「和さんは良いねっ……」
和久を見詰めて、ぽつりと言った夕子。
「何がや? 夕子……」
酒を一口飲んだ和久は、夕子を見ながら、穏やかな口調で問い掛けた。
「お料理が出来るから……」
夕子は、羨ましそうに言う。
「あっはっはっ……夕子、こんなのは時間を掛けたら誰にでも出来るでっ!」
夕子の心情を察した和久は、諭すように答える。
「ねぇ、和さん……和さんは如何して料理人に成ろうと思ったの?」
夕子の身の上を少しでも知ろうと、夕子の問い掛けに応える和久は、夕子を見詰めて視線を逸らした。
「そうやなぁ、食う為かなぁ……料理人に成ったら、ひもじい思いをせんでも良いと思ったのや! そしてなっ、料理人に成るのやったら大阪やと思って、アルバイトで貯めて金を持って汽車に乗ったのや!……両親が亡くなって身寄りが居らんかったから気楽やった!」
和久の話を、頷きながら黙って聞いている夕子。
「大阪に着いて街を見物してなっ……腹が減ったから、飯を食べようと思って金を探したら有れへんのや! 何処かで落としたのやろなぁ……夕方まで腹を減らして歩いていたら、赤提灯が目に入って来た。 中を見たらお客さんで一杯やった……働かせて貰おうと思って店に入ったら、調理場に小母さんが一人居てなっ、洗い物が流しに一杯積んであるのや! わしは小母さんに頼んだ(お金は無いけど、ご飯を食べさせて下さい! その分働かせて下さい!)と言ってなっ! そしたらご飯とおかずを出してくれた……わしは先に仕事を! と言ったけど、先に食べてからや! と言われて食べた。 洗い物が済んで、カウンターに座っていた小父さんの横に座ったら、その小父さんが色々と聞いて来た! わしが答えたら大きな声で笑い出してなっ、わしを家に連れて帰ったのや!……その小父さんは太閤楼のご主人やったのやっ! 女将さんと二人で本当の子供の様に可愛がってくれた。 調理を教えてくれてなっ! 厳しかったけど優しいご主人やった……」
話す和久の目に涙が滲み、聞き入っている夕子の眼差しを避ける様に、グラスの酒を飲み干した。
「わしはご主人と女将さんの期待に応えようと、寝る間も惜しんで修行した。 そやけど、上手くいかん事も有って考え込んだりした。 そんな時に夕子の歌を聞いたのや! わしは身震いがした……こんなに若い歌手が、心を揺さ振る歌を歌う事になっ!……夕子の歌に勇気づけられ、和まされてなぁ……そして太閤楼の料理長に成った時に、夕子が来てくれたのや! わしが出した料理が解ってくれた時、わしは思った! 料理人に成って良かったと……」
和久の話を聞き、そっと目頭を抑える夕子は、愛しげに和久を見詰めた。
「和さんは、如何して太閤楼を出たの?」
和久の全てを知りたい様に、問い掛ける夕子。
「うん、先代の息子さんに太閤楼を任せたくてなぁ……大恩が有るご主人と女将さんに、万分の一でも御恩返しが出来たらと思ったのや!」
「優しかったのねっ、ご主人と女将さんは……和さんに逢わせて欲しいってお願いした時も、気持ちを分かってくれて会わせてくれたから……」
夕子は、和久と会わせてくれた太閤楼の女将、麗子の事を思い出して懐かしんだ。
「うん、優しかった!……わしが見習いの頃やが、ダイコンの桂剥きが出来んでなぁ、ご主人に叱られて調理場を飛び出した時の事や……店が終り、調理場の明かりが消されても、わしは庭に在る大きな木の下に居った……腹が減ってなぁ、家に入りとうても入れへんのやっ! そしたら女将さんが来てくれたのや(お腹が空いたやろ?)言うて、調理場に連れて行ってくれた……そしてご飯を食べさせてくれた! わしは嬉しゅうて泣きながら食べた! そしたら女将さんが(和久、初めから出来る人は居らんよ! 遅いから食べたら寝なさい!)そう言うて、わしの頭を撫でてくれてなぁ……わしは食べた後で、泣きながら朝方まで練習をしたのや!……その様子を、ご主人が見ていてくれたのや! 後で知って涙が止まらんかった!」
話を聞いている夕子は、愛しげな眼差しを投げ掛けている。
「そんな時やった、夕子の歌が慰めてくれたのは……魂を揺さ振る夕子の歌がなぁ……」
「和さん……」
見詰めていた夕子は、和久の胸の内を聞いて、消え入る様な声で和久の名前を呼んだ。
「わしが太閤楼の調理場を任された時、夕子は歌謡界の頂点に居った! 夕子は輝いとった!……其の時にわしは思ったのや! 太閤楼の名声を上げたら、必ず夕子が食べに来てくれる! いや、わしの調理する料理を夕子に食べて欲しい! 夕子の歌に負けん様な料理を作るのや! そう思って精進したのや!」
和久は、誰にも話した事の無い過去を夕子に話した……其の思いを聞いた夕子は目に涙を溜めて和久を見詰め、側に来ると子供の様に泣き出して抱き付いて来た……泣きじゃくる夕子を受け止めて抱き締めた和久は、夕子の黒髪を優しく撫でた。
「和さん、ありがとう!……私は一人じゃ無かったんだ! 和さんが居てくれた! 和さん……」
涙に濡れた瞳で和久を見詰め、思い詰めた様に呟いた夕子。
「そうや! 夕子、夕子は一人や無いでっ! 何が有っても、わしは夕子の味方や! 夕子の為やったら百万の敵にも向かって行ける! 其れに夕子を守るダイスケも居る……さぁ、もうちょっと飲もうか!」
努めて明るく振舞う和久は夕子を座らせて、空に成っている夕子のグラスに酒を注いだ。
一口飲んで、囲炉裏の縁にグラスを置く夕子。
「私は此れまで一人だった……小さい頃から歌の練習で、友達と遊んだ事も無かった。 歌手に成って歌が売れ出すと、人は寄って来たけど、私の事を本心から心配してくれる人は居なかった! 私を利用する為だけだった……」
寂しそうな顔をして、過去を話す夕子。
「ヒット曲が続けば続くほど、孤独に成って行った……悩みを相談する人も居なくてねっ! だから、お客さんの前で歌っている時が一番楽しかった。 有名に成るに連れて、行動や言動を指図された! 私は自由で居たかったのにねっ……」
夕子は悲しげな眼で和久を見詰め、俯いて話を続けた。
「公演に行く先々で、高級な食べ物屋さんに案内された! 私の体調に関係無く、普通にお料理が出されてねっ……そして、無理が重なって大阪公演で倒れたの!……回復して、和食が食べたい! と言った私を、後援会の会長さんが太閤楼に連れて行ってくれた。 私は、何処のお料理も同じだろうと思っていた……初めに出されたスープを見て、不機嫌に成った私に代わって、社長が女将さんに聞いたの……女将さんは(茜様の体調を思い料理長が調理しました、食して下さいませ!)って信頼し切って言われた……私は、スープを頂いて感動した……目に見えない優しい大きな物に、体が包まれている様な安らぎを感じたの……会った事も無いのに、私の体を思って作られたスープが嬉しくて泣いてしまった……出された全てのお料理に、優しさを感じたの……」
夕子は話しながら涙を拭った。
「そしてねっ……」
言い掛けたが、涙で後が続かなかった夕子。