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ケンペル補遺 第3回レジュメ№4

2015-03-09 | 図書裡会歴史講座より 函館の歴史

7 ケンペル補遺

(1)          エンゲルベルト・ケンペルの日本像の形成について 記念講演、第10回ケンペル。バーニー蔡、箱根、1995年11月23日より

   Wolfgang  Michel ヴォルフガング・ミヒェル(九州大学教授)

   まず初めに、本日「ケンペルとバーニー蔡」にお招きいただきましたこと、心より感謝申し上げたいと思います。本来学問に臨む姿勢は客観的なものであって、感情に左右されてはいけないのですが、心に感動を覚えなければどんな学者もすぐに研究意欲をなくしてしまうでしょう。

  私自身も今日ここにお招きいただき、とても感動しております。いや、興奮していると云った方がいいでしょう。私の同国人であるエンゲルベルト・ケンペルがここ東海道を旅してから305年の歳月が経ちますが、今日ここに日本人とドイツ人が再び集まり、この歴史的な出来事とこの人物に思いを馳せることができますことは、実に感慨深いものがあります。また、遠く久田ドイツの、ケンペルの故郷レムゴーからも今日はお客様をお迎えし、共にケンペルの足跡を辿ることが出来ます。この人物をこれほど有名に、また特別なものにしたのは、一体何だったのでしょうか。

ご存知のように、ケンペルは日本に来た最初のドイツ人と云うわけではありません。

 安土桃山時代に渡来した宣教師のほとんどがポルトガル、スペイン、イタリア、つまりヨーロッパのラテン語圏の出身者でした。しかし、オランダの東インド会社が1609年平戸に商館を置いてからは、最初のドイツ人が日本の土を踏むようになるのは時間の問題でした。

そのうちの一人に南ドイツの都市ウルムの出身で、ミヒャエル・オーライター(Hohenreiter)という人がおりましたが、この人こそ、最初のドイツ人だったかも知れません。

彼は1614年から1620年にかけて、在日していたはずです。20年代半ばにはドナウ河畔のイソップという町から、クリフトフ=カール・フェルベンガー(Fernberger)が来日しています。平戸商館の日記にには時々「ドイツ人航海士」についての記述が見られます。特に有名になったのはウルヘルムハルツイング(Hartzing)で日蘭交易において多大な貢献をしました。

彼と日本人妻の間に生まれた息子は中部ドイツの教会に埋葬されています。外科医カルパル・シャムベルゲル(Schamberher)は1650年に10ヶ月間江戸に滞在し、多くの高官を治療しました。西洋医学につて彼が説明したことはカルパル流外科の基礎となり、kれは紅毛流外科の分野で日本最初の流派となりました。ドレスデン出身のツアハリアス・ヴァーゲネル(Wagner) は会社のために有田ですばらしい磁器を発見しました。

 この人が大量の注文をしたことが有田の経済的な基盤を確実なものにし、まもなく日本の磁器がヨーロッパのお城や館を飾るようになります。彼とその部下はさらに江戸においてあの有名な明暦の大火を生き延びています。ヴァーゲネルのこの大火の事をドラマチックな形で祖国に伝えましたが、それはオランダの作家モンタヌスによって改作され、遠い日本で起ったこの惨事はヨーロッパ中の話題になりました。また、廃墟になった街並みを描いたヴァーゲネルの水彩画は今日、東京の「東京江戸博物館」に展示されています。

医師の資格を持つ出島商館長アンドレアス・クライヤー(Cleyer)は部下のゲオルク・マイステル(Meister)と共に日本の動植物を研究しています。彼が知り合いのヨーロッパの学者に送った資料は多くの本に掲載されました。マイスター自身も彼の東アジア、特に日本での体験をかなり、個人的な印象記の形で本に記しています。時間が許せば、まだまだ名前を挙げるべきドイツ人は多く、それぞれが各人各様の物語を有しています。

ケンペルは出島で資料を集めた最初のヨーロッパ人ではありませでした。

 これまで述べてまいりましたことからもお察しのとおり、ヨーロッパ人は出島や平戸でケンペル以前にも日本について資料を収集していました。商館長は、交易や東インド会社との関係について日記や、バタヴィア総督への書簡、報告書。後任者への申し送り状の中で様々な出来事を詳細に記録に残しています。また、年ごとの江戸参附、老中や幕府などの重要人物との会談、江戸城での謁見などの記述も多く残っています。すでに1669年、つまりケンペルの著作「日本誌」が発行されるおよそ50年前にオランダ人アルノルドウス・モンタヌス(Montanusu)は東インド会社の文書や個人的な日記などの中から、記念すべき江戸参附について、そのいくつかを紹介しています。

 ヨーロッパ人銅版画家によって本文の記述をもとに作成された挿し絵は非常に想像力をかきてるものがあります。たとえば大阪城のような日本から届いた資料は、とても貴重なものになっています。本文自体も、モンタヌスが用いた日記などの資料を正確に反映していると断言できます。業務上の記録の他に個人的な日記も多数残っていました。読み書きができ、いくらか時間があったヨーロッパ人は異国での経験を書き留め、それにスケッチを添えていました。これらの旅行日記の中にはヨーロッパに帰った後で出版されたものもあります。著書の自尊心を満たす上でも、また異国に寄せる読者の強い好奇心に答える上でも、こうした出版物の人気は大変高かったようです。

しかし、ここでもう一つの点に注意を払っていただきたいと存じます。数多くの資料は紛失してしまいました。しかし、今日まで残ってきている日記などの資料は、恐らくは氷山の一角に過ぎないほどわずかなものです。船の遭難は珍しいことではなく、ヨーロッパの旅行も決して安全ではありませんでした。

 戦争や火災、無関心な後世の人々などにより、生き延びた旅行者が持ち帰った資料の数はさらに次々とその数を減らしていきました。さき述べました外科医シャムベルゲルもこのような「日本旅行記」を書き、これは1704年には有名な学者ヴァレンティニ(Valentini)によって薬品に関する本のために利用されましたが、その後の行方は分かりません。

 水彩画を多く掲載したオルフェン出身バルトロメウス・ホフマン(Hoffmann)の旅日記は第2次世界大戦の戦禍の犠牲になり、残っているのは図書館員が以前に書き残した簡単なメモだけです。

 広く旅行して歩いたツァハリアス・ヴァゲネルにはスケッチの才能がありましたが、それは残っているブラジルや南アフリカの絵を見ればわかります。日本でも彼は大いに絵や文章を書いたに違いありません。しかし残っているのは明暦の大火を描いた水彩画と自伝を短く要約したものだけのようです。ケンペルの少し後に来日したドイツ人薬剤師コンロート・レッツェル(Raetzel)は何千という標本や、器具、磁器、タンス、硬貨等を収集していました。遠くからも近くからもハルバーシュタットの彼の家にやって来た旅行者たちはこれらの宝ものに目を見張るばかりでしたが、今日残っているのはその目録だけです。

エンゲルベルト・ケンオエルの資料が今日まで保存されてきたのは、決して当たり前だとは言えません。もし彼の死後、イギリス人学者で、大英博物館の創立者でもあるハンス・スローン(Sloane)がケンペルの資料に注目していなかったとしたら、他の個人的な収集品の場合と同じ憂き目に遭いこれらの遺産は彼の死後四方八方に散らばってしまっていたことでしょう。

  スローンの尽力がなければ、今日のケンペルについてはそれほど多くを知ることはできなかったでしょう。また、代表作である「日本誌」も出版されなかったかも知れません。

  なぜヨーロッパの人々は海外へ旅だったのでしょうか。

   オランダの港町で船員や兵士を募集作用する際に、人権のようなものにそれほどの注意を払っていたとは思えません。借金を返済できなければ次の船に乗らなければなりませんでした。

  孤児院は財政状態を改善するためによく子供たちを売りました。藁のもすがる思いで著名し、波高い海で目覚めた者もいました。そかしあちらこちらから多くの者が自分の意志でやって来ました。故郷の当局の手を逃れてきた者もいれば、冒険心にかられてやって来た者もいました。次男や三男なら遺産もあてにできません。30年戦争では多くの人々がすべてを失い、アムステルダムへ流れて込んで来ました。それぞれの動機は何であれ、ほとんどが豊かな東洋で財産を作ろうと思っていたのでしょう。

   ケンペルは経済的な理由とは全く関係なく、学問的な関係だけで故郷のレムゴーを後にしたと自ら「日本誌」にほのめかしていますが、この点については多少の疑問を禁じ得ません。ご存知のように帰国の後に裕福な家庭からの若い娘と結婚したのも医師の地位にふさわしい生活費を得るためでした。そしてヴォルフガング・ツェザール博士が1990年に指摘されましたように、ケンペルな生涯を通じて遺族や地位の高い人々に近づきたがりました。

学問や好奇心だけにかられて旅立ったのではないでしょう。彼が、たとえば、シャムベルゲルヤクライヤーのように裕福になれなかったのは、商売の才能に恵まれなかったためでしょう。しkし、それはともかくとして、ケンペルは旅行中絶え間なく周囲を観察し、分析し、地図を描き、資料を集め、日記をつけている点を見ても分かりますように、知的好奇心にあふれた人物だったに相違ありません。

 ケンペルはなぜ日本に来たのでしょうか。

今日、ケンペルの一生を振り返ってみると、いかにも彼は計画通りに日本へ来たような印象を与えかねません。日本は最も遠い国であり、ケンペルはその代表的な著作を日本について著しています。さらに古くからヨーロッパ人が憧れていた遠方の海のどこかにある「永遠な幸福の島」というイメージ、マルコ・ポーロのジパングの話や・イエズス会士の追放後、謁見はできてもその支配者にじかに接することはできないことなど、日本には様々な謎に包まれた国というイメージが重なり合っており、全体的に言って、彼の人生航路には西から東を指向する傾向が感じられません。

 しかし、実際にはケンペルは決して最初から日本を目指していた訳ではありません。例えばアムステルダムからはより速く東アジアへ赴くことも可能でした。しかし彼はスェーデンの使節と共にモスクワを経由してペルシャのイスファハンに行っています。スェーデン特使一行が帰途にある時、彼はドイツで勃発した戦争を避け、エジプトへ行こうと考えたようです。グルジアのある領主から侍医としての職を勧められてもいましたが、1684年6月に、オランダ艦隊がペルシャの港町ベンデル・アバスに錨をおろしたという知らせが届くと、ケンペルは突然インドに行こうと決心します。

多くの請願書が証明するように、彼にとって会社に職を得ることは容易なことではありませんでした。「小生は国にはちゃんとした財産もありませんし、大学を出るのに多額の費用をかけました。旅行にも金がかかりますし、その上、私の故郷は戦争です」と、ベンデル・アバス(バンダレ・アッバース=イランのホルムズ海峡北岸に位置する港町)のオランダ商館長に書いています。職を得るのに難色を示され、ケンペルの不安はますます大きくなったようです。

会社の著名な植物学者ヘルベルト・デ・ヤーヘル(de  Jaget)に宛てた手紙では、他の仕事でも引き受けるつもりだ、兵隊でもいいとまで言っています。ところで、このようなケンペルの姿勢は英雄としての死を覚悟していたというよりも、生きず待った状況を打開しようとして必死になっていつ姿を如実に物語っています。

1684年12月にこの嘆願がやっとかなえられ、ベンデル・アバスのオランダ商館で勤務することになります。翌年秋に会社は彼を船に乗せました。手紙が裏付けているように、その時まだケンペルは、「インドおよび中国のもっとも高貴な宮廷」のことしか考えていませでした。インドの海岸地方へは確かに行きましたが、中国へはいってはいません。1689年10月バダヴィア(Batavia)はインドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)に着きます。

 ここで彼は当時空席になっていた第一医師と病院の薬剤師としての職を求めましたが駄目でした。軍医将官は彼のことが気に入らなかったようで、そのことでまたケンペルは愚痴をこぼしています。ケンペルは決して小心者ではなかったはずです。このような旅では生命の危険は避けられません。彼はすぐに感激し、新たなチャンスにはためらわずに挑戦したに違いあれません。 

しかし同様に、困難な目に遭うる気が変わりやすいたちでもあったようです。そのような場合、勇気をなくし、いつも愚痴をこぼすかと思うと、主人に期待して、耐え忍び、待つこともあります。ケンペルは決して戦闘的な人生は送らなかった人です

バアタヴィアで、またしても生き詰まったケンペルに会社がすすめた長崎商館医の職は突然有望な道を開いてくれました。東アジアでは、すでに数名の有能な学者が動植物などの研究に携わっていましたが、鎖国の日本では先駆的な仕事をするチャンスが大きかったのです。

 このように日本に来たことは偶然で、則断と他の計画の失敗によるものでした。しかし、東インド会社の帆船で直接バタヴィアへ、そしてそこから日本へ来たヨーロッパ人と異なり、ケンペルは長いさすらいの旅でロシアや近東、インドシャムなどを知り、その観察力を養ってきました。

人間の文化やその状況の多様性を見る目は鋭くなり、自分の観察を書き留める力も培われ、ものごとを比較しながら分析するような習慣が身に付きました。17世紀に来日したヨーロッパ人の中で、ケンペルは結局、旅行で見聞を深め、最も成熟していた人だったと思います。

 

ケンペルと今村源右衛門との出会い

出島就任の決定が下ってからケンペルは、この新たな旅行先について手に入る限りの資料にはとびつき、熱心に収集しました。船に乗ってからもその熱心さは衰えず、彼は17世紀前半の平戸と出島の商館長日記を写しています。

 ペルシャのベンデル・アバスやバタヴィアで不運だったケンペルも、日本では幸運の女神に恵まれ、若い今村源右衛門に紹介されました。青山学院大学の片桐教授は、この「ケンペルとバーニを讃える会」においてすでに、この最も注目すべき人物について詳細に紹介しておられます。私はそれ以上のことは述べられませんが、ただ一つだけ改めて強調したい点があります。それは、今村を抜きにしては今日の形でのケンペルの「日本誌」は想像できないということです。

ケンペルがこの聡明で若き秀才に対して称賛と謝意を惜しまなかったとしても、それは当然と言わなければなりません。またその逆のことも言えます。

ケンペルはクライヤーとテン・ライネに続いて出島ではやっと3人目の大学を出た医師でした。

今村にとってもこの高度な教育と豊富な旅行経験のある学者との出会いは生涯のチャンスだったのです。彼がケンペルに様々な資料を手渡すことが、どれほど危険なことであったかは、19世紀のシーボルトとその日本地図のことを想起すれば明らかです。それでも、ケンペルによる指導は今村に新たな世界を開き、それなりの価値のあるものだったようです。

 今村とケンペルの出会いがこのように素晴らしい成果をもたらしたのは、彼らの高い教養と知的好奇心だけではありませんでした。人間としても互いに最もよく理解し合っていたこともその理由であったようです。ヴィレム・テン・ライネの例が示すように、他の結果もあり得たでしょう。若くして」すでに医学の博士号を取得していたヴィレム・テン・ライネは才能に恵まれていました。幕府から優秀ない医師を派遣する依頼を受けていたオランダ会社が特に出島商館のために彼を採用しました。1674年来日したテン・ライネの通詞も無教養ではなかったはずです。

本木庄太夫は医学書を翻訳して名を成し、岩永宗古は医学的にも豊富な知識を持っていました。しかしテン・ライネは日本人の西洋医学に関する質問を支離滅裂で原始的であり、それに答えるのは貴重な時間の無駄遣いだと感じていました。彼の側で鍼灸法についての中国語の本を説明させ、理解できない問題が持ち上がると、本木と岩永のオランダ語の知識が不十分だったせいにしでいます。ケンペルが行ったような語学教育は彼にとって煩わしかったのでしょう。

このように本木とテン・ライネの出会いは新しい知識を得る上で双方にとっていくらか益するところはありましが、ケンペルと今村が得たような大きな成果には程遠いものでした。日本に強い関心を持っていたクライヤーも通誌達のオランダ語の能力不足を嘆いています。ただ江戸で仕えていたポルトガル語の老通詞西玄甫のことは称賛しています。しかし江戸には1年に何週間も滞在していたわけではありません。さて、ケンペルの日本研究に戻りましょう。

 

観察と資料収集の2年間

 ケンペルが1690年から1692年までに書いた記録は膨大な量になります。

1712年に出版された「廻国奇観」と1727年、彼の死後ロンドンで発行された「日本誌」に含まれているのはほんの一部です。

   「廻国奇観」

 「廻国奇観」の印刷は彼自身で監視することが出来ました。これはゲオルグ・マイステル著【東洋の庭師】に引き続いて、日本の植物を紹介する本であり、18世紀に来日したツウンベリ(Thunberg)や19世紀のシーボルトなどお学者に多大な影響を及ぼしました。さらに鍼灸やお茶についての論文、幕府の鎖国政策を正当化した論文なども含まれています。今日の日本語における「鎖国」という言葉は、すでにお聞き及びでしょうが、ケンペルを翻訳した志筑忠雄が享和元年(1801)に考え出したものです。

   「日本誌」

  「日本誌」を書くにあたってケンペルは地理学者ヴァレニウス(Varenius)、先ほどふれたモンタヌス、また16世紀の宣教師から多くのアイデアを得ていますが、ケンペルの資料自体は直接日本で得たものであり、最新のものでした。豊富な個々のメモから彼は骨を折りながらも、明確に分類された地理学、民族史、歴史、交易の図をまとめました。巻末には元禄6年及7年の江戸参附の日記が付いており、これだけは当時流行っていた旅行文学を思い起こさせるものがあります。

   この著作はかつてないほど広範囲で体系的なものであり、ほぼ1世紀半にわたってヨーロパの知識人の、日本に関する最も重要な情報源として用いられました。フランス人ディドロとグランベールによって編集された史上初の百科事典に見られる日本関係の記述は全てケンペルに拠っています。ヴォルテール(Voltaire)やカント(Kant)のような哲学者、そして詩人、地理学者などもケンペルを熱心に研究していました。1823年から1829年にかけて日本でも大量の資料を収集し、日本人の医師を養成した著名なシーボルトでさえも、その著作「日本」の中の多くの個所で、大先輩ケンペルを参照しています。

  

ロンドンにあるケンペルの遺稿とその研究

  しかし、ヨーロッパの大学において19世紀後半に始まったいわゆる「日本学」の発展と共にケンペルへの関心は徐々に薄れていきました。おそらく日本から新たな資料が大量に入ってきたので専門家は、過去のパイオニアの資料に費やす時間と関心が少なくなったのでしょう。ケンペルとその著作が研究の対象として再び発見されたのは、ケンペルと同郷のマイヤー・レムゴー(Maier-Lemgo)の功績です。彼はケンペルの波乱に富んだに富んだ生涯に再び光を当てただけではなく、その遺稿を保存している大英図書館へも足を運び、多くの書簡などを発表しました。残念ながら、彼がロンドンにある他の資料について、ほとんどは解読が不可能だ書いてしまったこともあって、その後のさらなる研究への意欲を、そいでしまった煮です。結局、多くの人々は、ケンペルはすでに研究済みの分野であり、未発表の資料は解読できないと信じ込んでしまいました。1985年、ドイツの私の友人は、「ケンペルについての補遺」という表題の短い論文さえ発表しています。私自身も当初まったく同じ気持ちでした。このような研究の膠着状態から脱出する機会が与えられたのは、1990年、ケンペル来日300年記念行事として行われた、レムゴー及び東京における国際シンポジュウムでした。その時、あらゆる専門分野の研究者がケンペルの旅と彼の著作について意見を交しました。その多くが発表の準備のため大英図書館の資料にも目を通しました。私自身も、1989年に初めてそのケンペルの資料に目を通し、深く感動いたしました。

 残念なことに、整理されていないものもあり、一部はペルシャや東南アジアの稿本と一緒になってしまいました。その資料は全部で数1000枚もあり、押しつぶされそうな分量でした。

ケンペルと今村源右衛門は何時間も机に向かっていたに違いありません。出版されたのはそのほんの一部です。本日皆さんに、細々とした資料について述べることはとても不可能なことですが、いくつかの代表的な例を紹介させていただきたいと思います。

 例えば、ケンペルの著閣である「廻国奇観」には日本の植物について8枚の挿し絵がありますが、彼は実際には全部で217枚の植物のスケッチをしており、それは何百という押し花を持ち帰っていました。

  「日本誌」でケンペルは日本の書物について触れています。論堂宇の資料を見ると、その多くをヨーロッパに持ち帰っており、またその一部は今村が翻訳し、要約していることがわかります。

 ◎「大阪物語」から抜粋

 ◎「順礼の縁起」から抜粋

 ◎「島原記」から抜粋

 ◎「西国三十三番巡礼歌」の翻訳

 ◎「1692年の「江戸鑑」からの長い引用

 ◎「家内重宝記」からの引用と日本料理につての詳細な記述

特に印象的なのは、広範な語彙集と日本語による例文が付いている点です。近い将来私はこれらの解読作業を終えられると思っております。

  「日本誌」にはイロハの挿絵が見らえますが、ケンペルは今村などに何枚も筆で書いてもらい、発音などについてはさまざまな観察や聞かされた説明を書き留めたページは数多く残っています。

  これらの資料からケンペルはきっとさらに多くの論文を書いていただろうと思われますし、日本についての小冊子も編んでいたかも知れません。彼はこれほどまでの宝物を手にしながら、あと残されたわずかな年月の間に、あの革命的な「日本誌」さえも発表できないことに苛立ちと苦悶を覚えていたに違いありません。

 

 英国人スローンの功績

 すでにスローンについてはケンペルの遺稿に救った者として称えました。彼は「日本誌」の原稿の価値を認め、印刷を促しました。残念なことにそれは英語訳のみでした。また、彼に頼まれた翻訳者であり発行者のショイヒツァー(Scheuchzer)は部分的に加筆し、挿し絵の選択と後世に際していくらか無遠慮になっていました。ショイヒツァーはまた補遺の中で「廻国奇観」の日本に関する論文をラテン語から翻訳し、こうしてはじめえ広く一般に知られるようになりました。

 

ドイツ人ドームの功績と独断

1676年と1679年の間にドイツでも、クリスチアーン=ヴィルヘルム・ドーム(Dohm)がケンペルの親族のところで発見した写本に基づいて、英語版とフランス語版に続いてようやくドイツ版を出版しています。しかしドームは若く、多感で、功名心もありましたが、日本につては元々それほどの知識があったわけではありません。第一に彼はショイヒツァーがかなり手を入れた英語版の挿絵を全て用いました。文体も悪いと考え、文章も思い切って書き換ええしまいました。結局、ようやく出たドイツ語版もケンペルの原稿を反映するものではなく、単なるドームの解釈になってしまいました。

ここで見られるさまざまな勘違いは、内容全体やヨーロッパ人の日本像形成に関しては本来あまり関係ないものです。しかし、ケンペルは日本をどのように認知したのか、あるいはまた、彼はそれを当時のヨーロッパ人にどういう表現で伝えようとしたのか、などといった観点からケンペルを考察してみると、元々の原稿はもっとも重要なものになります。ドームのドイツ語版は平板でよどみなく、読みやすくなっています。それに対しケンペルの文体はそれほど流動的ではありません。彼は膨大な資料と取り組み、これ等をそのまままとめようとしたので、その言葉はより複雑で、しかも力強く、隠喩は多彩です。ドイツ語の場合は、言葉の形式は個々の分成分の重要性にかなり影響を与えています。判断や価値が表現されている箇所は全てドームが多かれ少なかれ無意識に和らげられています。日本の古典の現代語訳にもそれと似た現象が見られるような気がいたします。18世紀の英語、フランス語の翻訳でも、1987年に出版された元ベルリン領事、今井正による卓越した日本語でも、ケンペルの精神的な体験の多くが繁栄されていないのが実情で、これは翻訳のもつ永遠の弱みだと言わざるを得ません。 

以上のような認識に立ち、これまで知ら知られていなかった大英図書館に保存されている大量の資料から、1990年の2つのシンポジュウムの後、レムゴーのケンペル協会はケンペルの全資料を出版するという大規模な企画に取り掛かりました。

ケンペルの人物およびその著作に特別の価値を与えているのは何か。

  ケンペル研究はそのため、」まだ当分は完結しないでしょうし、今日のケンペル像にはまた変わる部分が出てくると思われます。時間もかなり過ぎてしまいまいましたが、最後にもう一度、

何がケンペルの功績と人物をこれほど魅力的にしているのか、という問いに戻らせていただきます。第一にケンペルは歴史上初めて日本について、完全さをめざした広範な紹介を試み、それを完成させました。自然や歴史、社会などについての多くの情報と共に、ここではさらに新たな観点もいくつか見られます。

第二に、ケンペルはまた、日本を外側からではなく、内側から理解しようと試み、その結果、これまでの日本像を問い直すような新たな評価をするに至っています。

◎ キリシタン弾圧と追放に衝撃を受けたカトリックの著者とは異なり、ケンペルは鎖国は正しく、政治的に有利で、もっとも根拠がある政策とみなしています・

◎ ケンペルはさらに、日本は技術や学問の点において、他のあらゆる諸国よりも勝れていると述べ、我々現代人にとって興味深い主張をしています。

◎ 彼の見解ではまた、日本国民は極めて幸福な境遇におかれています。

◎ ケンペルによってさらにまた、日本国民は極めて和を重んじる民族だというイメージが出来上がりました。

◎ また、鍼灸による医療方法もヨーロッパで行われている焼灼(外科で薬品窓で病組織を焼く治療法)よりはるかに穏やかで自然的だとみなしています。

  多くの点でケンペルは、日本は西欧の模範になれると考えていました。

これはヨーロッパ人が地上の諸民族を支配していた時代にあって極めて大胆で、自由な発想でした。ドームはあとがきの中で、同意できない多くの主張に、激しく反論していますが、これによってケンペル御観点が以前よりさらに明らかになります。

今日世界はますます一体化しつつあります。17世紀頃には6ヵ月かかった日本からドイツまでの船旅の期間が現行期飛行機での11~2時間に短縮されました。外国の文化に触れる人も飛躍的に増えてきています。私の故郷フランクフルトでは、住民の29パーセントが外国の国籍を持っています。日本も経済的にはドイツと同様に貿易に依存しており、外国人の数は次第に増えています。好奇心や率直さを持ち、客観的立場に立ち、あるいはまた異国の人々を理解するためのそれぞれの眼鏡を借りて、相手側の立場も考える努力、こういった優れた姿勢を、私たちは今日においてもこの17世紀の国際人ケンペルから学ぶことができるのです。

御清聴ありがとうございました。

 

 ケンペルの略歴

1651年(慶安4) ケンペルが生まれる

1683年(天和3) ケンペルがスウェーデン使節団とモスクワへ

1684年(貞享元) ケンペルがペルシャへ

1685-88年(貞享2―元禄元)ケンペルがイランのバンダール・アッバース港に滞在

1689年(元禄2) ケンペルがバタビアに到着

1690-2年(元老3-5)ケンペルが出島に滞在。2度江戸参附

1690年 (元老3)マイスター著「東インドの庭園技師」が出版される

1693年(元禄6) ケンペルがアムステルダムに戻る

1694年(元禄7) ケンペルがレムゴーに戻る

1700年(元禄13) ケンペル結婚

1712年(正徳2) ケンペル著「廻国奇観」出版

1716年(享保元) ケンペル死去

1723年(享保8) H・スローン卿ケンペルの遺産を買入(1度目)

1725年(享保10) H・スローン卿ケンペルの遺産を買入(2度目)

1727年(享保12) ケンペル著「日本誌」英語版出版

1777-9年(安永6-8)ドームが「日本誌」ドイツ語版を出版

 

ケンペルとバーニー祭  箱根を守る会事務局

箱根芦ノ湖畔、杉並木の中に一つの石碑が立っています。この石碑は、芦ノ湖畔に住んで、こよなく箱根を愛したイギリス人のバーニーさんが、ドイツ人の博物学者ケンペル著作の「日本誌」の序文を引用しながら彼の第二の故郷である日本と、その国民に対して友情のしるしに建てたものです。

私たちは、この石碑の前に立つとき、この国土の美しさと、それを守ることの情熱の尊さとを、あらためて教えられる気がいたします。

私達は、ケンペルが三百年も前に日本の美しい自然と箱根の歴史や動植物を初めて世界に紹介してくれたことと、バーニーさんの意志を顕彰するため、毎年、湖畔に春の訪れる4月にケンペルとバーニー祭を開催しています。

芦ノ湖湖畔に立つケンペルとバーニ―の碑文⇒(西暦一千七百二十七年(中御門天皇享保十二年四月廿日倫敦に於いて出版せられたる「ケンピア」氏著日本歴史の序文に曰く、本書は隆盛にして強大なる歴史成り、本書は勇敢にして不屈なる国民の記録なり、其人民は謙譲勤勉敦厚にして其拠れる地は最も天恵に富めり、新旧両街道の会合する此地点に立つ人よ此光栄ある祖国をば更に美しく尊くして卿等の子孫に伝えられよ 箱根にて 大正十一年十月吉日 於扇港 無外居士書 印 [イギリス人の貿易商バーニーの立てた碑]クリック)

ケンペルとバーニーの略歴

以下 省略

第十回(平成7年)「廻国奇観―エンゲルベルト・ケンペルの日本像の形成について」ヴォルフガング・ミヒェル(九州大学教授)

以下 省略

 [45] Tab.XVL.Ahunbrg Japonum.p48/49.(ID:0874)

  

国際日本文化研究センター 貴重書データーベース「ケンペル『日本誌』」より


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