「呪い」
誰かを呪ったことはありますか?
もしかしたら、誰しもしらないうちに誰かを呪っている可能性があります。
子供の遊びや動揺などに呪いを潜ませていたという歴史が存在する。
かごめかごめ
籠の中の鳥はいついつ出やる
夜明けの晩に鶴と亀が滑った
後ろの正面だーれ
実はちょっと歌詞がおかしい。
どうおかしいか。
ずーっと逆のことを言っている。
籠の中の鳥はいついつ出やる → 籠の中の鳥はとらわれた身のため、出ることはできない。
夜明けの晩に鶴と亀が滑った → 夜明けは「晩」ではない。鶴と亀は縁起の良い言葉だが「滑った」は縁起の悪い言葉。
後ろの正面だーれ → 後ろは正面ではない。
逆の言葉を繰り返すことを「逆さ言葉」といい、れっきとした呪術行為。
あの世や亡くなった者など院の要素が強く呪いと結びつきが強い。
逆さ言葉を連ねていくことで、良くないものを引き寄せることができる。
お経も逆から読むと、呪いが発動される。
作法も逆から行うと呪術となる。
手の甲で拍手をすれが、「裏柏手」
亡くなった方の襟は逆側に着せる。「逆襟」
亡くなった人の家では屏風を逆にする「逆屏風」
なぜ、子供の遊びや動揺に呪いを潜ませるのか。
まず、不特定多数の人たちにどんどん広めることができるという利点がある。
大人たちも、子供のやってることだからとそれほど注意はしない。
そして、子供は純粋であり、言霊のパワーが強いので、子供に呪いを言わせれば呪いは発動しやすくなる。
だるまさんがころんだ。
坊さんが屁をこいた、と遊ぶ地域もあり。
だるまさんも、坊さんも、仏教にかかわりのある言葉。
そして、下の句は上の句を悪く言っている。
ある意味、上の句と下の句は逆言葉になっている。
仏教の存在を落とし込めようとする存在があったのかもしれない。
あかりをつけたら消えちゃった
お花をあげたら枯れちゃった
五人ばやしも死んじゃった
今日はかなしいお葬式
おうまのおやこはなかよく殺し
いつでもいっしょに
ぽっくりぽっくり死ぬよ
と、おもしろがって歌っていたA君。
学校の謝恩会にて、突然A君がステージにあがりマイクをとってその歌を歌いだした。
A君はそのあと先生から「そんな歌うたったらいけませんよ、ほんとに人が死んじゃうよ!」と怒られ、その後歌うことはなくなったのだが、そのすぐ後にA君のお父さんは事故で亡くなっていた。
似たような経験をしている人は少なくはないらしい。
例えば、お母さんの言葉
「あんたなんか生まなきゃよかった」
こどもは奥底でネガティブな呪文として残るかもしれない
励まそうとしても、逆に相手の気持ちを下げてしまうこともよくある。
試験のとき、名前を書き忘れる人が一定数いることがわかっている。
名前を書き忘れる子たちにある一つの共通点が浮かんできた。
名前を書いてないことを指摘された時のリアクションがみんな一緒であった。
普通は「え、本当ですか?」などとアクションするが、
「やっぱり…」と書き忘れることをわかっているかのような返事をした。
その子たち曰く、
「あなたはいい子、優しい子、でもただちょっとおっちょこちょいだから、そこだけは気をつけなさいね」とずっと言われてきたとのこと。
これこそが、「呪いの言葉」
母親からすれば愛情、よかれと思って言っているのだが、それよりも、人は「自分はおっちょこよい」にフォーカスをあて刷り込む習性がある。
結果、そういう行動をとるようになる。
たとえば、ゴルフへ行ったとき、キャディさんから「ここのホールは大丈夫です、ただ池に注意してくださいね」と言われて、池にボールを打ってしまう。
では、なんと言ってあげればいいのか。
「大丈夫」とだけ言えばいい。
注意、アドバイスしたくなるがぐっとこらえて「大丈夫」。
呪いの半分は、言葉によるもの、もう半分は相手の意識がそれを呪いととらえれば発動される。
「呪い」はのろいという読み方と、まじないという二つの読み方がある。
「のろい」は相手を呪う行為。
「まじない」は神様に捧げる、幸せを願うという行為。
口で言うことによって、それが「のろい」にも「まじない」にもなる。
口へんを神様を示すしめすへんにかえることによって「祝」という字に変わる。
皆を祝うポジティブなことを言っていくことが大事。
「呪い」ではなく「祝い」を口にしていけるとよいのではないか。
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