たけのこ新聞の事件簿

離婚をきっかけに、今まで心に溜めていたことを書いています。離婚、エコ、世間の常識(のようなもの)についての疑問などなど。

生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する⑭

2023年07月19日 | 日記

ごみを捨てる話。

今どきは、商業施設はともかく、その他の場所ではごみ箱撤去の流れが起こっているように感じる。よく『家庭ごみのポイ捨て、お断り』のような文言がごみ箱に貼ってあったりする。貼らなければいけないほど、当たり前に家庭ごみを捨てていくのだろうか。マナーが悪いよ…なんて思う私は、古いのだろうか。

忘れ物を探しもせず、取りにも行かず、人に捨てさせることについて昨日書いたけれど、自分のゴミを人に押し付けるという意味では、根っこが同じ問題だと思う。自分ちで出したごみを人に捨てさせる、(商業施設から)給料をもらっているなら、ごみは片付けとけっていうことか?捨てて欲しければ、自分が給料を払って誰かを雇って欲しいもんだ。

ある人は、「子供が弁当を食べた後のゴミが捨てられなくって、困る」…だって。何が困るものか。持ち帰ればいいだけのこと。子ども云々って言っているけれど、捨てているのは大人本人だ。まだある。ここの商品を買っているのだから、それに付随するゴミ(弁当のラップや空き容器)は、施設が処分して当然??という『新・常識っぽいもの』だ。ごみ箱があれば、私も捨ててしまうが、本来それはお店の厚意であって、店の義務でも何でもない。ごみ箱がないと文句を言う筋合いのものではない気がする。でもまあ、そんなことお客に説教をする店はないもんね~。店が何も言わないからって、やっていいわけではない。

ゴミを持ち帰りたくなければ、弁当・水筒を持ち歩こう。うん、うん。

ごみや忘れ物に限らず、自分の始末はできるだけ自分でつけられるといい。人間ひとりですべてができるわけではない。助け合わなくては暮らせない、というのは承知している。でも、自分のできる範囲で自分の尻拭いは自分でできたほうが、恥ずかしくないと思う。自分が損にならないように、さらには、誰かに損をさせてでも得(利益)を獲ってやろうという浅ましさは、顔に出る。人付き合いに出る。

何かのため、誰かのために行動することを損だと言ってバカにするような人、相手を言いくるめて自分の思い通りにして得意がっている人、そんなのを価値と思うような『常識っぽいもの』には、馴染みたくないなあ。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する⑬

2023年07月18日 | 日記

最近、うっかり忘れものがとても増えた。どこかへ出かけては、帽子、傘、スマホ…置いて帰ってしまう。先日なんて3日連続で忘れ物をしてしまい、参った。そのたびに電話して、取りに行ってと、嫌になる。そもそも若いころから忘れっぽいのに、年齢が上がるにつれ、その度合いが増している。

なんとか忘れないよう、鞄にポケットを付けたりして工夫をするのだが、手から離した途端、持ち物たちは自由を求めて私の意識の外へフワフワ出て行ってしまう。そのたびに電話をかけて、確認して、連れ帰る。

 

ところである公共施設の話。その施設、利用者が多いためか、忘れものも多い。帽子や傘はもちろん、シャツ、靴下、キッチンタイマー、眼鏡や靴(!)まで。…靴?二足制ということもあるけれど、上履きで帰ったんだろうか?まさか裸足では帰らないよね?不思議だと思うけれど、月に2~3足は忘れられている。

新品に近いような、きれいなものも多い。私なんて10年使った傘でも取りに行くのに。

数カ月保管後、貴重品を除いて、忘れものたちは廃棄処分される。勿体ない。まだきれいで使えるのに。靴だってシャツだって、それを買いに行き、試着し、時間とお金をかけて手に入れたはずなのに、(最終ゴミになるのが分かっていても)それを簡単に手放してしまう、その心持がよく分からない。

金持ちなんだなー(棒読み)。

自分が良いと思い、気に入って買ったはずなのに、手元から離れるとそういう愛着とか、時間やお金をかけたその労力を忘れてしまうのだろうか?それ以前に、使える物を捨てるな~そんな奴は勿体ないオバケに食べられてしまえ~、と内心叫んでいる。せめてリサイクルショップに持って行って、使ってくれる人に引き継ぎたいと思うのだが、そうもいかないらしい。

時々『鉄道忘れ物市』なる催しを見掛けるけれど、ウチでもやりたーい!儲からなくていいから(本音は儲かった方がいいけれど)、使える物は誰かに使ってもらいたい。ごみ袋に忘れ物の山を片っ端からつっこんでいく時の罪悪感…胸が痛い。こういう仕事は嫌だな。

人は現金なもので、ビンボーになるとモノを大切にする。それは当然?いやいや、当然じゃないと思う。同じモノなのに、懐具合によって価値が変わるのはおかしいでしょ。持ち金によって物に対する態度が高慢になったり、丁寧になったりって、自分の価値観に筋が通っていないということ。つまりお金に価値観が振り回されているってことになる。もしくは価値がお金に依存してるってこと。お金は単なる数字であって、価値ではない…はず。

話が大げさになってきた。もっと簡単に言うと、面倒がらずに忘れ物をしたら探しましょう、取りに行きましょうってこと。大人たちのモノに対する態度を見て、子どもは学ぶ。責任や価値を。他人にごみ処理を押し付けて、無責任に次々買うのは慎みたいと思う。

それで思い出した。ごみは自分で持ち帰ろうって話。…という訳で、次はごみ捨ての話。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する⑫

2023年07月14日 | 日記

梅雨に入って、はっきりしない天気が多い。さっきまで曇っていたのに今は土砂降りで、雷も鳴っている。外出しない雨の日は楽しい。雨の音を聞いているとなぜかワクワクする。ちょっとしたお祭り気分だ。

 

先日実家へ帰省した。年老いた両親が二人。テレビをずっとつけて過ごしている。そのテレビの音が大きい。多分歳のせいで聞こえづらくなっているのだろう…が、音がうるさくて落ち着かない。しゃべっていても、テレビの音が気になって会話に集中できない。以前はそんなことなかったと思うのだが、しばらくテレビのない生活をしていると、テレビの雑音(!)が気にかかって仕方がない。昼間の番組はモノを買わせる番組(CMではなく!)ばかりで、ちっとも面白くない。こんな番組でも、賑やかしにつけておくということか。仕事を引退し、寂しがっている親にテレビを消そうとは、とても言えないが。

それにしても商品を勧める口調がわざとらしくて、良い商品を扱っているという誇りも、誠実さも、ちっとも伝わってこないというのは、なんなんだろう。

 

テレビをつけていると、考えること、感じることが出来なくなる。目にも耳にもうるさすぎて、思考を邪魔されるのだ。その上、こう考えるべき・こうあるべきという『常識っぽいもの』を押し付けられる。余計なお世話じゃ。

以前19時のNHKニュースで、アナウンサーが巷へ出て『天候不順で野菜の価格高騰』についてインタビューを(?)し、「困りますねえ」と街行く人たちに言わせていた。誘導し、「困った」を言わせようという思惑が見えるアナウンサーの言葉に、嫌な気分がした。そして、農家の苦悩をすっ飛ばして値上がりは困るという安易な報道しかできないニュースを、腹立たしく思った。報道側がそういう発想しかできないのか、視聴者の理解力をバカにしているのか。

 

今回は、怒りの談議になってしまった。精神衛生上よくないなあ。夜の雨の音、風の音は、テレビの騒音より心安らかでいられる。落ち着きや静寂は、テレビよりも賢さをもたらしてくれる気がするんだけどな。少なくとも、人が誰かをバカにして喜んだり、視聴者にある種の考え方を押し付けてこようとする高慢さに触れずに済むから、私自身が良い人間でいられる気がする。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~⑪

2023年07月13日 | 日記

マスクのこと。

コロナ以前よりマスク星人だった私。冬は暖を取るため、春・秋は花粉のため、ノーメイクを隠すためと、いろんな意味で重宝してきた。マスクも白一辺倒ではなくなってきて、花柄や水玉など、家の端切れで作って楽しんでいた。そんなところにやってきたコロナウィルスの大流行。前ならマスクをしていると、風邪?花粉?と、いちいち尋ねられたものだった。それがマスク必須の世の中になった途端、何も聞かれなくなった。楽~。ただ、マスク圧が強すぎて、ちょっと、うっかり忘れると周囲の目が厳しい。バッグにマスクを常備するようになった。

 

楽~と喜んだのもつかの間、不織布マスクの価格は急騰するし、使用済みマスクのゴミがそこら中に落ちている。せめてごみ箱に捨てようよ、と思う。予防のためとはいえ、高価な使い捨てマスクを買い、どんどん捨てていく(それも道端に!)様子を眺めていると、何ともやりきれなくなる。必要な職種の人が使うのは理解できる。別にマスク自体を否定するつもりはない。私もしている。でも、心が痛むのは何故だろう。

 

ひとつに、不織布マスクという石油製品の使い捨てが気になっているんだと思う。これは100均のプラスティック商品にも通じることだけど、一回もしくはごく短期間だけの使用でゴミになるもの、そして自然に帰らないものを捨て続けるのは、苦しく感じる。私はこれまでどの位不織布マスクを捨ててきたんだろう、考えると怖い。

マスクを買う…この行為を、ひとつ遡って考えてみる。当然マスクを作る人がいるわけで、一時期なんて不足が叫ばれて、休む間もないほどにせっせと生産されていたことだと思う。同時期、トイレットペーパーやティッシュペーパーも、不足する不安から買い占めが起きた。50年位前の石油ショックみたい。人間って学習しないなと思った。買い占めなくてもいいような仕組みを、町内会や、ご近所で作ることを考えられないか…とも思った。まあ、買いだめができるほど豊かなのねって感じ。当時私のつれあい(だった人)も、自分用にトイレットペーパーを買い込んでいた。あーあ。

話を戻して、マスク生産者のこと。お金のために生産しているとはいえ、使い捨てられるものを意欲的に作り続けるのはしんどいのではないだろうか?どうせなら、生産物は大切に使って欲しいと思うのではないだろうか?私が作った料理が余って、もしくは傷んで、平然とゴミにされたら、私は悲しい。「使う人」という先に思いを馳せられたら、良いものを作ろう、喜んでもらおうと工夫したりして、働き甲斐があるというものだろうに。使い捨て前提の仕事って…。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~⑩

2023年07月12日 | 日記

前回の続き。

効率重視、ボタン一つで意のままになる(と勘違いしたくなる)ような世界に住んでいると、どうも待てなくなる。信号ひとつ待てなくなる。

せっかちで慌てることをみっともないとは感じない、むしろ急ぐこと、急がせることを正当な権利と主張するような風潮になってきた。でも、急ぐことで作った時間をどう使うの?

こんなことを考える時、いつも思い出すことがある。新幹線、リニアモーターカーによって移動時間が〇分時間が短縮されるというニュース。その短縮にどれだけの意味があるのか、いつも疑問に感じている。その余った時間で私たちは何をしている?余らせた時間でさらに金儲けをして、ゲームをして、時間を惜しんでスマホをいじるの?

今ふと思いついた。お金儲けの良いところは、生活に金銭的ゆとりが生まれるだけではない。自分と向き合わない正当な理由とみなされるし、孤独を感じなくても済むことだ。だから安易にお金もうけに走ってしまう…のではないか。人間賢くなるには、自分と向き合ったり、人を見たり、自然を味わう経験が必要だと思う。そんな大切な体験をせずに、余らせた時間をお金儲けやスマホに捧げるのは勿体ない。

 

私の話は、思いつくまま書き散らすのですぐ逸れる。書き出しは、花が土に慣れるのに時間がかかる話だった。

こんなに元気に咲いてくれた。萎れたようにうつむいた時、早々に諦めて抜かなくてよかった。私自身も失敗したり、不運が続いてうつむく事態になっても、早々に投げ出すのはやめよう。淡々と、黙々と生活していればまた花開くときがくる。絶対。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~⑨

2023年07月10日 | 日記

訳あって現在の家に引っ越した時、旧住居に生えていた植物をいくつか一緒に連れてきた。挿し木をした子、根っこごと植え替えた子、どの子も『枯らし名人』の私と共に来たことは試練だっただろうと思う。

植え替えた途端、しゅんと下を向いてしまったオオムラサキツユクサや、ちっとも根付かないローズマリーにゼラニウム。おかしい。丈夫な植物と言われているはずなのに、なぜ元気に大きくならない?考えられるのは、土のせいか?特に土を買う訳でもなく、敷地内の石ころだらけの砂や、草むしりした時の枯れ葉、クリーンセンター(ごみ処理場)で無料配布している剪定チップ、そんなものを適当に植木鉢に押し込んで植えているので、土が合っていなかったのかもしれない。

 

元気はないが、それでも枯れずにいるので、そのまま経過観察…というか、忘れかけていた頃に花を咲かせた!驚いたし、嬉しかった。ゼラニウムなんて今では大きくなりすぎて、剪定しなくてはいけないほど。オオムラサキツユクサだって、3カ月くらいずっと咲き続けている。新しい環境、新しい土に馴染んで成長するのには時間が必要だったんだ。

ボタン一つでエアコンをかけ、ご飯を温め、買い物ができる生活に慣れすぎて、時間をかけること、かかることで完成する世界があることをつい忘れてしまう。タネを仕掛けて待つことの面白味、ワクワクするような期待って、生きていることを楽しくすると思う。クリスマスプレゼントを待つ子供のように、そして日常生活に埋もれて忘れかけていた頃にひょっこり咲き出す花のように。

 

ところで、話は全く変わる。先週、職場での紙の大量消費について書いた。書いたことで、私の心に強く意識付けられたのかどうかは分からないが、紙を節約するアイデアを提案してみた。あっけないほど簡単に、許可された。言ってみるものだ。ちょっぴりエコに前進。嬉しい。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~⑧

2023年07月07日 | 日記

昨日の続き…と言うか、もっとすごいこと。

とある施設の職員の話。施設に、食品会社から自社製品の寄付があった。こういうことはたまにあるし、一見よさげな話に聞こえる。でもよく見ると、賞味期限が微妙に過ぎている。もちろん食べられるし、ウチで消費する分には平気。我が家の賞味期限は、印字してある期限を参考に、最終的には目と鼻で決めるから。とは言え、人に差し上げるのではなく、ていの良い処分…いやいや、可哀そうな入所児に寄付したんだよね。

そして子供たちは、そのことに対してお礼状を書かされるのだ。

 

寄付のことと、駄菓子を製造しそれを買い与えることには、善意や、世間で言う正当性にも大きな開きがあるのだろう。でも、ちょっと似ている。

東京電力の福島原発事故の際、国中が西の野菜を求めて大騒ぎしている最中(さなか)、当の福島の子らの学校給食は福島県の素材で作られていた。地産地消だってさ。農家を、子ども達を馬鹿にしていると思った。腹立たしかった。そして西に住んでいる私も、申し訳なく西の野菜を食べていた。

ある食品安全関連の講習会で「地産地消だから、福島で福島の野菜を食べ、西の人間は西の野菜を食べるのが当たり前」などと言い放つ、食品安全に関心の高いマダム(いわゆる意識高い系?)もいた。平然と、声高に言うけれど、私はそれに反論できなかった。私も西の野菜の人間だから。

法的には問題ないけれど、これも今までの話と似ている気がする。

 

モノ言わぬ弱者に対して、安全性にイエローカードが出ているものを差し出してしまうのは心苦しいことと思える人でいたいと思う。子ども達に思いやりのある人間になりましょう、と言うのなら、思いやりの見本を示さなくてはと思う。

あれ、話せば話すほど、エコとか省エネから離れていく。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~⑦

2023年07月06日 | 日記

子どもが幼かったころ、町内会のお祭りなどでよくお菓子が配られた。子ども達、楽しそうに食べ散らかしてたなあ。私は、その配られるお菓子が好きでなかった。私が子供の頃よりは合成着色料を使ったスゴイ色のお菓子は減ったかもしれないけれど、それでも安い駄菓子は合成された添加物にまみれているものが多いと思う。

自分がお祭りの役員になったとき、そういうお菓子は嫌だなと思い、出来るだけ添加物の少ないものを選ぶようにしたかった。でも、予算の関係で…と言われるとムツカシイ。役員の中で『予算内で、良いお菓子を少しだけ』という選択には、なかなかならない。それよりも、駄菓子を山盛り賑やかにっていう感じ。ちょっとくらい、たまには、仕方ない…これが大人の常套句。よく考えると、どの言葉も嘘だと思う。イラっ。

何故子ども達が食べるものに(駄菓子なんて、明らかに子供がターゲット)、そんな添加物を使うかなあ?子どもが大切なら、そういった子ども向き菓子は作るべきではないし、買うべきでもないと思うんだけど。

体に安全かどうか分からない…というと、国の基準を満たしているから安全でしょ、と言われるかもしれない。でもね、添加物単体で、しかも人間より短い寿命の動物で実験して、その結果が安全の証拠になるのだろうか?複数の添加物を摂取したときの相互作用、長期間摂取したときの慢性的な影響、どれも現在進行形の人体実験に思える。

嫌だと言っても、何かしら合成添加物を摂って、私たちは生きていかざるを得ない。表示されているから、選べばいい云々という問題ではなく。選べる状況ばかりではない、経済的理由や物理的理由で。そもそも子供は、与えられたものを食べるしかない。みんな選べるなら、添加物の少ないものを選択すると思うんだけどなあ。選べないから摂取してしまう…違うかな?

話を戻すけれど、安全かどうか分からないものは、作った責任、そしてそれを支持した責任で大人が消費するのが筋だと思う。モノの言えない子どもには、もっと丁寧に作られたものを食べてもらいたい。これから成長する子たちには。

こうした弱い立場のものに『良くはないもの』を押し付けてしまうことって、あちこちで見受けられる。続きは次回に。

自分も知らぬうちにそういうことをしていないか??気を付けようと思う。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~⑥

2023年07月04日 | 日記

昨晩は満月でした。雲が動き朧に月が見え隠れして、じれったい思いがしていました。

日付が変わるころには、くっきりとまぶしく輝いていました。じっと見ていると眩しすぎるくらい明るいので、目を伏せて、息を整え、また見上げる。そんなことをしているとだんだん眠くなってきて…。月を見ていると眠くなることが本当に多くて、これが月の魔力か?なんて思ってしまいます(単にオネムの時間になっただけかもしれない)。

 

話は変わって、うちの中で出る紙くずは、ほぼ紙リサイクル業者に出しています。個人情報の部分だけちぎっていることと、食品が包装されて汚れているもの以外は、服についている価格タグでさえリサイクル、です。集めた紙くずは、重量によって買い取ってもらいます。2~3年で500㎏程度になり、その消費量の多さにびっくりします。

A4規格を以前のように標準B5に戻せば、もっと消費量が減るのにな。アメリカの陰謀…じゃなくてアメリカの標準に合わせて大きくするから、消費量も増えるし、教科書やノートも重くなるし(最近の子どもが持つ登校カバンの重さは並じゃない。ちょっと可哀そうになる)、私にとっては微妙に手に余るサイズ感。何かと紙の端が折れたり、鞄を大きくしたりと、一つ一つは小さいんだけれど、ストレスの重なりが気分を重くする。

就職してみて感じたけれど、職場というところは馬鹿みたいに紙を使う。これだけの(紙の)面積を使って、たったこれだけの情報量?さらにミスプリント、余分に刷ったチラシや案内状。裏紙メモでは賄いきれないほどの量がごみ箱(しかもリサイクルではなく!)行きという現実に、ケチな私は罪悪感さえ覚えてしまいます。職場の下っ端ながら、この無駄の多いように見える書式を作り変えたいと、いつも思います。言えないけれど。

最近では、紙の消費を減らせる電子メールや、eーチケット、電子書籍というツールも一般的になってきました。でもこちらは、いくら紙の消費を減らせるとはいえ、おばさんの私に馴染まない。オンラインチケットはスマホが起動しなければ使えないし、個人情報の流出も心配。電子書籍は目が辛くて読んでいられない。この辺りは、紙に軍配が上がります。

『本好きの下剋上』じゃないけれど、紙を大切に使おうよと思います。もっと言うと、ごみ箱ではなくリサイクルして最後まで使い切ろうよと思います。それだけで小銭が稼げたり、ごみが減ったり、部屋が片付くなんていいことづくめ。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~⑤

2023年07月03日 | 日記

さて、電気についてあれこれ言い散らかしましたが、節電の実践編です。

なんて偉そうに書きましたが、実際に節電する方法は、本やらネットやらにたくさん出ているので、その中でできそうなことから始めてみたらいいと思います。雑な実践編だ…。

 

我慢する節電は続かないので、とにかく使わない電気は切る!に尽きると思います。エアコンや扇風機は、必要ならつける。照明も。でも必要のない電気は使わない。当たり前すぎてしょうもないですが、これだけです。さらに一歩進めるなら、電化製品の見直しでしょうか。何でも電気にやってもらうのではなく、自分でできないだろうか。もっと基本に帰って、その電化製品、本当に価値ある使い方が出来ているのだろうかと検証しました。所有する家電の種類を少数精鋭にするだけで、電気の無駄遣いは減ると思います。

もう一つ簡単な節電方法があります…きっと誰も真似しない(笑)。どんな方法かというと、使わないブレーカーを落としてしまうというもの。どのブレーカーがどの部屋とつながっているかを調べた一覧表をブレーカー横に貼っています。エアコンはシーズン外はOFFにしています。冷蔵庫、PC以外は長期間の外出時に切ってしまいます。夜遅く帰ったりすると、玄関の電気が点灯せず都合が悪いので、その辺りは自身の許容範囲と相談の上…いやいや、何度も言うけれど、真似したい人はいないだろうな。楽に節電できるけれど、私はたまにしかしないです。へへっ。

 

こんなふうに、なんてケチ臭いと言われそうな話をしましたが、こんな話、電気をじゃぶじゃぶ使うことをステイタスと思うような人には通じないかもしれませんね。

でも、ちょっと考えてみてください。電気(エネルギーと言い換えることもできる)を贅沢に使い散らかすことと、人間の価値は相関しません。お金持ちは各種エネルギー、それは電気だったり、お金だったり、労働力などをたくさん持つ人ではありますが、たくさん持つことが人間の価値を高くするわけではない…という当たり前のことが分かっていれば、ケチ臭いと揶揄するような人に恐縮することもないのです。必要あるところで使わないことや、もしくは必要ないにもかかわらずムダに浪費することの方が変だよ、と言えるような価値観が広がるといいな。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~④

2023年06月30日 | 日記

うちは発電所付き住宅です。なので、仮に停電しても平気です。

…というのは嘘です(風呂敷を広げすぎちゃいました)。数年前に太陽光パネル一枚(35×65㎝くらい)と車用バッテリー、チャージコントローラーをつなげた、自作の発電セットを設置しました。最近は梅雨であまり出番はないけれど、普段は家のスマホや充電式乾電池、ウォークマンくらいは余裕で充電出来ちゃいます。制作費用に対して元は取れているのか?と問われると、ムムム…かなり怪しいですが。

 

でもこれは単純に費用回収が出来る出来ないという目先の問題だけではなく、意味のあることだと思っています。

もし災害や何らかの事情で停電が発生しても、うちのスマホや明かりは何とか使える。それで思い出したけれど、以前住んでいた住居の風呂はバランス釜方式(分かるかしら?)だったので、ガスを点火するときはスイッチポン!ではなく、自分でハンドルを回して着火させるものでした。周囲の家が『停電で風呂が焚けない~』中で、うちは自力で着火できるので困らなかった、ということがありました。自力でできる範囲が広い程、非常時には強いんだと実感した経験でした。

別の視点でもう一つ。2018年の北海道胆振東部での地震の際、ブラックアウトが発生しました。大規模発電所の停止が(供給不足による電力の周波数の乱れが)ほかの発電所に連鎖したことが、大きな原因です。

大規模発電所は、確かに効率的なシステムです。たくさんの小さな発電所を作り維持するより、安く大量に電気を作れます。でもね、今後は、発電所を小型にして分散させる…という発想があってもいいのではと思います。家庭で言えば、電気も、自作の電気も、(ガスも)使えるという感じでしょうか。効率化の弱点を見た思いがしました。

そして、効率化を進めすぎてしまうデメリットについては、作る側(今回の場合は電力会社)だけでなく、私たち消費者も受け止めなければいけないと思います。何でも安ければいいという風潮が強くなると、どうしても安全性や環境保全がおろそかになりやすくなるものです。安い商品を求めておいて、いざトラブルがあれば生産者を責め立てるというあり方は、ちょっと情けない。値段以外の価値を見出せる、成熟した人になりたいなあと、思ってしまいます。日々是修行。

 

まあ、非常時を見越して発電装置を作った訳ではないんですが。じゃあなぜ作ったかって?ただ面白そうだと思ったからです。

 

もうひとつ思うのは、晴れた日に「今日は発電日和!」と装置をベランダにセットして、バッテリーやスマホに電気がたまっていく様を見ていると、電気を大切に使おうと意識する気持ちがわいてくるんです。野菜嫌いな子どもが、自分の育てた野菜を喜んで食べるのと似ている?自分で得た電気(育てた野菜)は、大事に(喜んで)使う(食べる)…この『大切に使う気持ち』は節電にもつながるし、それ以上に生活の質を上げる重要なキーワードだと感じています。詳しく話すと電気から話が逸れてしまうので、生活の質については、またおいおい。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~③

2023年06月29日 | 日記

私が契約した電力会社の電気は安くない。けれど高くもない。つまり大手○○電力と全く同じ値段に設定されています。

本来は大手から買った電気を消費者に売る卸業をするだけならば、電気は安くなって当然なんです。発電設備もいらないし、その維持・管理もしなくていいから。でも、私にとってそんな値下げは意味がないのです。だって、原発を伴った大手電力会社への依存に変わりはないから。少しずつでも自前の自然エネルギー発電所を作り、その電気を売る会社を応援したいのです。

 

ところで、気持ちひとつで節電ができる例があります。電力会社を変更するとき、電気料金の安い会社には誘惑されました、はい。でも実際には安さではなく、別の観点から会社を選びました。電力会社を変えてみたら…料金設定は同じはずなのに電気料金は下がりました。不思議でしょ?電気を使う時、無意識に使うのと、『今この電気を使っている』と意識して使うのでは使用量に差が出るようなのです。

以前流行った、計るだけダイエットみたいなもので、ちょっとの意識が結果を変える好例だと思います。自分でもそんなこと信じられなくて、誰にも言ったことはなかったけれど、あるエネルギー関連のイベントで、電力会社を変えたら使用量が減ったと言っている参加者がいて、びっくりしたのを覚えています。

食べるのも、電気を消費するのも、意識して…というか、感謝して消費すると、ちゃんと願い(ダイエットやら節電やら)が叶うということですね。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~②

2023年06月28日 | 日記

今年も夏が始まろうとしています。毎年、電力のひっ迫が予想されるので云々…と節電を呼びかける案内が、電力会社から出されます。2016年の電力自由化以降、多くの会社が参入し、価格競争が始まりました。いいことだと思います。嫌いな会社の電気を買わざるを得ない状況から脱して、自分で選択できるようになったから。

でもね、よく見てみると、当時たくさん電気を使う家庭ほどオトクになるプランが主流でした。うちみたいに、ちっとも電気の売り上げに貢献できていない『戦力外消費者』は、どの電力会社と契約しても大差なし…という印象。それでも電力会社はきっちり選びました。それまでの大手○○電力は、原発を稼働させている会社で、今後も老朽原発にムチ打って稼働させる気マンマン。安かろうが(実際は安くないけど)、大手だろうが、そんな会社を応援したくないわい!

 

選んだのは原発を廃止して自然エネルギーを広げていこうと頑張っている電力会社。毎月、電源構成(どんな手段で発電したか)を発表しています。儲けたら、きちんと利用者還元割り戻しをしています。公正であろうと努めている会社です。価格が安くなった訳ではないけれど。

儲けるために危険極まりない発電方法を採用し、震災であれだけの被害者を出し、謝りもせず、責任も取らない。その上まだ再稼働するか~?そんなあり方に、私は被災者ではないけれど、猛烈に腹を立てました。というか、今でも。

電力が不足するから原発、という意味の分からないことを聞いたり読んだりしました。不足するならみんなで節電をして、自然エネルギーに舵を切り直して供給量を増やしていけばいいことでしょう?実際に震災後、原発が一つも稼働していなくても、私たちは生きていけたでしょう?と言いたい。

一般家庭の中でだったら、収入が少なければ節約するし、お酒の残りが少なくなれば、チビチビ大事に飲むでしょうに(→それは、うちだけか?)。電力不足を何故原発と結びつけようとするのかよく分からないけれど、電力不足の論理を言うなら、みんなが無理のない程度で大事に電気を使えば、つまり節電すればいいじゃんか。これが節電理由の一つ。節電している間に、自然エネルギー発電の技術が上がったり、省電力の技術が上がれば、オール自然エネルギー国家ができるじゃん。私は、結構本気で夢見てる。敬うべき国というのは、こういう姿勢や意気込みのある国だと思う。お金をばらまく国ではなく。

まあ、どんな方法であれ、たとえ自然エネルギーであっても電気を作るには環境に負荷をかけるのだから、負荷をかけないように(今住んでいる場所を大切に)しようよ。というのがふたつ目。

そして三つめは、やはり電気料金を下げるための節電。これは、私にとって切実な問題。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~①

2023年06月27日 | 日記

はじめに

そんなに貧しい家庭で育ったわけでもないけれど、生まれつきの性分のためか、小さい頃から貧乏性で、今でも「勿体ない」が口癖です。

嫌いなこと。電気のつけっぱなし、水の出しっぱなし、食べ物を廃棄するなどは当然として、使えるものを捨てること、過剰包装、ちょっとした汚れに使い捨てティッシュを使うこと。そうそう、使い捨てという言葉も嫌い。

じゃあ好きなものは?省エネ、リサイクル(ショップ)、手作りすること、使い切ること。音楽・読書にお酒。

使える物を捨てるのは罪悪感を覚えるので、かなり苦手。だから捨てなくても済むよう、物を買う時は慎重になります。家にあるもので代用できないか、もっと言うと、なくても困らないのではないかなんて、常に考えてしまいます。最近では『便利』という言葉にさえ、疑いを持っています。それは本当に価値のある『便利』なのか?『便利』そうに見えて、実は手間を増やすものではないか?もしくは私の『~ができる能力』の開発を妨げていないか?そんな『便利』という衣を着たアクマに騙されてなるものか!

捨てるのが嫌で掃除が嫌いな私は、今の広くない家にこれ以上モノを増やしたくないのです。買う労力、維持する労力、捨てる労力、嗚呼、これを考えるだけで物欲が萎えてしまう。

自分に必要なモノ、不必要なものを自分の頭で判断して、いかに無駄を出さないように生活できるか…うまくいったと感じる時は、パズルのピースがはまったような快感を感じます。世の中のあれこれが、収まるべき場に収まったような。

 

こうして自分の生活を経済的に、シンプルに創り上げたら、今度はそれを自分の好きなもので埋めていく…愛すべき無駄の気配を感じながら生きるなんて、とっても贅沢。この場合の無駄は、余裕、ゆとりにつながるもの。自分の手に負える程度に無駄を楽しんで人生を満喫したい。人生の後半戦に突入した私のささやかな取捨選択日記を、思いつくまま書き散らかしたいと思います。