雨はまだ降り続いている……其の雨の中、武夫妻が車で着き居間に上がって来た……加代と夕子は、ダイスケを連れて家風呂に行き、武と和久は家族風呂に行く……風呂に浸かって水嵩が増した小川を眺め、雨に煙る山林を見ている武と和久。
「難しいなあ……」
呟く様に話し掛ける和久。
「そうだなあ……あんたを信じ切って居るからなあ夕子君は! どうだ、和さん! このまま此処で、夕子君と暮らせば……」
和久の心情を察している武は、気を晴らす様に問い掛けた。
「武さん、夕子は歌が好きなんやって! わしも夕子の歌が聞きたいしなぁ! あいつも、目に見えん何かと必死で戦っているのや!……もうちょっと黙って見守って遣ろうと思っているのや……」
「うん……」
短く返事をした武は、川辺に咲いている黄色い野草の花弁に視線を移した。
「わしには、夕子を怒らす事は出来んかもしれん……」
「・・・・・・・」
和久の言葉に、無言で頷いた武。
居間に帰ると夕子と加代の姿は無く、囲炉裏の側にダイスケが座っている。 和久を見たダイスケは、近寄って抱き上げられると、嬉しそうに尾っぽを振り和久の頬を舐めた。
「ダイ、腹が減ったのやろ? 直ぐに支度をするからなっ……」
ダイスケを下ろし、器に入れた食事をダイスケの前に置くと、和久の顔を見て食べ始めたダイスケ……食事が済んだダイスケは、家風呂に行く戸の前で夕子と加代を待つ様に、和久達に背を向けて寝そべっている。
暫くして戸が開き、夕子と加代が居間に入って来ると、起き上がったダイスケが足元に纏わり付いて甘え出した。
「ダイちゃん、お待たせ!」
同時に声を掛け、夕子が抱き上げると夕子の頬をぺろりと舐めたダイスケ。
「あっはっ、ありがとうダイちゃん……好き好きしてくれたの……」
嬉しそうに語り掛け、優しく抱き締めた夕子……夕子の様子を見ていた和久は、武が風呂で言った事を思い起こしていた。
囲炉裏の周りで夕食を楽しみ、茶を飲みながら会話が盛り上がっている。
「買い物に行って、夕子さんだと知られなかった?」
夕子と同じ事を聞いて来た加代……加代の言葉を聞いた和久と夕子は、お互いの顔を見て大笑いを始めた。
「如何したの? 二人とも……」
笑いの意味が分からない加代は、武を見ながら問い掛けて来た。
「それがなぁ加代さん、夕子が同じ事を言ったのやっ! わしが、大丈夫や! こんな田舎に茜 夕子が居る訳が無い、似ている人が居るなあと、思うだけやと言ったらなっ、夕子が(分かったら、此の人に誘拐されて連れて来られた! 助けて下さいって言おうかっ!)と言うたから、お前も面白い事を言うなぁと言って大笑いをしたのや……」
和久の説明を聞き、加代と武も大笑いを始めた……二人が笑う姿を見た夕子は、嬉しそうに微笑みダイスケを膝に乗せた。
降りしきる雨の中、武夫妻を見送り、囲炉裏の側でダイスケと遊ぶ夕子……ダイスケと戯れる夕子を見て、和久の気持ちは複雑に揺れ動いていた……武が言う様に、此のまま此処で暮らした方が良いのか! 華やかな歌謡界を望むのか! それは、夕子自身が決める事だと分かってはいるのだが……だが、歌謡界に復帰する為には、怒りを取り戻し、天性の歌声を取り戻さなければ成らない……和久を信頼し切っている夕子を、如何にして怒らせるのか! 糸口さえ見えない思いが和久に圧し掛かって来る……夕子に体罰を加え、喜怒哀楽を奪った人物に、言い様の無い怒りを覚える和久である。
「和さん、どうかしたの? 何か心配でも……」
思案顔をして考えている和久に、夕子が問い掛けて来た。
「あっ、いや別に何でもあれへんよ……よう降る雨やなぁと思うてなっ、こんだけ降ったら散歩にも行けへんからなぁ……」
まさか、夕子の事を考えているとも言えない和久は、夕子をちらっと見て話を作り出した。
「うん、そうだねっ! ダイちゃんも退屈しているし、山女にも会えないしねっ……」
膝の上で目を瞑っているダイスケを撫でながら、呟く様に言った夕子。
「明日も多分雨やろ!……雨やったら、ソバでも打ってお好み焼きでも作るかなぁ……ソバの打ち方を教えてやろか、夕子……」
「本当、和さん! 教えて教えて、それに私、お好み焼き大好き! 大阪のお好み焼きが好き!……公演に行った時には、必ず食べに行ったから、和さんお好み焼き作れるの?」
夕子は、はしゃぐように言って和久を見詰めた。
「夕子君、作れるの? とは、どう言う意味ですか? 私を誰だと思っているのですか……」
わざと標準語で、おどけて言った和久。
「あっはっ、和さん標準語も喋れるの?」
「あのねぇ夕子君!」
「そうでした、ご免なさい!……天才料理人、味の魔術師! 霧野 和久さんでした!」
微笑みながら、笑いを噛み殺す様に言った夕子。
「そう、分かればいいのです! 分かっていればねっ……」
おどけて言った和久と夕子は、お互いを見て大笑いをした。