平らな深み、緩やかな時間

379.『勉強の哲学』千葉雅也を読む

今回は言葉について考えることになりそうなので、最近の話題として次の言葉を見ておきましょう。

「いたずらに議論を引き延ばし、選択肢の提示すら行わないということになれば、責任放棄と言われてもやむを得ない」
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20240503-OYT1T50064/

この言葉が発せられた文脈は上記のサイトで確認できる通り、憲法改正に関する為政者の考えを示したものです。
この言葉を記憶しつつ、次の記事の抜粋をお読みください。

26日に議論が始まった衆院政治改革特別委員会では、政治資金規正法改正を巡り、与野党の主張の隔たりが浮き彫りになった。岸田首相(自民党総裁)は今国会中の改正実現に強い意欲を示しているが、自民案に対しては、野党だけでなく、公明党も批判的で合意への道のりは険しい。
規正法改正を巡っては、議員個人が政党から受け取る政策活動費(政活費)のあり方や、政治資金パーティー券購入者の公開基準の引き下げも焦点となっている。自民はいずれも「プライバシーの確保」や「政治資金の多様性」の観点から見直しに慎重姿勢だ。
公明の石井幹事長は26日の記者会見で、パーティー券購入者の公開基準引き下げと政活費の使途公開に関し、「改革の方向性がしっかりと示される形で与党案をまとめていきたい」と語り、自民に注文を付けた。公明幹部は「今の自民案ではゼロ回答だ」と漏らし、与党協議での譲歩は難しいとの考えを示した。
今国会の会期末(6月23日)までは残り2か月を切っており、参院での審議も考慮すると日程は窮屈になっている。自民内からは「会期を延ばすことがあってもいい」(渡海政調会長)などと、会期延長論も浮上している。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20240426-OYT1T50195/

このような話題について、知恵のある方々がたくさんの意見をあげている中で、私のような者が付け加えることは何もありません。ただ、言葉というものが、時にはいかに空疎に響くのか、私たちは認識しておきましょう。上記の「憲法改正」に関する発言を、「政治資金規制法改正」の文脈で読めば、為政者自らが「責任放棄と言われてもやむを得ない」と言っているように読めてしまうのです。いや、これは「空疎」ではなくて、これこそ「真意」なのかもしれませんが・・・。


さて、今回は千葉雅也さんの『勉強の哲学 来たるべきバカのために』を読んでみます。書店の案内には次のような紹介が書いてあります。

勉強ができるようになるためには、変身が必要だ。
勉強とは、かつての自分を失うことである。
深い勉強とは、恐るべき変身に身を投じることであり、
それは恐るべき快楽に身を浸すことである。
そして何か新しい生き方を求めるときが、
勉強に取り組む最高のチャンスとなる。
日本の思想界をリードする気鋭の哲学者が、
独学で勉強するための方法論を追究した本格的勉強論!
文庫本書き下ろしの「補章」が加わった完全版。
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167914639

千葉雅也さんと言えば、少し前に『センスの哲学』を読みました。
『センスの哲学』は美学的な蘊蓄を語る本ではなくて、私たち自身が持っている「センス」への気づきや、私たちがどのように芸術と向き合っていくのか、などをラディカルに語った本でした。この『勉強の哲学』も同様に、私たちがどのように勉強と向き合い、自分を変えていくのか、という本です。『勉強の哲学』の中でも芸術の事例が少なからずあって、千葉さんがこの後に『センスの哲学』を書いた必然性が読み取れます。

それでは、そもそも「勉強」とは何なのでしょうか?
誰もが、子供の頃に机に向かって勉強した経験はあるはずです。あるいは社会に出て、仕事のスキルを身につけるための勉強をしているはずです。そういう勉強と、千葉さんが語ろうとしている「勉強」は違うのでしょうか?
早速、千葉さんが「勉強」とは何なのかを語っている部分を読んでみましょう。

まずは、これまでと同じままの自分に新しい知識やスキルが付け加わる、という勉強のイメージを捨ててください。むしろ勉強とは、これまでの自分の破壊である。そうネガティブに捉えたほうが、むしろ生産的だと思うのです。
多くの人は、勉強の「破壊性」に向き合っていないのではないか?
勉強とは、自己破壊である。
では、何のために勉強をするのか?
何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?
それは「自由になる」ためです。
どういう自由か?これまでの「ノリ」から自由になるのです。
(『勉強の哲学』「第一章 勉強と言語ー言語偏重の人になる」千葉雅也)

この最後の部分で、千葉さんが「ノリ」と言っているのは、周囲の人と同調することによって生まれる「ノリ」のことです。周りの人にうまく話を合わせて、深く考えずに同調している人のことを、千葉さんは「ノリ」の良い人だというのです。
しかし、いったん「勉強」にはまってしまうと、そうはいきません。周りの人の言っていることを深く考え、そこに疑問が生じ、簡単には同調できなくなってしまうのです。「あいつはノリが悪くなったな」と煙たがられ、それまでの「ノリ」の良かった自分は破壊されてしまうのです。これが勉強を「ネガティブに捉える」ということなのです。だから今の生活で充足している人は勉強をしない方が良いのかもしれません。勉強は自分を変えること、つまり「変身」することなのですが、それが「かつての自分を失うこと」でもあるのです。

しかし、この「勉強」のネガティブな側面には、周囲の人たちの「ノリ」から「自由になる」という、より大きなポジティブな側面がついてきます。私のように、周囲の人と同調することがもともと苦手な人間からすると、この「自由」はぜひとも手に入れたいものです。他の人の考え方から自由になって、自分自身の頭で考えるためには「勉強」が必要である、と言われれば勉強するしかありません。だから私は、自分の能力の低さを省みずに、毎日、少しずつ勉強しています。
しかし、そんな私からすると、この「自由になる」ことがとても難しいのです。それは私の頭が悪いから、ということも勿論あるのですが、そればかりではなくて、仮に頭の良い人であっても「自由になる」ことは意外と難しいはずです。それは、人は一人では生きていけないから、という当たり前のことが、前提としてあります。だから何もかも「自由になる」ということはあり得なくて、そのことを千葉さんは「有限性」という言い方をします。
「有限性とつきあいながら、自由になる」
というふうに千葉さんは、書いています。
蘊蓄のある言葉ですが、何かに打ち込んだことのある人なら、この言葉の意味をある程度、理解できるでしょう。あなたがスポーツに打ち込んだことのある人なら、自分の身体能力の限界に気付いたはずですし、あなたが芸術に打ち込んでいる人なら、自分の才能に限界を感じているのかもしれません。何かに打ち込んで、成長している時期には、確実に昨日の自分よりも今日の自分の方が「自由」になっているはずです。
時折、そんな「自由」を錯覚して、自分が何かの道を極めたようなことを言う人がいますよね、手のかかるお年寄りにそういう人が多い気がします。そういう人は、千葉さんの言うところの「有限性とつきあいながら」ということが出来ていないのです。もしも、あなたの身近にそういう人がいたら、迂闊に近づかないようにしましょう。そんな人とは絶対に理解し合うことができません。お説教めいたことを一方的に言われるのが、関の山です。
少し話が脱線しました。元に戻しましょう。
その「自由」について考え出すと、人は必ず言葉の問題に気がつきます。人は「言語」によって思考しますが、この「言語」はどんな言語であれ、あなたが勝手に考えたものではありません。そこには規則性があり、先人たちが築いてきた用法があります。そんな言葉によって思考する限り、自分は「自由」になれないのではないか、そもそも「言語」を「自由」に使うことなどできるのだろうか、などといった疑問が湧いてきます。
千葉さんは「言語という存在」について、次のように書いています。

「リンゴ」でも「これは美しい」でも、当たり前ですが、言語は自分自身ではない。言語は他者です。そして言語は、周りの他者(これは「他人」の意味)からインストールされたものです。他者が言葉をどう使うかを真似ることで、言語習得をしたわけです。
言語は、自分が生まれる以前からの「用法」を真似るという形でインストールされた。同様に、すべての他者もまた、他者による方法を真似して、言語を使えるようになっている。
大げさに思うかもしれませんが、言葉のニュアンスの違いには、何か偏った価値観(イデオロギー)が含まれていると捉えるべきです。
すなわち、言語は、環境の「こうするもんだ」=コードのなかで、意味を与えられるのです。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれることなのです。言語習得と同時に、特定の環境でのノリを強いられることになっている。
(『勉強の哲学』「第一章 勉強と言語ー言語偏重の人になる」千葉雅也)

言葉が環境のコードだとするなら、私たちは常にそのコードを介して現実と触れていることになります。わかりやすいイメージで言うなら、千葉さんもこの本の中で例に出している映画『マトリックス』のイメージです。私たちはカプセルの中で生きていて、私たちの頭の中の現実は、実は機械によって制御された仮想の現実だという話です。
勿論、私たちは感覚的には剥き出しの現実と触れ合っています。私たちは気温や湿度の違いを肌で感じて、時に不快で気分が悪くなります。目の前のコップやリンゴに手で触れてみれば、硬い、冷たい、温かい、などの感触があります。その感触は現実ですが、その感触を言葉で表そうとしたり、思考として整理しようとすると、言語というコードに絡め取られてしまいます。

スケールのデカい話になりますが、人間にとって「世界」は二重になっている。
(『勉強の哲学』「第一章 勉強と言語ー言語偏重の人になる」千葉雅也)

これは困ったことになりました。私たちは「自由になる」ために勉強をしていたはずですが、その勉強の基礎となる「言語」が他人の作ったコードそのものであるとしたら、どうしようもありません。これは千葉さんに指摘されるまでもなく、私も哲学を齧り始めたときに考えさせられた問題です。興味がある人は、丸山 圭三郎(1933 - 1993)さんが書いたソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)さんの言語学の解説書を読んでみてください。丸山さんが晩年に書いた一般向けの言語学の新書もおすすめです。丸山さんは言語=コードと言語による表現の自由について徹底的に考えた人です。
それでは「言語習得と同時に、特定の環境でのノリを強いられることになっている」ことに対し、千葉さんはどのように考えているのでしょうか?

しかし言語には、現実に縛られない独自の自由もあります。
たとえば、テーブルの上にリンゴがあっても、たんに言葉として「リンゴは箱のなかにある」と非現実的なことを言うこともできる。「ここにはクジラがいる」と言うことさえできる。
何でも「言えるには言える」わけです。
言語はそれだけで架空の世界を作れる。だから、小説や詩を書くことができる。先ほどの「リンゴ」は現実に根ざした普通の言葉ですが、何を指すのでもないたんなる言葉を作ることもできるー「リゴンゴン」とか。さらには、論理的にありえないことまで「言えて」しまうー「リンゴはクジラだ」とか、「丸い四角形」とか。
こうした言語の自由さに、あらためて驚いてほしいのです。
(『勉強の哲学』「第一章 勉強と言語ー言語偏重の人になる」千葉雅也)

ここで千葉さんが言葉の自由についての例として挙げているのは、文学の言葉、詩の言葉です。ときに難解に思われる近代や現代の詩ですが、詩人たちは言葉の表現を限界まで引っ張っていって、そこにコードを超えた「自由」を見出そうとしていたのです。その具体例を見出すのに、何も最新の詩を読むまでもありません。
例えば、詩人の石垣りん(1920 - 2004)さんが第二次世界大戦後のまもない時期に書いた、極めてストレートな内容の『雪崩のとき』という詩の一節を読んでみましょう。

平和
永遠の平和
平和一色の銀世界
そうだ、平和という言葉が
この狭くなった日本の国土に
粉雪のように舞い
どっさり降り積っていた。
(『雪崩のとき』石垣りん)

あまりにもわかりやすい詩ですが、今の時期に読むのに良いでしょう。
「平和」は目に見えない概念ですから、雪のように降り積もることはありません。また、雪が降り積もった景色を「銀世界」というのも、半ばコード化されているとはいえ、詩的な比喩表現です。
そしてこの一節を読んで、「どっさり降り積っていた」の「どっさり」という言葉の語感に、何か不穏なものを感じませんか?タイトルが『雪崩のとき』ですから、どっさりと降り積もった雪は、やがて崩れ落ちてしまうのでしょう。これは、突然空から降ってきたような「平和」に危うさが潜んでいることを予感させます。字義通りの言葉で「この平和は危うい」と説明されるよりも、本来の意味を超えたドキッとする表現の方が、私たちの心に届くものがあるのです。
千葉さんが言った通り、言葉を通して思考する人間にとって、「世界」は二重になっているのですが、その言葉の意味の狭間でふと不穏な予感がしたときに、その二重構造に風穴が開くのです。

このように、言葉のコードから自由にならないと、本当の意味で「自由」になることはできません。私たちは勉強の初期の段階で、言葉によって思考を深めることを学びますが、さらに先に進んで、その言葉から解放されなければならないのです。
千葉さんは「深く勉強するとは、言語偏重の人になることである」と書く一方で、「ラディカル・ラーニングとは、言語偏重になり、言葉遊びの力を解放することである」と書いています。この本は平易な言葉で書かれているので、何となくここまで読み進めてきましたが、いつの間にか普通の勉強ではわからないような、遠いところまで来てしまいました。
ここまでが、まだ「第一章 勉強と言語ー言語偏重の人になる」の内容です。

さて、ここからあとは大変です。
千葉さんは、「ナンセンス」、「アイロニー」、「ユーモア」などという概念を繰り出して、本当の「勉強」はどうあるべきか、をわかりやすく解説していきます。それが「第二章 アイロニー、ユーモア、ナンセンス」です。
そして「第三章 決断ではなくて中断」では、千葉さんはキリのない勉強に陥ったときに、どのように判断して方向性を決めていくのかを解説しています。それは具体的にどう勉強していくのか、というよりも、どういう気持ちで勉強に向かっていったら良いのか、という話です。
私はこのあたりから、これは「勉強」の話ではなくて、「芸術」の話だと思って読んでいました。そうすると、千葉さんの言っていることが、スルスルと私のなかに入っていくのです。だって、考えてみてください。

何かを無根拠で決断することは、逆説的に、それだけが絶対的に根拠づけられた決断なのであり、この決断によって何かが「真理化」される。
(『勉強の哲学』「第三章 決断ではなく中断」千葉雅也)

このような言葉が、私の「勉強」のレベルで理解できるわけがありません。
これらの言葉は、それぞれの方が、それぞれの活動されている専門分野に置き換えてこそ、実感されるのではないでしょうか。例えば私が絵を描くときに、何かを決断するとしたら、それは常に無根拠な決断です。変に理屈で考えるとロクな結果になりません。しかしそれがうまく行った時には、何か正しい流れがそこにあったように見えるのです。外から見ると、それは必然的な決断に見えるのかもしれませんが、やっている本人は、たまたまそうしただけだという場合が多いのです。

そして「第四章 勉強を有限化する技術」になると、少しだけ具体的な勉強の話になります。
おそらく、研究者からするとこの程度の話は当たり前のことなのでしょうが、この千葉さんの情報の整理の仕方、本の選び方など読んでいくと、やはり私にはとても無理だな、とわかります。情報整理には、常にどこに何があるかわかるような緻密な方法が求められますし、本を読むにしても、私が読めるのは「入門書」ばかりで、「専門書」や「研究書」にはとても手が出せません。
私自身、このblogに書くことは、読んでいただける方が繰り返し参照していただけるような内容でなければならない、一過性の情報を横流しするだけではだめだと思っていますが、学問的な裏付けのもとで研究することは、全く別次元の話です。
最後の章に至って、千葉さんは勉強の厳しさについて、注意を促したのだと思います。そう思うと、ここまでの章はそのための心構えの話だったのかな、と合点が行きます。わかりやすい言葉で書かれているので、何となく身近な話だと思って読んでいましたが、実はとてもレベルの高い内容だったのです。この本は、ちょっと勉強してみたい人が読む本ではありません。これから本格的に勉強していこうとする人が覚悟を決めて読むべき本です。

さて、最後に追加されている「補章 意味から形へー楽しい暮らしのために」では、勉強の話以外で、音楽やダンス、絵画などで、少し気楽に日常の規則、つまりコードから外れてみる方法が提案されています。勉強の話ではないので、やや気軽な感じで書かれています。
例えば、絵画に関する記述を読んでみましょう。

「ヘタウマ」と言われるような味のある絵を描く人たちは、記号的な表現が下手だとしても、むしろそこから溢れ出すような原初的な線の自由さを持っているのです。そういう人たちは、幼少期のあのエネルギーを抑圧しきれていないのです。
(『勉強の哲学』「補章 意味から形へー楽しい暮らしのために」千葉雅也)

うーん、気軽な話だと分かってはいるのですが、ちょっとだけ意見を書かせてください。
この千葉さんの絵の見方は、甘いです。
「ヘタウマ」と言われるような絵で評価を得ている人たちは、かなり作為的にそういう絵を描いているはずです。彼らは「幼少期のあのエネルギーを抑圧しきれていない」ような絵を演出しているのだと思います。そういう人たちはある程度の技術を持っていて、「記号的な表現が下手だ」と思われるように、自分をコントロールして描いているのです。私は彼らのそういう下心が見えてしまうと、嫌な気分がして鑑賞する気になれなくなります。
これは私が日頃から感じていることですが、千葉さんをはじめ、学問のある多くの人たちは、芸術家に対する見方が親切すぎて、少し甘い評価になりがちです。勉強の世界ではシビアに物事を判断しているのですから、ヘタウマの絵を見たら「あなた、わざと稚拙に描いているでしょう?」というぐらいのツッコミが欲しいです。それこそが、絵画における同調圧力から「自由になる」ことなのだと思います。結果的に、そういう絵をいいと思っている人たちから見ると「ノリ」が悪くなってしまうのですが、仕方ありません。これは千葉さんがこの本の「はじめに」で的確に解説している通りの現象です。

さて、この『勉強の哲学』は、私のようなレベルの学習者には難し過ぎるのですが、それでも具体的に役に立つことがありました。それは初学者の本の選び方です。次の一節を読んでみてください。

最初に、情報の信頼性について簡単に述べておきます。信頼できる著者による紙の書物は、検索して上位にすぐ見つかるようなネットの情報よりも信頼できる。この態度を勉強を始めるにあたって基本とすべきです。
「まとも」な本を読むことが勉強の基本である。
ネットよりも紙という基準がまずある。一度印刷されると修正できないので、本は基本的に慎重に作られるものだからです。ネットに不確実な情報や、それどころかデマが溢れているのはご存知かと思います。しかし紙の本にもひどいものはたくさんあります。
では、何が「まとも」と言えるのかという信頼性の問題は、後で説明します。ネットでも本でもアイロニカルに信頼性を疑うべし、ということだけをまずは言っておきましょう。
専門分野に効率的に入門するには、入門書を読むべきです。
古いタイプの教師は、新入生にいきなり本格的で手ごわい本に挑戦するように勧めたりします。が、予備知識が何もない状態では間違いなく読めないし、すぐに挫折してコンプレックスを抱いたりするとよくない。
本格的な本は、勉強をし始めて数年経たないと読めないものです。それで普通であるとはっきり言っておきたい。最初に読むべきは入門書です。
(『勉強の哲学』「第四章 勉強を有限化する技術」千葉雅也)

まずは、前半の話です。
ネット情報に騙されてはならないし、ベストセラーの本も怪しいものです。ライターも出版社も商売ですから、怪しい話でも多くの人が読んでくれそうなら、それを本にしてしまうことがあります。信頼できる著者、出版社を把握しなければなりません。
そして、後半の話が興味深いです。
千葉さんが「古いタイプの教師」と言っている人と、真逆のことを言っていた人のことを私は思い出しました。
私が若い頃に、カルチャー・センターの講義で哲学者の竹田青嗣さんの現象学に関する話を聞いた時のことでした。最後に質問の時間があって、常連らしい年配の男性が「フッサールの本を読むと、竹田先生の話と違っているようで、フッサールはこの部分で何を言っているのでしょうか?」というような趣旨の質問をしました。竹田さんは、「フッサールは難解で、現象学を探究する過程で思想が深まっていったので、そのことを理解しないと、読んでも誤解するばかりです。××さんには、フッサールを読まない方がいいですよ、と言いましたよね?いいですか、フッサールを読んではいけません!」竹田さんの言い方には愛情とユーモアがこもっていて、聞いていた人たちも、質問者も爆笑してしまいました。
フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)さんの「現象学」や、ソシュールさんの「言語学」などは、本当に創造的な学問だったので、彼らの思想の深まりとともに、その内容にも変化があったようです。私は丸山圭三郎さんの著書から、ソシュールさんの原資料を読み解くことの難しさと面白さを知りました。もちろん、私にはそのような研究は無理ですが、のちの研究者がその資料の読み解きをわかりやすく解説してくれると、それがとても面白く読めるのです。
何かを勉強しようと思うと、本格的な研究書を読まなくては、と焦ってしまいますが、まずは自分の中でその分野に関するおおまかな理解をすることが大切です。「本格的な本は、勉強をし始めて数年経たないと読めないものです」という千葉さんの言葉を、肝に銘じておきましょう。
ちなみに、美術に関する本ならば、私もできるだけ原典に近いものを読むようにしています。もちろん翻訳ですけど・・・。そろそろ翻訳されていないものでも、英語で書かれている本ぐらい読まないと、と思って数十年が経ちました。退職したら語学も勉強して、なんて言ってると、今のご時世では一生やらないですよね、困ったものです。

以上、『勉強の哲学』という本の魅力が伝わったでしょうか?
千葉さん以上に、平易にこの本の内容を伝えることは不可能ですので、興味が湧いたら、ぜひ読んでみてください。
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