翌日、和久は陽が昇る前に目を覚ました……夕子とダイスケは、囲炉裏の側で眠っている。
静かに戸を開けて外に出た和久! 昨夜見た満天の星空に代わり、見事な雲海が和久の眼前に姿を現している……まるで、山水の世界に迷い込んだ様な幻想的な風景である……真っ白い雲の海が果てしなく続き、雲の間から出ている山脈が点在する島の様に見えている。
小屋の戸を開けて夕子を起こした和久。
「おはよう和さん……随分早いのねっ!」
夕子は目を細めて、爽やかな笑顔を投げ掛ける……側で寝ていたダイスケも目を開け、大きなあくびをして伸びをしている。
「夕子、外に出てみっ! 凄い雲海や!」
興奮して夕子を誘う和久。
「雲海?……」
「そうや! 雲海や! わしも初めて見たわ……」
和久に誘われ、上着を羽織って外に出た夕子は、眼前に見える自然の奇跡に声を失い、ぼーぜんと立ち尽くした。
「綺麗!……」
ぽつりと呟く夕子の前で、静かに上下を繰り返す雲の海は、大海原の波の様に見え、山頂に佇む二人を優しく包み込んでいる。
陽が昇り、光が雲海を照らし始めると、雲は御伽の国に居る様な色彩に変わって行った。
佇みながら、自然の奇跡を見詰める夕子……朝日に照らされ、雲海を見詰める夕子の瞳は、夢を追い掛け、夢を見続けた幼い日の少女の様に輝いている。
「ありがとう……和さん」
眼前の奇跡を見詰めて、小さな声で呟くように言った夕子。
「・・・・・・・」
消え入る様に呟いた夕子の気持ちを察した和久は、優しく肩を抱き寄せて無言で頷いた……山頂に佇み、雲海に魅せられた二つの影が、照らす光を浴びて一つになった。
暫し佇み、生物の様に波打つ雲海に見入っている和久と夕子。
「スープを温めて来るわ! もうちょっと此処に居るか?」
「うん、和さん……」
和久に振り向き、短く返事をした夕子は、足元に居たダイスケをそっと抱き上げ、雲海を見詰めている。
「そうかっ……そんなら、用意が出来るまで此処におりっ……」
雲海を見詰める夕子に微笑み掛け、山小屋に戻った和久はスープを温め、餅を網に乗せて夕子を呼んだ……ダイスケに食事を与え、スープと餅だけの朝食を取った和久と夕子。
二人は惜しみながら雲海に別れ、新緑を楽しみながら山頂を下りて行く……先に降りたダイスケは、山女に吠えながら和久達を待っている。
「ダイスケの奴、山女に挨拶をしているのやなぁ……」
和久の言葉に、笑って頷く夕子。
家に着き、囲炉裏に火を熾した和久は、ダイスケと遊ぶ夕子に目を細めた。
「夕子! 朝風呂に行ったらどうや?」
「うん、ダイちゃん行くよ!」
ダイスケを連れて家風呂に行く夕子は、ドアの所で振り返り、囲炉裏の火を整えている和久に爽やかな笑顔を投げ掛けた。
夕子の後ろ姿を見送る和久……だが、自分を信じ切っている夕子を、如何にして怒らせれば良いのか、見当も付かないまま日は過ぎて行く。