2 平秩東作「東遊記」の昆布情報および関連資料
平秩東作(享保11(1726)~寛政元(1789)年)稲毛屋金右衛門として新宿で馬宿(駅伝・伝馬(てんま)に用いる馬を用意しておく所。)経営。狂歌師、戯作者
天明3(1783)年8月5日江戸を出て、三厩経由で9月19日松前着、10月1日江差に入る、「うらなき友」村上弥惣兵衛方へ、翌年4月まで滞在。
*天明3年は天明の大飢饉の初年度。 「
東遊記」の記述
松前 江差 箱館の港の様子
松前の外に江差、箱館とて両所の港有。西国、北国の海舶爰に輻、繁栄地に越えたり。松前より江差へ18里、箱館へ26里有、港口の便よき箱館を第一とす、江差是へ次ぐ、松前は港に非ず、府城也。よりて自ら輻輳の所となれり。松前の湊に弁天島と申て小き島有、樹木なく民屋なく、弁財天女の廟有。
松前は海風強く吹て雪積もらず、風は江差にては山背風とて、東風吹き入り渓獵なく箱館は湊よく何れの風吹くとも害なくかかり、船もいたむる事なく、松前は折々船に破損有。江差も弁天島湊に近く船かかりよしといへ共、西風には懸り船損ずる事有。北国、西国への通路は江差湊よし。
(「北門叢書」第2冊p321)
松前蝦夷地産物
鮭 (「北門叢書」第2冊p349-351)
松前蝦夷地産物至って多しといえども、就中多きものは鮭を第一とす。大船数十艘年々イシカリの川へ上りて、鮭を取。其外川有皆鮭の猟をなすといえども、取り尽くすいふ事なし。すたりたるは乾鮭となす。又金高の多きは鯡漁にしくはなし。此のふたつの猟にて此地の人、飲食、衣服に余裕といふ。これによりて其外の国益はかどり難し。
鯡(「北門叢書」第2冊p351-354)
鯡は他国の鰊と唱る魚也。此所にてはニシンと呼び、鯡の字を用ゆ。子は数の子と称して国々に残らず行渡り、外に白子といふもの有。田畑の養のなる。
昆布(「北門叢書」第2冊p354-356)
昆布の事、前の両品に続きて此地に多く出づ。箱館辺の浦より出もの上品也。松前、江差より出もの下品也。志野利浜の昆布は上品にはあらざれども、長崎の俵物にて、異国人懇望する故金高也。庭訓の往来に雲加の昆布といへるは東方雲加といへる所より出る。
此物大坂表へ積上て、夫より諸国へ廻る。献上にもなると云り。此地にては何事にも昆布に煮出しを用ひて塩梅を調ふ。煮出しに遺ひたるものをば道に捨る。今年は凶年故さらして食事の糧に用ゆ。南部、津軽より出る昆布は薄くして、当所にくらぶれば、九牛の一毛也。
*きゅうぎゅう-の-いちもう【九牛の一毛】:「デジタル大辞泉」≪「漢書」司馬遷伝から。多くの牛の中の1本の毛の意≫多数の中のごく一部分。取るに足りないこと。
此所の昆布長きもの十五間ほど有も有。食用に用ゆるには蒸昆布風味至ってよろし。然れども極上品にあらざれば製し難しと云。焼こんぶ是に次ぐ、焼に上手下手あり。先年上手の老女有て、領主参勤の時は江戸へ持玉ふ昆布を焼たり。江戸まで持来ても湿る事なかりしや。煮たる昆布は風味焼昆布より劣れり。然れども彼地の昆布巻などは、味ひ甚だ美なるもの也。
*注 「北門叢書」第2冊大友喜作編 収録(板倉源次郎著「北海随筆」、松前広長著「松前志」、平秩東作著「東遊記」)
北門叢書 全6冊 大友喜作編 国書刊行会/昭47 第一冊 「赤蝦夷風説考」「蝦夷拾遺」「蝦夷草紙」 ▲第二冊 「北海随筆」「松前志」「東遊記」 ▲第三冊 「北地萬談」「北地危言」「えぞ草紙後編」▲第四冊 「環海異聞」 ▲第五冊「北夷談」「北蝦夷図説」「東蝦夷夜話」 ▲第六冊 「北槎異聞」「北辺探事」 ▲北辺旧記の解読校注及び解説書
平秩東作 【へずつ・とうさく】 朝日日本歴史人物事典
生年:享保11(1726) 没年:寛政 1.3.8(1789.4.3) 江戸中期の戯作者。江戸内藤新宿で煙草屋を営む傍ら狂歌、戯作を好み、その流行の端緒を開いたひとりである。本名は立松懐之、通称は稲毛屋金右衛門という。若年時は経学、詩文、の勉強に励んだらしいことは「平秩東作」の狂言にもあらわれている。平賀源内、太田南畝らと親しく、一方で田沼意次政権にも深くかかわって事業を起こしたり、蝦夷地探検に従事するなお、一筋縄ではいかぬ人物像を示している。源内,南畝と共にいわゆる江戸戯作の草分け的存在であり、内に深い学識と野心を秘めて、一方で狂歌や戯作に打ち興じるあたり、前期戯作者の一典型でもある。〈参考文献〉井上隆明「平秩東作の戯作的歳月」(中野三敏)
平秩東作:「デジタル大辞泉」[1726~1789]
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平秩東作 へつつとうさく「日本第百科全書」[JapanKnowedge]
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平秩東作 東遊記 (初代) 【へずつ-とうさく] デジタル版 日本歴史人物事典+plus
1726-1789 江戸時代中期の狂歌師,戯作(げさく)者,儒者。
享保(きょうほう)11年3月28日生まれ。江戸内藤新宿で煙草(たばこ)屋をいとなむ。平賀源内,大田南畝(なんぽ)らと親交があり,和漢の学に通じた。蝦夷(えぞ)地(北海道)で越冬し,見聞記「東遊記」をかいた。寛政元年3月8日死去。64歳。江戸出身。姓は立松。名は懐之。通称は稲毛屋金右衛門。別号に東蒙。著作はほかに「当世阿多福(おたふく)仮面」「狂歌師細見」など *注 平秩東作は土山宋次郎処罰の余波で「急度叱置」れた。 其方儀土山宋次郎身分難立申聞、致出奔候体に見受候ハ、如何様にも申宥(なだ-め)、差留候様可致處、無其儀宋次郎任相頼、長瀧四朗右衛門方え之封状請取、途中にて立別(たちわか・れ)候段、不埒に付 急度叱置候 (北門叢書」第2冊「東遊記」解説p34)
へずつ-とうさく [ヘヅツ:] 平秩東作 「日本国語大辞典」解説・用例
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平秩 東作 出典: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』
平秩 東作(へづつ とうさく、享保11年3月28日(1726年4月29日) - 寛政元年3月8日(1789年4月3日))は、江戸時代後期の戯作者、狂歌師、漢詩人、文人である。幼名は八十郎、後に八右衛門。姓は立松。名は懐之(かねゆき)。字は子玉、嘉穂、東鞠。平秩東作は戯号。号は東蒙山人。父は元尾州藩士で屋号は稲毛屋金右衛門。後に東作が父の屋号を引き継いだ。
経歴
平秩東作は内藤新宿の馬宿に生まれた。東作10歳のときに父道佐死去。14歳のとき、父の後を継ぎ煙草商になった。漢文学や和歌の教養があり、平賀源内と親交を持った。伊藤蘭嵎が師であったという説もある[1]。天明3年(1783年)から4年まで松前と江差に滞在し、アイヌの風俗やの風土について見聞したところを記した『東遊記』を著した。狂歌人としても有名で内山賀邸・四方赤良(太田南畝の狂歌の号)などとも交友を持った。失脚した土山宗次郎が追いつめられて逃走した際、所沢の山口観音に匿ったことが発覚して捕縛された。
平賀源内が獄死したのち、罪人である遺体の引き取り手のなかった中、公儀に目をつけられるのを覚悟の上で東作が引き取った、とされる。
作品
・ 二国連璧談
・ 東遊記
・ 狂歌師細見
・ 狂歌百鬼夜狂(狂歌集)
脚注
- ^ 三村竹清 『本之話』 岡書院、1930年、32p。
土山 宗次郎(つちやま そうじろう、元文5年(1740年) - 天明7年12月5日(1788年1月12日))は、江戸時代中期の人物。江戸幕府の旗本である。名は孝之(たかゆき)。父は土山孝祖、母は土山照苗の娘。妻は日下部七十郎の娘。
生涯
田沼意次が老中となって田沼時代が始まると、勘定組頭に登用された。天明3年(1783年)に工藤平助の「赤蝦夷風説考」を見て対ロシア政策の必要性を提言し、天明4年(1784年)に平秩東作と荒井庄十郎に、天明5年(1785年)青島政教をはじめ、山口高品、菴原宣方、佐藤行信、皆川秀道、里見平蔵、引佐新兵衛、大塚小一郎、大石逸平、鈴木清七、最上徳内らに蝦夷地調査を行わせたとされる。その一方で、吉原・大文字屋の遊女、誰が袖を祝儀などを含めると1200両を払い身請けしたことで派手な生活ぶりが評判となり、親交のあった太田南畝から、狂歌で「我恋は天水桶の水なれや。屋根よりたかきうき名にぞ立つ」と詠まれた。
天明6年(1786年)8月、将軍・徳川家治が死去し、松平定信ら反田沼派が台頭すると、意次は老中職を罷免させられた。天明7年(1787年)12月、土山は買米金500両の横領につき斬首される。
参考文献
- 断家譜
*注 松本 秀持 【まつもと ひでもち】デジタル版 日本人名大辞典+plus
1730-1797江戸時代中期の武士。享保15年生まれ。幕臣。安永8年勘定奉行となり、のち田安家家老をかねる。老中田沼意次のもとで蝦夷地開発、印旛沼・手賀沼干拓など、天明期の経済政策を実行。意次失脚後は逼塞、知行を半減された。寛政9年6月5日死去。68歳。通称は十郎兵衛。
松本 秀持 出典: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』
松本 秀持(まつもと ひでもち、享保15年(1730年) - 寛政9年6月5日(1797年6月29日))は、江戸時代中期の幕臣。通称は十郎兵衛。伊豆守。代々天守番を務める身分の低い家柄であったが勘定奉行にまで昇進した。
経歴
田沼意次に才を認められ天守番より、勘定方に抜擢され廩米100俵5口を賜った。明和3年(1766年)に勘定組頭となりのちに勘定吟味役となり、安永8年(1779年)勘定奉行に就任し500石の知行を賜った。天明2年(1782年)より田安家家老を兼帯した。下総国の印旛沼および手賀沼干拓などの事業や天明期の経済政策を行った。田沼意次に工藤平助の「赤蝦夷風説考」を添えて蝦夷地調査について上申し初めての2回に及ぶ調査隊を派遣した。そして、蝦夷地の開発に乗り出そうとしたが、天明6年(1786年)田沼意次の失脚により頓挫してしまう。また、同年閏10月5日田沼失脚にからみ小普請に落とされ逼塞となった。しかし、さらに越後買米事件の責を負わされ、知行地を減知の上再び逼塞となった。天明8年5月に赦され、寛政9年、68歳で没した。墓所は世田谷区北烏山5丁目の幸龍寺。
関連項目
土山宗次郎-勘定組頭、買米事件の責を負わされ斬首。
参考文献
- 日本人名大辞典(講談社)
東大史料編纂所近世編年データーベース
松本 秀持
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平秩 東作の紹介 ブログより
「平秩 東作-江戸時代に蝦夷地に渡る」で紹介
太田南畝の頃の人です。年齢は南畝よりもはるかに上の人ですが、いわば狂歌の先輩筋にあたります。 今の新宿あたり、内藤新宿の辺りで煙草業を営んでいましたが、教養も相当あり武家の子供に学問を教えていたとか言われています。当時の教養である漢文や和歌に長けていて、平賀源内とも親交がありました。 何故この人物の事を取り上げたかというと、太田南畝のことについて調べているところの平秩東作という人物がしょっちゅう出てくるのです。一緒になって狂歌を作ったり飲んで歩いたりしている。
南畝は御家人といっても徒歩職ですから暇です。毎日仕事があるわけででもなく、当時の狂歌人の先頭になって狂歌ブームの仕掛け人みたいな存在になって東作と余った時間を過ごしています。南畝のまあ学問の先輩みたいな存在です。 仲の良い兄貴といったところでしょう。ところが、ある時この東作が江戸からいなくなってしまいます。
しばらく経って江戸に戻ってきますが、実は秘密の頼まれごとを受け、はるばる蝦夷地に行っていたのでした。身分的に単なる煙草商人が蝦夷地に行くことは異例のことでした。 東作はかねてよりの知り合いで勘定頭土山宗次郎(勘定組頭の間違い)の依頼で蝦夷地まで足を運んだのです。また土山はその上司である勘定奉行松本秀持に東作の蝦夷地の報告書を手渡し、さらにそれが田沼意次に渡り、これをもとに意次は蝦夷地の調査を決定するに至るのですが、東作の蝦夷地探検記は「東遊記」と題して今に残されています。このあたりのことは、学校の歴史教科書にはあまり出てこないと思います。
後になって田沼意次は失脚し、松平定信が登場して寛政の改革を行い事情も時勢もガラッと変わり、ついには宗次郎は死刑になってしまうのですが。田沼政治から寛政の改革のあたりのことは南畝にも影響を与えていますので、また今度にします。 で、東作が蝦夷に行く、このあたりのことをもっと知りたいとずっと考えていたらちょうど良い本が手に入りました。
照井壮助氏による「天明蝦夷地探検始末記―田沼意次と悲運の探検家たち」と題されているもので影書房から出版されています。寛政の改革により蝦夷開拓計画は潰され、そのための現地報告書であった「蝦夷拾遺」はやがて歴史の中に埋まり忘れられていきます。
このいわば元本を発見し苦労の末に現代語に直し世に問うたのが照井壮助氏でした。東作のことはほんの少ししか出てきません。しかしこの蝦夷地探検に係る顛末は、おそらくはそれ以降の日本の歴史や経済に大きな影響を与えるべきもので、世間に誤って伝えられている田沼意次のイメージをも再考する意味で歴史的に価値のある内容になっています。
いつの歴史でも勝者に都合のよいことしか残されず、弱い側の歴史は塗り替えられ作り変えられてしまうものですが、知られざる蝦夷地探検記一読の価値があります。 ちょっと高いですけど(3,800円+税)、このあたりに興味のある方おススメです。
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3蝦夷島奇観 雑圖部+昆布関連記事 (「蝦夷島奇観」:東京国立博物館蔵」p155-156)
上 十雑図部モチブ圖 下 十雑図部昆布採種
「蝦夷島奇観 東京国立博物館蔵」
百五十五
昆布は東蝦夷地に産す。西蝦夷地絶えてなし。六月土用より八月十五日まて採れり。
續日本記云、霊亀元年(715)年十月丁丑、陸奥蝦夷第三等邑良志別君宇蘇弥菜等言。親族死亡子孫数人。常恐被狄徒抄略乎。諸(請)於香河村造建群家。為編戸民永保安堵。又蝦夷島須賀君古麻比留等言、先祖以来貢献昆布、常採此地。年時不闕。今国府郭下相去 道遠。往還塁句。
志(甚)多辛苦。請於閇村使(便)建群家。同於百姓共率親族、永不闕貢。並許之
* 邑良志別君宇蘇弥奈 出典: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』
邑良志別君 宇蘇弥奈(おらしわけきみ うそみな、生没年不詳)は、奈良時代の東北蝦夷(陸奥国の蝦夷)。第三等(朝廷が蝦夷に与えた爵位第三位)。後世では東北地方の各神社で祀られており、蝦夷の人物神とされ、「オラシ」の名称に関してもアイヌ人の信仰と関連するものとされる。(後述)。
記録
「続日本記」霊亀元年(715年)10月29日条に記述が見られ、陸奥の蝦夷である邑良志別君宇蘇弥奈たちの訴え出として、「自分たちは北方の狄(えぞ)の侵入に苦しみ悩まされ、親戚も殺されたため、香河村(現胆沢町と水沢市の一部)に新しい役所を置き、そこに村を作りたい」と、異民族被害のために新しい土地へ集団移住することを願い出ており、また、「編戸(へんこ)の民(=戸籍に登録された多見)に入れて、永く安心していられるようにしてほしい」と発言したときされており、朝廷の加護を得るために律令制下に入ることを要望している。
約100年後に、この付近に坂上田村麻呂が城を築くが前述の記録のように、この辺りは古くから蝦夷同士の争いが絶えず、そのため、律令制=戸籍に登録の登録される=朝廷の加護を得られるといった考えに至ったものとみられる。
人物神としての邑良志
「神祇志料」に式内社の「遠流志別石神社(おるし-)」(宮城県登米郡石越町所在)の「石」は「君」の誤表記であるとして、「続紀」の邑良志別君を祖神として祀っている。
また、「東北古代探訪」において、司東真雄は、「於呂閉志神社(おろへし-)」岩手県胆沢郡胆沢町所在)の「閉志」は「志閉」(しへ)」の誤写であるとし、この考察から谷川健一は邑良志と関連する神社と想定している。
このように、誤記・誤写‘そこからくる読み違い)が見受けられるものの、「続記」に記述される開拓者の邑良志を祖神として祀る神社が見られる。
アイヌ語と信仰の関連
「アイヌ・英・和辞典」(ジョン・バチェラー)によれば、アイヌ語の「オヤシ」は「精霊・鬼・または悪霊」とされ、アイヌ語の精霊には「オヤシベ」(べは「物の意」がいる(例として、イペカリオヤシ・ペンタチコロオヤソなど)。ここから田野川健一は、アイヌの精霊信仰のオヤシからオラ(ロ)シ(邑良志)となり、べの部分が「別」と表記されたことで、「ワケ」と読まれるようになり、オラシワケ君が成立したと考察している。(君は族長・村長の意)。また、オラシワケ君はアイヌが信奉した精霊を名に負う神を祀るのが役割の一つだったとし、その斎場が遠流志別石神社や於呂閉志(志閉)神社だったと推測している。これらの考察に従うなら、アイヌのオヤシベ信仰は8世紀初頭前後にまでさかのぼることになる。
参考文献
・ 谷川健一「日本の神々」岩浪新書 第9刷2003年(1刷1999年)ISBN4-00-430618-3pp74-75
・ 「続日本紀」
上 十雑図部 昆布 採種具 下 十雑図部 箱館松前近郷 農婦
百五十六
一 御上り昆布(一日天下昆布)汐首崎より東シカへ海濱迄産セリ。長壹丈三四尺幅五六寸。
紅黄緑色。採挙て清浄の地をえらミ乾す。五十枚を壹把とし、また其上を昆布にて包、十六所結、廰に奉る。是昆布の絶品とす。
一 シノリ昆布は箱館東海に産す。長七尋余、幅一尺三四寸、緑色、味甘美。此昆布ハ唐山に贈る。
一 菓子昆布、色黒緑、長壹尋はかり、味至て甘美。汐首よりシカへ海底に産す。
一 三石、ホロイツミ、シラヌカより出る品、長七尋余、幅三四寸、緑色。此外処々より産す。
雑品なり
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