たけのこ新聞の事件簿

離婚をきっかけに、今まで心に溜めていたことを書いています。離婚、エコ、世間の常識(のようなもの)についての疑問などなど。

生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉟

2023年09月13日 | 日記

今住んでいる家に越してくるまでは、何もトラブルにならなかったのに…というベランダスリッパの話。

この家に移って来て、これまで通りベランダスリッパを置いた(以前仕事場で使っていたもの)。よく中高生が上履きとしてはいている、トイレスリッパのような素材。

夏あたりから、スリッパは履くのもアチチな状態になった。これまでの家よりもひさしが短いのか、スリッパに直射日光が当たっている。熱すぎてピョコピョコ跳ねながら洗濯物を干す。そしてそのスリッパ、気のせいかだんだん小さくなっている様子。小さいため、きちんと履くと足が痛くて…仕方ないので、つま先で引っ掛けてピョコピョコ。縮んでる?そんなことってある?不便ながら使い続けていたら、遂に2/3程の大きさになってしまった。

 

そんなある日、近所のホームセンターに行ったら、スリッパの売り場に『日光で極端に縮むことがある』と表記されていた。…そうなんだ。すっかり縮んで反り返ったスリッパ、もう履くのは無理なので、飛び石のようにしている。

そこでもう一足、子どもが高校時代に履いていたスリッパ君に登場してもらった。この夏、スリッパ君にはかなり活躍してもらったのだが、やはり縮んだ。またまた、つま先でピョコピョコ。うーん、何か良い方法はないか?これまで、ベランダスリッパで悩んだことなんてなかったよ。このままだと、夏を超すたびに買い替えが必要になる。それは私の主義に反するぞ。

毎年使い捨てにならない方法を考えている。まだ良い案はない。とりあえず『つま先で引っ掛けてピョコピョコ』は続く。


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2023年09月12日 | 日記

久しぶりに街へ出た。外国人観光客が少しずつ戻ってきている。

交通費を浮かせるためと健康のために、最寄り駅から少し離れた駅で下車。よく歩いた一日だった。書きながら少し眠い。

 

さて、ネットニュースのヘッドラインで、物価の値上がり、生活の困窮についての記事が躍る。が、実際の生活で、そこまで大騒ぎするほどじゃないと感じていた。でも、それは田舎で生活しているから、生活への打撃が少なかったのかもしれない…というのも、街でいろんなサービスを受けてみて、その値段の高さにびっくりしたのだ。ランチを食べる、電車で移動する、買い物をする…財布の中身があっという間に消えていく。どんなマジックか??と思う。

この夏、人出不足で休日や時間外に仕事をした。ちょっとだけ臨時収入があったので、おいしいものでも食べようと、街へいいお肉を買いに行っただけなのに、軍資金の減り具合に驚いて、気持ちよく買い物ができない。ドキドキ。

それでも一緒に行った子供たちに見栄を張って、肉を買いこんでしまった(帰りの電車賃がギリギリだったことは内緒)。こんな綱渡り的な芸当も、後から思い返すと笑えてしまう。

 

そんなことがあって思う。田舎で自炊して慎ましく暮らすってことは、物価の影響を受けにくい。だってキラキラしたお店がないので、欲望が掻き立てられることはないし、基本的にいつもの食材でいつもの料理を作るだけなのだから。水道光熱費も、意識するだけである程度下がる。だから、一食1,600円のスパゲッティにタマゲてしまう。自分で作ればいくらでできる?って考えてしまう。しかも、もっと私好みの味にできるぞ。

それはそうとして、せっかくのごちそう肉、お金のことを考えずおいしく食べたいと思う。久しぶりの焼き肉、しっかり腹を空かせておこう。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉝

2023年09月11日 | 日記

迷っていることがある。もう数カ月くらい、するかしないか迷っている。

それは、音楽配信サービスに申し込むか…ということ。なーんだ、そんなことって思われるかもしれない。モノやサービスを買う前に、それが本当に要るのか、したいのかをいつまでも考え続け、決断しないのは、私の癖(楽しみ)だ。音楽好きだけれど、そうそうCDが買える訳でもなく、でも聞いてみたい曲はいくつもある。たくさん聞けると思うと、貧乏性の私はあれこれ欲張ってしまい、じっくり聴けなくなってしまいそう。聴かなきゃ損とばかり、曲数を気にしそうで嫌だな。余裕のなさは、私の嫌な一面だ。

 

だいたい、○○放題というのは(私にとって)曲者だ。食べ放題、携帯のかけ放題、映画見放題…どれも私の欲望を刺激する。たくさんサービスを利用しないと勿体ないと思ってしまい、楽しめる適量が自覚できなくなる。楽しめなくなるほど過剰な娯楽は、それこそ人生を損させる。それを誤楽という(うーん、ウマい!?)。

こんなことを考えてはいるが、おそらくここに書いている時点で9割がた、加入しようと思っている。どの会社もだいたい月に1,000円程度。それが高いのか安いのかは、自分の気持ち次第。

 

ところで、何故サブスクのことを言い出したのか。数年前にある演奏家のピアノCDを買った。とある作曲家のソナタ全集、全部で10枚くらいのセットだった。高かったのよ、結構。それなのに、聞いてみたら、私の好みの演奏ではない。慣れるかと何度も聞いたけれど、どうも好きになれない。高い出費だったのに、ガーン。…こういうことがあると、配信サービスの方が安心できる。好きな演奏に出会えるまで聴けるから。

もうひとつ。先日あるコンサートへ行った。それまでオーケストラにあまり関心がなかったけれど、縁あって、ゲネプロの現場から見せてもらえた。奏者の息遣いまで聞こえそうな現場で、曲を聴き、迫力を肌で感じ、ラフな格好なのに曲はぴたりと決まるそのギャップに魅せられてしまったのだ。格好いい!

コンサートの曲目は、組曲の中の有名どころのピックアップだったが、これを聴いたからには全曲味わいたいと思うよ。そして、同じ作曲家のほかの曲も聴きたい。

こんなことがあってからずっと、サブスクに加入しようか迷い続けている。加入して暇さえあれば聴いている自分を想像している。


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2023年09月08日 | 日記

夏休みも終わり、通常運転に戻る。先日家の整理をした。子どもが不要という服や靴をリサイクルショップへ持って行く。子ども達は、夏を越えると体も足も大きくなる。以前はシーズンオフの服も引き取ってくれたのに、今回はシーズンが合わないという理由で断られた。半年ほど家に寝かせておかなくてはいけない。

私は、子どものように売れるような服は持っていない。この夏は、生地の古くなったものを切り刻んで雑巾にしたり、その辺で棒を拾ってきて、はたきを作ったり…。お下がりでいただいたノースリーブに袖を付け、スカートのウエストを詰めた。洋裁なんてほとんど知らない(せいぜいボタン付けや裾まつりくらい)けれど、あれこれ考えながらやってみると、下手なりにも何とか形になる。嬉しい。縫い目を細かく見なければ、外出だってできる。

はまるほど洋裁が好きになる訳ではないが、まだ着られる服を捨てずに済み、服を買わずに過ごせるのは嬉しく有り難い。理由は2つ。まだ着られる服を捨てるという罪悪感を覚えずに済むこと。そして服を買いに行かなくて良くなること。

若い頃は服選びも楽しかったなあ…。でも、子どもを育てている間は汚れてもいい格好ばかりで、気が付くと中年に。そしてこのお年頃になって、どこで服を買ったらいいか分からなくなってしまったのだ。そしてどんな服を選んだらいいかも分からなくなった。買いに出かけても疲れるばっかりで、ちっとも楽しくない。億劫なのだ。これがオバサンになるということか。

若い頃は、何を着てもそれなりに似合うんだな。そりゃあ服選びも楽しいさ。齢をとると、似合うの幅が狭くなる。色にしても、形にしても。それでがっかりする。

ふと思い出した。昔読んだ本『フランス人は10着しか服を持たない』。当時話題になって続編まで出たので、知っている人もいるだろう。主人公が描くフランス人マダムは、決まった形の服をいつも着ている。一番似合って、品よく見え、好みのスタイルなのだろう。その時は定型化した服選び、それがちょっとつまらないと感じたが、今は違う。そんな手があったか!って感じ。それなら、買う時も毎日の服選びも悩まず、見栄えも良く、ご機嫌でいられると思う。マダムに倣って、自分が気に入っていて、貧相でなく、似合うスタイルを探してみようか。


ちょっと思いついた⑨ 私って誰?

2023年08月29日 | 思いついたこと

昨日の続き。

私というものが何を指しているのか、実ははっきり示せないという困った事態になった。おかしなことを言っていると思われるかもしれないが、もともと『私』というものが定義づけられないなら、『私』はないのと同じことになるのか?じゃあ、こうして考えている『私』は何なのだ?

もう一つおかしなことを言う。『私』がないのなら、私は何も所有していない。だって、ないもの(私)は何も所有できないからだ。ということは、失うものは何もないはず。所有していると思っている『誤解』があるだけ。惚けようが惚けまいが、怖いものなしではないか。あれ?昨日の冒頭で、惚けるのが心配と書いたが、思わぬ形で解決した。何も所有していない私は、心配しなくても何も失わない。

…自分で書いていて、狐に化かされたように感じている。

でも実際問題、何が怖いって、自分の尊厳が惚けて失われる気がするのが怖いのだ。それが耐え難い。でも自分というものが何を指すのか分からないのに、尊厳も恥もない。それでも…。

私というものが分からないのに、私は良き人間であろうとか、佳き人生を送ろうと奮闘している。そうしようとする主体(私)は、何なんだ?

だんだん沼にはまって、話が回収できなくなってきた。回収は諦めて、違う観点で話をしてみる。

 

日本は衛生環境や医療技術の向上で、長寿が叶いやすい国になった。なんと、めでたい。おめでたいはずなのに、長寿がもとで痴呆になる可能性も増したのだろう。

残念なことに、年寄りの割合が増えたからって、社会がのんびり回るようにはならない。年を追うごとに経済性・効率が至上命題となって厳しく私たちにのしかかる。

 

そして、その痴呆は商売になり、惚けないためのお勉強ワークやら、○○レッスン、サプリメント等々が登場した。人の不安がある場所には儲け話が潜んでいる。そう考えると、ちょいと嫌な気分になる。好きでお勉強ワークをするのなら楽しくて良いが、惚けないようにと不安に駆られてするワークは受験勉強並みに苦しい。ワークをした時の私と、しない時の私を比較できないのに(つまり、効果なんて分かりっこないのに)面白くないワークを継続するのは、私には難しい。それなら、その時間は自分の楽しみのために使いたい。もう一度言うと、自分の不安を鎮めるために人生の時間とお金を費やすより、好きなことをして、好きな人と会って過ごす方が良い一生を送れる気がする。