを考え出すと、自分の存在意義がなくなってしまいそうだからです。しかしメイヤスーさんは、見ないふりをしていた危険なものを、あえて見ようとしているように私には思えます。「偶然」に触れてみることで、その危険性さえも認識した上で自分の存在について考えてみよう、ということなのです。これは「偶然性」抜きの偽りの世界から、「偶然」を孕んだ本物の世界へ飛び込んでみよう、という意思表明のように見えます。

 

私はこのような「新しい実存主義」の考え方が、ゴダールさんがスタジオの中で完結していた当時の映画撮影を、あえてさまざまなハプニングが起こりかねない屋外へと飛び出して行ったことと、ちょっと似ているなあ、と思うのです。計算され尽くした屋内の撮影セットよりも、失敗の危険がある屋外に飛び出した方が、本物の世界を切り取ることができる、とゴダールさんは直感したのだと思います。同じように、新しい実存のあり方を思考する哲学者たちは、高度な思考の中で幾重にも知識のバリヤーを張りめぐらした世界から、本当の実存を求めてその外へと飛び出そうとしたのです。私には、この両者の求めるものが共通しているような気がしてならないのです。

そして、私の考える芸術家は、本能的に危険な外の世界を求めるものです。私もそうしたいと思っています。

 

だいぶ長くなりました。

『新しい哲学の教科書』の、まだ一章しか読んでいませんが、今回はこのくらいにしておきましょう。また、続きを書きます。

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