第一章 永遠の別れ
数日間、元の生活に戻った和久と夕子……和久は今後の相談に、夕子とダイスケを残して診療所に出掛ける……武は和久の話を聞いて、夕子が所属する事務所に連絡を取り、事の一部始終を社長に話した。
「和さん、社長が感謝していたよ! 宜しく伝えて欲しいとの事だ!……明日迎えに来ると言っていた!」
報告を聞いた和久は黙って頷き、大きく溜息を吐いた。
「武さん、今から用意をするので、後で加代さんと来てくれや! 夕子に送別会をして遣りたいから……」
急な出来事の中、和久の誘いを快く受ける武夫妻……朝霧に帰って来た和久は、夕子に事の説明をして調理に掛かった。
武夫妻と共に送別会を終えた和久と夕子は、ダイスケと共に武夫妻を見送り、ベランダの椅子に腰を下ろした……大きな月が朝霧を照らし、和久と夕子を優しく照らしている。
「綺麗なお月さま……」
ぽつりと呟いた夕子は静かに立ち上がり、ベランダの手摺に両手を突いて月を見ている……その様子を見て立ち上がった和久は、月を見上げる夕子の肩にそっと手を掛けた。
「本当に待っていてくれるのよねっ!」
静かに振り向いた夕子は、和久を見詰めて問い掛ける。
「うん、ずーと待っている! 夕子が帰って来るまでなっ!」
和久の返事に小さく頷き、見詰めていた目を閉じて佇む夕子……佇む夕子を抱き締めた和久は、夕子の唇にそっと唇を重ねた。
翌朝、何時もの様にダイスケを連れて散歩に行く和久と夕子……明日からは夕子の居ない山道を登る和久! 和久は、そっと夕子の手を握り締め、ゆっくりと階段を上って行く。
山頂に着くまで何も言わなかった夕子……山頂で和久を見詰める夕子は、涙を滲ませている。
「行きたくない! 此処に居たい! 和さんと居たい!……」
消え入る様な声で言い、和久の胸に顔を埋める夕子……夕子をそっと抱き締めた和久は、夕子の黒髪を優しく撫でて無言で夕子を諭した。
山頂から帰り朝風呂を勧めた和久は、朝食の支度に掛かった……支度をして部屋から出て来た夕子は、調理をしている和久の前で佇んでいる。
「一緒に入ろう……」
寂しそうな眼差しで見詰め、呟くように声を掛けて来た。
「うん、入ろう……直ぐに終わるから、ダイスケと先に行っててくれるか……」
「うん、和さん……」
嬉しそうに答えた夕子は、爽やかな笑顔を投げ掛けて居間を出た……風呂に入り夕子の背を流す和久は、夕子と暮らした日々を振り返り、一筋の涙を流した。
風呂から上がり自分の部屋を片付けた夕子は、荷物の準備をして囲炉裏の側に座った……ダイスケは、夕子との別れを感じているのか、夕子に纏わり付いて離れない。
無言の内に朝食を終えた和久と夕子……夕子はダイスケを膝に乗せて、優しく全身を撫でている。
互いの感情を労わる重苦しい空気の中で、ダイスケの仕草が和久と夕子を和ませた。
「そろそろ社長達が着く時間や……」
夕子を見詰めて、重い口を開く和久。
「うん、和さん……」
寂しそうな眼差しで、呟くように答える夕子……二人が外に出ると、武の車の後に迎えの車が見える……車は朝霧の入口を曲がり、奥の駐車場で停まった。
車を降りた社長は、迎えに出ている和久に頭を下げて礼を言い、夕子に歩み寄る……夕子は挨拶の後、満面の笑みを浮かべて社長の温情に応えた。
社員が夕子の荷物をトランクに積み、武と和久に挨拶をした社長も、後部座席に乗り込んだ。
夕子を見送る和久と武夫妻……車に乗り掛けた夕子は、足元で自分を見詰めているダイスケを抱き上げる。
「ダイちゃん、元気で居るのよ! 病気をしない様にねっ……ありがとう、ダイちゃん……」
優しく礼を言う夕子の頬を、ペロっと舐めたダイスケ……ダイスケを加代に渡した夕子は、武に礼を言い加代に別れを告げて、後部座席に乗り込んだ。
愛しそうな眼差しで、和久を見詰める夕子……和久は、二度三度と大きく頷いて、夕子の気持ちを和らげた。
車が動き出し、和久の前をゆっくりと通り過ぎる。
「夕子! 待って居るからなぁ……」
涙を流して叫ぶ和久……和久の声に振り返った夕子は、涙を流して和久を見詰めて頷いている……ダイスケは吠えながら車を追い、その姿を見た夕子も手を振ってダイスケに応えていた。
朝霧の入り口を曲がり、夕子を乗せた車は朝霧の里を後にした……吠えながら、入り口まで追い掛けて行ったダイスケは立ち止まって、夕子の後ろ姿に吠えている。
そして、此の別れが今生の別れに成ろうとは、誰も知る由が無かったのである……朝霧を旅立ち、再び和久の元に戻る事を誓った夕子は、生きて再び朝霧の土を踏む事は無かった。
夕子の車が見えなくなっても、ダイスケは後を追う様に見詰め、その場を動こうとはしなかった。
「ダイスケ! おいで!」
大声でダイスケを呼び戻す和久……和久の声を聞いたダイスケは、入り口を振り返り振り返り、和久の所に駆け戻って来た。
ダイスケを抱き上げた和久は、旅立った夕子の面影を追っている。
「寂しく成るなぁ……」
和久の肩を軽く叩き、慰める様に呟いた武……武の言葉に黙って頷く和久。
空は良く晴れ、温かさを増した一陣の風が、爽やかな笑顔を残して旅立った夕子の笑顔と共に、青葉を揺らして見送る三人の頭上を吹き抜けて行った。
そして、歌謡界に戻った夕子は、再び復帰公演を催した……朝霧の囲炉裏の側で公演の中継を見る和久と武夫妻。
夏が過ぎて、秋風が心地よい朝霧の里……優しく朝霧を照らす中秋の名月! ダイスケを膝に乗せ、期待を込めて見詰める和久……超満員の観衆が見詰める中、舞台に立った夕子は深々と頭を下げて顔を上げた。