散歩から帰り、夕食の支度をしている和久は、風呂に行くように勧めた……風呂の支度をして部屋から出て来た夕子は、食事の支度をしている和久に近付き、微笑みながら佇んでいる。
「和さん……」
小さな声で和久を呼んだ夕子。
「んっ、何や? 夕子……」
支度の手を止めて、優しく夕子を見詰めて問い掛けた和久。
「ううん、何でも無い……」
何かを言い掛けた夕子だが、何も言わずに微笑み、ダイスケを連れて風呂への階段を下りて行った。
夕子が朝霧に来て二ヶ月が経とうとしている……桜の季節に来て、里が新緑に染まり、梅雨が終りを告げようとしていたが、和久の思いとは別に、時が空しく過ぎ去っただけである。
暦が替わり掛けた梅雨末期の早朝、物凄い落雷と共に、夕子の悲鳴が聞こえた……囲炉裏の側で寝ていた和久は、夕子の悲鳴を聞いて、慌てて夕子の部屋に飛び込んだ……ダイスケも怖がり、夕子の布団に潜り込んでいる。
夕子の部屋に入ると同時に、再び空が光り間髪を入れづに落雷した……その音の凄まじさに悲鳴をあげた夕子は、部屋に入って来た和久に抱き付いた。
怖がる夕子を、しっかりと抱きしめている和久……落雷の度に、抱き付いている手に力を込める夕子。
必死に耐えている夕子の震えは、抱き締めている和久の手に、小刻みに伝わって来る。
外は物凄い豪雨に成り、容赦ない雨粒がガラス戸を叩く……暫く降り続いた雨が止み、雷雲が遠ざかると、雲の合間から朝日が差し込んで来た。
「もう大丈夫や夕子! 陽が差して来た……雷の音で、よう眠れんかったやろ? 朝飯が出来るまで寝てたらええ……」
夕子は頷いて、ダイスケが潜り込んでいる布団に入った……朝食の支度が整い、夕子とダイスケを呼んだ和久は、囲炉裏の側に座ってテレビの気象情報を見ている。
「何や、夕方からまた雷雨やて……まっ此れが最後の雨やろ! そやけど、朝の雷は凄かったなあ……怖かったやろ、夕子?」
味噌汁と飯を手渡しながら、和ませるように問い掛けた。
「うん、怖かった! でも、和さんが来てくれたから……」
愛しそうに和久を見詰めて答える夕子。
「そうか!……夕子、この大根おろし辛いけど美味いでぇ……」
夕子の答えに照れた和久は、目を細めて話をはぐらかした……ダイスケは先に食事を終えて、夕子の側で伸びをして夕子を見詰めている。
朝食が済み、後片付けが終った和久と夕子は、ほうじ茶を飲んでいる。
「美味しいねっ和さん、此のお茶……」
ほうじ茶を飲んだ夕子は、和久に感謝する様に言った。
「夕子は大した者やなぁ……歌だけやなしに、凄い味覚の持ち主やなぁ」
和久は嬉しそうに夕子を褒めた……褒められた夕子は恥ずかしそうに、和久を見詰めて頬を赤らめている。
「夕子、夕方から雨に成る様やから、握り飯を持って山頂に行こうか? 歩いて汗を出したら気持ちがええから……」
「うん、和さん行こう……」
「よっしゃ行こう! 日差しが強よなってるから、帽子を被って行く方がええでっ!」
昼前にダイスケを連れて、山頂に向かった夕子と和久……途中の小川で湧水を汲み、山頂に着いた和久は、夕子の背中を拭いてやる。
「ありがとう和さん……気持ちが良いねっ!」
山小屋の窓を開けて風を入れ、木陰に成っているベンチに腰を下ろして、走り回るダイスケを見て笑っている夕子と和久。
梅雨は明けてはいないが、山頂の風は心地良く、和久と夕子の頬を撫でて行く……昼食が終り、風に吹かれて姿を変える、雲の形を楽しんでいる二人。
「ぼちぼち帰ろうか?」
「うん……ダイちゃん帰るよ!」
夕子に呼ばれたダイスケは、息を切らせて走り寄って来た……帰る途中、川辺に咲いている花を見つけた夕子は、川辺に降りて行った。
「綺麗でしょう……摘んで帰っても良い?……」
夕子の嬉しそうな問い掛けに、にっこり微笑んで頷いた和久……家に入り、摘んで来た花を陶器の花挿しに挿し、囲炉裏の縁に置いた夕子。
「綺麗やなぁ……夕食が一段と美味なるわ! 流石に夕子やっ!」
和久を見た夕子は、ポット頬を赤らめて下を向いた。
「もう少しダイちゃんと遊んで来る!」
照れを隠す様に、夕食の下準備をしてる和久に言って、ダイスケと河原に行く夕子。
気象予報のように雲行きが変わり掛けた頃、汗を掻いた夕子が帰って来た。
「曇って来たよ! 雨が降りそうになって来た!」
少し慌てている夕子の報告を聞いた和久は、夕子に微笑んで外に出た。
「ほんまや! 予報が当たったなっ……ちょっとしたら降り出すわ! 夕子、それまでに風呂に行ってこいや……」
勧められて支度をして来た夕子は、和久の所に来て佇んでいる。
「んっ、どうかしたんか?……」
佇む夕子に声を掛けた。
夕子は恥ずかしそうに、うつむき加減に佇んでいる。
「和さん、一緒に入ろう……」
思いの全てを打ち明ける様に、恥らって小声で言った夕子……夕子の一言に驚いた和久は、調理の手を止めて夕子を見た……目が会った夕子は、和久から目を逸らし、頬を赤らめて俯いた。