昭和58年(1983年)4月小学校入学式
母と妹と自宅前で
また生乾きのまま取り入れやがったな・・・。
ハンガーにかかったまま、複数枚重なったまま、
部屋のカーテンレールにかけられている、今朝洗濯して干していたTシャツ。
夜遅く仕事から帰宅して、ため息つきながら それを一枚ずつたたむ。
「風呂沸いちょうぞ~。」
自分の帰宅を察したのだろう。
居間からクソ親父の声がする。
お母んが居なくなり、想像もしなかったクソ親父と二人だけの生活。
その生活、一週間が経過した。
発端は先週の金曜日。
午後8時過ぎ、仕事を終えて駐車場の車へと戻る。
車内で着替え、携帯電話を確認する。
工場勤務なので、基本携帯電話は取ることができないし、着信にも気付かない。
熊本に住む弟からの着信。
自分が電話に出なかったからか、直後にショートメールも届いていた。
>クソジジイが暴れておかんに出ていけ出ていけ言ってたので
>おかんを連れ出してます。
>とりあえず今ねえちゃんちで晩ご飯食べてて、
>AZホテルにでも泊まろうと思います。
あのクソ親父、またか・・・。
アルコール依存症のクソ親父。
飲料水代わりのように焼酎をストレートで飲む。
夕飯時には必ず缶ビールを一本。
24時間365日、四六時中浴びるようにアルコールを取っている。
自分ら兄弟が幼い頃からそうだ。
ベロベロに酔っては母に暴言を吐き、暴力をふるう。
ときに幼い自分たちも標的になり、踏みつけられたり、
首を絞められたり、湯舟に漬け込まれたりと、凄惨な虐待を受けてきた。
食卓をひっくり返し、ガラス窓を打ち割り、タンスや冷蔵庫をなぎ倒すなど、
親父が暴れた後は、いつも家は災害に見舞われたかのような悲惨な光景になっていた。
親父が酔って暴れ出すと、
自分は泣き叫ぶ幼い妹や弟たちを連れて、すぐに横の公園に逃げていた。
家から聞こえてくるクソ親父の罵声やお母んの悲鳴、
ガラスや食器の割れる音などが聞こえてくる。
砂場で兄妹で抱き合い、泣きながらビクビク震えながら、それが収まるのをじっと待っていた。
外に出られない夜中は、布団の奥に潜り込んで、兄妹で固まってじっと耐えていた。
気が済むくらいに暴れると、親父は決まって外へと飛び出していた。
家に戻ると、お母んはひとり、涙を堪えながら、割れた食器やガラスの破片を片付けていた。
片付けながらも、泣きじゃくる下の子たちをあやしていた。
そんな耐えに耐えるお母んをずっと見てきた。
クソ親父は車でどこかへと消え、さらにベロベロになって深夜に帰って来たり、
何事もなかったかのように翌朝帰ってきたり、
ときには警察に保護されて、パトカーに乗せられて来たり。
帰宅するなり、お母んの態度や子どもらの態度が気に食わないと、再び暴れ出したりもした。
そんなクソ親父を兄弟の誰もが恨み憎んでいた。
若い頃は運送会社で長距離トラックの運転手として、それなりに稼いでいたものの、
バブル崩壊後、不景気になってしばらくしてリストラされる。
以降、ほぼ無職状態。
職業訓練などで、少しの間は真面目にやっていたようだが、
再就職してもどこも長続きせず、一ヶ月以上勤務した試しがない。
けっきょく無認可で個人タクシー的な仕事を始める。
繁華街でスナックのおねえちゃんの送迎や、お客さんを送り届ける。
地元ヤクザにみかじめ料を払って、正規のタクシーよりもずっと安い料金で営業する。
いわゆる、“白タク”と呼ばれる、無認可で違法の営業だ。
それを50頃から70過ぎの現在まで、およそ20年近くやってきている。
白タクの日々の稼ぎは数千円。
多いときで2万円くらいに登ることもあったようだが、
午後6時頃に家を出て、深夜2時くらいに帰宅。
その間、ずっと車のエンジンはかけっぱなし。
ガソリン代やらヤクザへのみかじめ料、客をくれるスナックへのキックバックなどを考えれば、
到底採算が取れていたとは思えない。
親父が失業してからは、お母んが身を粉にして働いていた。
専業主婦で内職でわずかに稼いていたものの、
いちばん下の弟が中学に上がった段階で運転免許を取り、働きに出た。
スーパーのレジ打ちとか、飲食店とか、清掃員とかではなく、
ユニットハウスの組み立て工場でパートタイマーとして働きだした。
そのうえで家庭での主婦業もこなしていた。
クソ親父は何ひとつ自分でやらないから。
お母んの仕事が女性には不向きな重労働で、しんどかったと思う。
実際に受け持っていた仕事は、建設現場や工事現場、イベント会場などで使用されていた、
レンタルから帰って来たユニットハウスを、
再び貸し出せる状態にするよう、洗浄するのがメインだったよう。
各パーツごとに分解されたそれを、洗浄機を用いて洗ったり、
カーテンやブラインド、照明器具などはそれこそ手作業で洗っていたようだ。
そんな重労働をしているうち、ついに体を壊してしまう。
過去に何度か、その職場でケガをした。
転倒して尾骶骨を骨折したり、くるぶしにヒビが入ったりしたこともあった。
体がどんどん悪くなって行った きっかけは、
数年前に姪っ子の遠足で登山に行ったときだったか。
よせばいいのに、仕事で出られなかった妹の代わりに、
張り切って姪っ子の保護者として登山に参加した。
けっきょく、足首を骨折して帰宅する。
年寄りの冷や水とはこのことだ。
それ見たことか!と、お母んを叱った記憶がある。
あの時の骨折で、ヘンな歩き方をしていた。
完治もしないまま仕事を続けていた。
結果、骨折していなかった方の足首を痛めてしまう。
お母んは太っていて、体重もかなりある。
骨折した場所をかばうように歩いて、反対側の脚に負担が行ってしまったのだろう。
さらに膝が悪くなり、股関節も悪くなり、
ついに歩行困難に陥り、仕事が続けられなくなり、昨年の3月に退職した。
前々から、もっと楽な仕事に変わるように忠告していた。
それでもお母んは言うことをきかなかった。
「スーパーなんかで自給何百円もろて、なんの稼ぎになるかね!」
少しでも多く稼ぎたかったのだろう。
時給1,000円を超えていた、その重労働をずっと続けていた。
それもこれも、クソ親父が稼いでこないのが原因だ。
昨年秋には、とうとう杖をついてなきゃ歩けなくなった。
食卓も座卓から椅子のテーブルに変わった。
勝手口には、簡易式の手すり付きの階段が設けられた。
これは熊本の弟が買ってきて取り付けてくれた。
常に「イタタタ・・・。」と、悲痛な声が聞こえてくる。
立ち上がる、座る、歩く、横になる、一連の行動で激痛を伴っていた膝と股関節の痛みだが、
もう最近では、じっとしていても疼くらしく、
痛み止めの効き目も薄くなり、眠ることもできず、
とうとう大きな病院で手術を受けることに。
その手術も、当初先月8月末に予定されていたのだが、コロナ拡大の影響で先送りにされてしまった。
病院のスタッフ不足のため、緊急性の乏しい手術は軒並み延期されたよう。
自分も、そしてお母んも実際コロナになってしまったし、これは仕方がない。
これもずっと言っていた。
「そんなに痛むなら、ちゃんと病院行きないや。」
「行っても、どうにもならん、痛み止めくれるだけやもん。」
かかりつけの近所のやぶ整形外科の診断だ。
自分のばね指をろくすっぽ治療できなかった病院だ。
ここまでに悪化する前から、もっと大きな病院でちゃんと診てもらうよう言っていたのだが、
お母んは言うことを聞いてくれなかった。
そんな状態のお母んに対し、クソ親父は いたわりや優しさの欠片もなかった。
自身はベッドに横たわったまま。
無言で湯呑をテーブルに置く。
お母んはそれを受け取り、急須からお茶を注ぎ、ベッドまで持って行き手渡す。
風呂から居間のベッドまで素っ裸。
着替えをお母んが用意してあげ、投げ捨てられた濡れたバスタオルもお母んが風呂場へと戻す。
食事の用意も洗濯も風呂やトイレの掃除、家事も一切合切お母んがひとりでやっていた。
痛む足を引きずり、杖をつきながら、壁や家具につたい歩きしながら。
「アイタ・・・!」
「イタタタタ・・・・。」
そうつぶやく声も、クソ親父にはまったく聞こえていなかったのだろう。
コロナの影響で先月、クソ親父が廃業した。
先月というより、一昨年のコロナ蔓延から仕事もめっきり減っていた。
客をくれるスナックが店を閉めれば、当然仕事がなくなる。
緊急事態宣言やコロナの拡大などの波に合わせ、営業の停止、再会を繰り返していた。
元より違法な白タクなので、廃業もクソもないが。
それに伴い、完全なる無職となったクソ親父。
車を運転することがなくなったため、以前にも増して酒浸りになった。
そうして、四六時中クソ親父とともに家に居るお母ん。
これといって趣味のないお母ん。
家事以外、毎日何をするわけでもなく、ただボーッと椅子に座り、
痛む足をさすりながら、親父が観ているくだらないテレビを一緒に観ているだけ。
日が暮れれば洗濯物を取り入れ、夕飯と風呂の支度をし、
クソ親父が風呂から上がれば、夕飯を並べ、
クソ親父に気に入らなければ、食べてもらえずにそれを片付け、
自分が仕事から帰宅するのをひたすら待つ。
どんなに遅くなっても自分の帰宅を待っており、
夕飯を準備していて、風呂も自分より後に最後に入ろうとする。
風呂から上がれば、翌朝の米を研ぎ、布団を敷いて眠るだけ。
自分の世話はいいから、飯も自分で用意するし、
遅くなるときは外で食って帰る。
風呂も先に入っていて構わない。
そう言うのだけど、お母んはいつもじっと待っているのだ。
一見、健気で息子想いの母親のようだが、
これが自分はたまらなく嫌で重荷になっていた。
いい加減に引っ越さんといけんな・・・。
お母んの負担を減らすためでもあるが、クソ親父と一緒に居ることが何よりも嫌。
どうせこの公営住宅、老朽化で、むこう数年以内の取り壊しが決定している。
自分の部屋もモノがあふれて手狭になっているし、
素人の作った付け足し部屋なので、また天井が落ちそうになっているし、
大型台風でいつ吹っ飛ぶともわからないくらいにオンボロだ。
そろそろ本腰を入れて引越を考えなきゃならないな・・・。
そう思っていた頃だった。
弟から届いた、またクソ親父が暴れてお母んに暴言を吐いたという連絡。
仕事を終えて、着替え、疲れた体をひと段落させていたときに知った。
一気に怒りが込み上げる。
すぐに弟にメールを返す。
「もう限界やき、あいつ殺すわ。」
もちろん本心ではない。
自分の怒りを伝えるのに用いた、極々短いメッセージだった。
職場の駐車場を出て車を飛ばす。
飛ばすといっても、ちゃんと法定速度は守っている。
家まで小一時間。
これまでの恨みが沸々と甦ってくる。
前の車が遅いと苛立つ。
いかん・・・このままだと事故りそうだ。
ひとまず落ち着こう。
コンビニの駐車場に車を入れる。
嘉麻の叔母に・・・叔母にクソ親父をなんとかしてもらおう。
クソ親父の姉にあたる叔母に、親父を家から引き取ってもらおうと思った。
当然、クソ親父は反発するだろうし、うまくゆくとは思ってはいない。
ただ、この叔母にだけは、クソ親父は小さい頃から甘え可愛がられていたようで、
この叔母が諭してくれれば、なんとなく言うことを聞いてくれ、
少しはクソ親父も反省して大人しくなるのではないか?
そんなあるはずもない期待を抱いた。
叔母に連絡しようにも出先で電話番号を知らない。
自分の携帯電話には、叔母の番号を登録していなかった。
ここで初めて弟に電話する。
お母んは下の妹の家に居て、無事だということが確認できた。
電話の向こうから、甥姪の騒ぐ声が聞こえてくる。
ただ、着の身着のままで逃げて来たから、
今から貴重品や着替えを取りにいったん実家に戻るとのこと。
叔母の連絡先を教えてくれるよう伝えた。
そばにお母んが居るならば、すぐに教えてもらえるはずだ。
「ちょっと待ってね。」
そう言ってしばらく待たされる。
その間、弟が話してくれるが、笑い混じり。
その笑いが本当におかしくて笑っているのではない。
気を紛らわすための無意識な笑いであることは判っている。
だが、それが自分は気に入らない。
「笑いごとじゃなかろうが!」
「あ、ごめん、そうやけど・・・。」
・・・。
・・・・・。
「判らんのけ!?」
「待ちないっちゃ!」
弟がキレ気味の声色で反論してきたので、自分がそれでキレる。
しびれを切らして電話を切り、コンビニの駐車場を飛び出す。
苛立ちを落ち着かせるつもりだったはずなのに、
さっきよりも気が立った状態で車を飛ばす。
途中、着信があった。
お母んからだった。
やっと叔母の連絡先が判ったのか?
今さら遅いわ。
運転中なので電話が取れないのはもちろんだが、
自分の心には、もう車を止めて電話に出る、かけ直す余裕なんてなかった。
叔母への相談はなくなっていた。
家へ車を直行させる。
?
人だかり。
警官?
パトカーだ。
自分を待ち構えているかのように、数人の警察官とパトカー。
心配そうに自分を見つめる、上の妹夫婦の姿も見える。
その光景に、ただならぬ事が起こったんだと悟る。
お母んは下の妹のとこへ逃げていたけれど、けっきょくクソ親父が何かやらかしたのか?
そういや着替えと貴重品を取りに戻るなんて言ってたな・・・。
だが、そんな自分の脳内思考とは裏腹に、苛立ちが警察官に向けられる。
「なんや、お前ら!」
車のウインドを開けて近づいてくる警官たちへ怒鳴る。
「**たけおさんですか?」
「なんの用や!」
「お父さんのことでおはなしを伺いたくて・・・。」
警官の口から親父のことが出たことで、自分は自制できなくなった。
ここから先の行動はあのときはもちろん、
今になっても、どうしてああいう行動をとったのか?
どうしてあんなに警察に嚙みついたのか?
皆目解らない。
ただただ怒りを警察官にぶちまけるしかなかった。
妹夫婦の前でご近所さんの前で、ひどい醜態を晒すことになった。
車をきれいに駐車することなく、その場に乗り捨てる。
ドアを開けるなり、そこに居た3人の警察官が自分を取り囲む。
プロテクターを付けた警官3人に迫られ、車のドアに押し付けられ、
そこから一歩も動けない、まったく身動きが取れない。
3人が密着し、小さな懐中電灯のようなもので自分の顔面を照らし、
口調は穏やかだが、あたかも自分が犯罪者のように問いかけてくる。
「クソ親父は今どこにおるんなら!」
「お父さんは今、署の方で保護しております。」
「じゃ、もう家にはおらんのけ!?」
「はい、署の方で保護してお話を訊いています。」
「じゃあ問題なかろうが、家に帰せや!」
「落ち着いてください、お兄さん。」
「わしゃ明日も仕事で朝早いんじゃ!通せや!」
「いいや、帰すことはできません!」
「なんでじゃ!?親父はおらんのじゃろうが!ほいじゃったらなんの問題もなかろうが!」
「あなた弟さんにメールしましたよね?」
「おとうさんを“殺す”ってメールしましたよね?」
「おう、したわい!そんくらいアイツを恨んじょるんじゃ!」
「ですから、署に来てお話を訊かせてもらいます。」
「なんでじゃ!?親父おらんのやったらよかろうが!」
「いいや、ダメです!」
「弟さんが通報してこられまして、お父さんを保護しました。」
「はぁ?暴れてお母んを追い出した親父が保護されて、わしが連行かいや!」
「連行ではありません、お話を訊きたいだけなんです、任意同行です。」
「“任意”やったら行かんでもよかろうが!」
「そういうわけにはいきません!」
「なんでじゃ!?」
「“殺す”って言ったのだから、お父さんの身に危険が及ぶかもしれないでしょ、
そんなところへお父さんを戻せませんし、お兄さんをそのままにしておけません。」
「“殺す”は殺人予告ですよ、だから署でお話を訊かないといけません。」
「わしが悪いんかいや!?」
「ほいじゃったら逮捕すりゃよかろうもん!」
握りこぶしを作って両手首を内側に合わせ、警官に突き出す。
「いや、逮捕とかじゃないんです!“殺す”って書いて通報があったから、
お兄さんに署に来てもらって話をしてもらわいといけないんです。」
「警察なんてなんもしやせんじゃろうが!」
「そんなことはありません!」
「嘘じゃ!今まで何べん親父のことで通報した思うとるんじゃ!」
「けっきょく民事じゃのうて、家事じゃけ、警察は何もしてくれんかったやろうが!」
「以前は確かにそうでした!でも今は事件になるのを防ぐため、
家族の問題でも警察が動かなきゃいけなくなったんです!」
「ほいじゃったら、親父をブタ箱入れて一生出すなや!」
「それはできません!」
「なんでじゃ!」
「犯罪を犯していないからです!」
「あれが犯罪じゃなあんか!?お前ら あんなん野放しにしちょくんか!?」
警察官との揉み合い言い合いは数十分にわたる。
話は堂々巡りで埒が明かない。
その間、自分はずっと車のドアと警察官3人に挟まれ身動き取れない密着された状態。
向こうで暗がりのなか人影があり、スマフォをかざしていて、
カメラのライトが赤く点灯し、何者かが自分らを撮影しているのが判った。
翌日も朝が早い。
さらに翌々日も日曜だけど仕事になっていた。
お母んが居なくなったとあれば、作業着の洗濯は今日じゅうにしておかなければならない。
警察署なぞに行って、そこで事情聴取なんてされれば、解放がいつになるのか分ったもんじゃない。
それだけはどうしても避けたかった。
「お兄さんがお父さんを殺してしまったら、あなた犯罪者ですよ!」
「そうならないために、お話を訊くんですよ!」
「お母さんや妹さんらも後から署に来ることになっています!」
3人の警官が矢継ぎ早に途切れることなく口を開く。
自分もそれにひとつひとつ応酬していく。
「犯罪者なんか関係ないわいや!」
「アイツのせいでわしの人生なんか元からボロボロじゃ!」
「わしのひとりの人生犠牲にして、お母んがアイツから解放されるんなら安いもんじゃ!」
「いい加減にしない兄ちゃん!」
「犯罪者とかやめてよ!うちの子とかどうするん!?ひなちゃんとかどうするん!?」
「みんな犯罪者が親戚に居るとか嫌やろうもん!困るんばい!」
たまりかねたように上の妹が割って入って来た。
潮時だ。
これ以上抵抗しても、警察署に連行されるのを避けることはできない。
時間の無駄だ。
とりあえず車をまっすぐきれいに止める。
ただ車を止め直すだけなのに、逃走するのではないかと警官が警戒して周りを固める。
とりあえず家に荷物を置きに戻る。
やはり逃走・抵抗を警戒してか、家までひとり警官が付き添ってくる。
施錠されていなかったので、勝手口などのカギを締める。
クソ親父がふだん居る居間、台所なんかも見渡すが、暴れた、荒らされた形跡はない。
身分証明となる運転免許証だけを手に、警官に挟まれてパトカーの後部座席に乗せられる。
田川警察署。
入口にサーモグラフィーの装置が設置されていた。
コロナ以降、あらゆる施設に設置されていて、今さらもう珍しくもない装置だ。
「体温を測られてください。」
受付付近の警官に促され、サーモグラフィーの前に立つ。
ピッ!
40℃
「た・・高いですね・・・。」
ふだん平熱が低めで、38℃を超えると寝込んでしまう自分が、40℃という未知の数値を叩き出した。
さっきまであれだけヒートアップして3人の警官とやり合っていたのだ。
体温もそれなりに上がっていたのだろう。
このとき血圧も測ってみたら面白かったかもしれない。
格子付きの窓、一畳ちょいくらいの小汚い小さな個室に入れられる。
小さなテーブルと、前後に粗末な椅子。
部屋の奥の方の椅子に座らされる
刑事ドラマで取調べなんかに使われるあの部屋だ。
そこへ自分よりもずっと若い、刑事とおぼしき男が入って来た。
およそ刑事とは思えない、ラフな格好をした いけ好かない若い男。
そいつがいろいろと訊いてくる。
隣の部屋では弟が同じく話をしているらしい。
刑事の話では、弟は泣きながら事情を説明しているという。
自分と弟と部屋を別にされていたが、大丈夫だろうという他の刑事の判断で、
部屋を移動。
広めの部屋へ案内された。
弟と二人掛けソファーに並んで座るも、目も合わせない会話もない。
コイツがいらんこと通報しなきゃ、こんなことにならなかったんだ。
ここへ妹たちやお母んもやって来た。
「こげん、大ごとになってしまって・・・ごめん・・・。」
号泣しながら、妹二人に謝る弟。
弟にとっては二人とも姉にあたる。
「大変やったね・・・。」
弟をねぎらい、崩れるその背中を優しくなでる妹たち。
自分が「殺す」なんてワードを使わなきゃよかったんだ・・・。
弟を責めることはできない。
刑事たちは捌け、代わりに ひとり若い制服姿の警官がやって来た。
生活安全課の人間らしく、自己紹介ののち、家族構成など詳細を訊いてくる。
先の刑事たちの説明にもあったが、保護したクソ親父の状況をみるに、
アルコール依存症である可能性は高い。
行政に相談し、治療施設へ入れることを薦められる。
本人が言うことをきかなくても、強制的にそれができる手続きもあるという。
また、お母んに対する暴言や暴力、DVに当たる可能性があるので、
そっちの方向でも話を進められることも説明を受けていた。
まずはDVの実態をということで、お母んに質問が投げられる。
質問はクソ親父との馴れ初めから始まる。
自分にとってそれを聞かされるのは拷問以外の何ものでもなかった。
「初めてご主人から暴力を受けたのはいつですか?」
「えーと、まだ広島に居て17のときですから・・・。」
「昭和48年!」
即答できないお母んに代わって、膝の上に置いた腕に顔をうずめたまま、自分が答える。
「それはどのような暴力ですか?」
「なにが原因か忘れたのですが、怒鳴られて髪を引っ張られて、
物を投げられて外まで追いかけられました。」
「何が原因だったか、忘れてしまいましたが・・・。」
お母んはボケたのか?
50年以上暴力を受けすぎて、忘れてしまったのか?
小さい頃に聞かされて衝撃を受け、自分は今でも忘れやしない。
頬に手を当て天井を眺めながら、原因を思い出せないでいるお母んに代わって自分が答える。
「親父の友達が来ちょって、その友達がお母んの学歴をバカにした。」
「それで親父がキレて、その友達とケンカになったのをお母んが止めに入った。」
「それが気に食わなくて、お母んに怒りの矛先が向かって暴力をふるった!」
「ああ、そうでした!そうです!」
お母んは思い出したのか?
自分の説明のあと、警官にそう答える。
「そんなことがあったん?」
「知らんかった・・・。」
妹たちが初耳であったように目を丸くする。
そんな目に遭っても、お母んはヒモだったクソ親父と同棲を続け、20歳で自分を出産する。
もういい。
もうたくさんだ。
延々と今日に至るまでの、お母んとクソ親父との出来事を聞かなきゃならないのか?
こんな話、もうこれ以上聞きたくないし語りたくもない。
頭痛がする。
寒気もするし、尿意もきびしい。
朝から何も食べていない・・腹も減った。
明日も早いし、早く家に帰りたい。
自分がそれを訴えると、すんなりと帰宅許可が出た。
事件性はないと判断されたのか?
自分に本当に殺意がないと判断されたのか?
ここから先はお母んだけでいいということで、
妹二人とともに帰路に就く。
日付が変わろうとしていた。
帰宅してとりあえず片付けていると、
ほどなくしてお母んと弟、上の妹がやって来た。
警察署で、既に自分の考えをお母んと妹弟には話していた。
金輪際、もう お母んとクソ親父は会わせない。
10月の上旬に足の手術を控えているため、それまではどこかに身を寄せる。
入院中の一ヶ月、その間にお母んの新居を探して、退院したら即住めるように準備しておく。
クソ親父にバレない場所、行動エリアの被らない場所、
且つ、孫の面倒が見られるよう、そんな離れてもいない場所で。
お母んも妹たちもそれを承認してくれた。
手術までの間の二週間ばかり、お母んは熊本の弟が一時的にかくまうことに。
お母んの荷物や車は、一軒家に住む上の妹が自宅で預かることに。
帰宅して深夜まで、お母んの荷物の整理が続く。
クソ親父が警察署に保護されている期間は最長で24時間。
ヤツが帰ってくるまでに、お母んの荷物をまとめて移動させなくてはならない。
貴重品,着替え,布団,化粧品や身の回り品、
手術・入院のために用意していたもの、孫たちからもらった手紙や敬老祝い。
それらをバッグや衣装ケース、段ボールに詰め込む。
他にも、お母んが独身時代からの小物や思い出の品々。
古いカセットテープや、年季の入ったアクセサリー、
アルバムや兄弟の母子手帳やへその緒。
「全部捨ててもいい・・・。」
お母んはそう言うが、捨てられるわけがない。
これは自分が責任を持って、まとめて新居に移動させておく。
翌朝、出勤前に近所に挨拶に行く。
事情あって母が挨拶もなく、転居先も伝えられずに居なくなってしまうこと。
クソ親父が暴れて「火を放つ」などと叫んでいたらしいので、
うちから何か物音や親父のわめき声か聞こえたら、すぐに110番通報すること。
いつも家庭菜園の野菜をくれていた おばさんは、驚きを隠せない様子。
お母んと最も仲の良かった おしゃべり好きのおばさんは、涙ぐみながらうなずく。
まだ荷物の整理をやっていたお母んと弟を残して出勤する。
直前に警察署から連絡があった。
親父が20分ほど前に署を出たとのこと。
「家には戻らん!」
「迎えは要らん!歩いていく!」
そう言って署を出たという。
だが心配で心配で気が気でない。
アル中クソ親父の言うことなんてひとつも信用できない。
もし本当に家に戻らないのなら、
警察署と家のちょうど中間に位置する叔母の家に行く可能性がある。
その叔母からお母んの元へ連絡が来たらマズい・・・。
もし家に戻ったら・・・。
お母んと弟、早く荷物をまとめて家を出なきゃ、クソ親父と鉢合わせしてしまう!
お母んが居なくなった家にクソ親父が戻り、
すっかりなくなっている、お母んの荷物。
それを見て逆上して、家に本当に火を放つかもしれない。
自暴自棄になって、家でまた暴れてガラスを割ったり家財を破壊するかもしれない。
ご近所さんに何かあったらすぐに110番するよう伝えて来たが、
今日仕事を終えて帰宅したら、家がなくなっている可能性もある。
そんな心配をしながら、その日いちにちを過ごす。
途中、お母んに連絡した。
「いま鳥栖。大丈夫やけん・・・お母さんのことは心配せんでいいけん。」
「ちょうど家出るときにお父さんが帰ってきてね・・・。」
やっぱり鉢合わせしたんだ!
「「行くんか?」っち言われたき、「うん。」っち言ったら、
「もう二度と帰って来るなよ。」っち言われた。」
そっちが言わなくとも、二度とお母んに会わせるつもりはないわ!
夜遅くに帰宅する。
親父の部屋だけ灯りが点いている。
テレビの音が聞こえる。
居やがる・・・。
着替えて夕飯の支度をしようとしたら、ふすま向こうからクソ親父の声。
「風呂沸いちょうぞ~。」
自分にも「出ていけ!」と怒鳴って来るものだと身構えていたが、
どうやら自分には何もなく接してくる。
それどころか、いそいそと手伝いのようなことをしてくれる。
乾いてもいない洗濯物を取り入れたり、
ゴミを捨ててくれたり、仏壇の花の水を換えてくれたり、
自分で使った食器は自分で洗って片付けるようになったり、
これまでまったく何もしなかったクソ親父が、見違えるほどだ。
自分はお母んの残った荷物の整理。
そして自分自身の荷物の整理。
この家に刻まれ残された、家族の40年以上の思い出の清算。
やることが山積している。
お母んの新居を早く見つけなければならない。
できればその近くに自分も引っ越したい。
お母んの面倒を見るのと、お母んのところに来るであろう、甥っ子たちにも会いたい。
そして、これまでできなかった親孝行をしなければならない。
クソ親父と同居だと、金を入れてもヤツの酒やタバコ代になってしまう。
お母んだけに孝行したいと思っていたから、遠く離れてはそれが難しくなる。
仕事から帰って風呂に入ってすぐに洗濯。
休日や、出勤時刻が昼前になる遅番の日はいいが、
普通の日は、朝、洗濯機を回して干していく時間がないので夜のうちに済ます。
それから夕飯の用意をして食べて片付けて、すべて終わるのは日付が変わってから。
こんな生活がしばらく続くだろう。
風呂掃除をしながら、足の悪いお母んのことを思う。
古い集合団地の古いつくりの風呂場。
段差があり、風呂掃除もひと苦労。
洗濯だって掃除だって、食事の用意だってそう。
痛い足を引きずりながら、お母んは毎日家事をやっていたんだ・・・。
そんなお母んに、最近は悪態をついていた。
いつだっておせっかいで、いらんことしいで、無駄に話が長くって、
他人のことばかり気にかけて自分のことは後回しで、
ずっとひどい仕打ちを受け続けてきたのに、あんなクソ親父と離れることもせずに・・・・。
昭和55年(1980年)
地元のお祭り、神幸祭(じんこうさい)に参加したとき。
長崎から来ていた祖母と、母と妹ふたりと。
お母んは寂しかったのかもしれない。
子どもが成長して居なくなり、孫の面倒が見れるようになったと思えば、
足を悪くして、それもできなくなってしまった。
退職して職場の人たちとの関りもなくなり、話し相手もおらず、クソ親父といつも二人きり。
唯一親元に戻って来た自分も、不愛想で悪態をつく。
幼い頃、6人もの子ども抱え、家事をこなして内職して、
運転免許もなく車にも乗れず、幼い子をおんぶして手を引いて乳母車を押して、
その状態でたくさんの食料品や重たい粉ミルクの缶、
かさばる紙おむつ、買い物も大変だっただろう。
長距離トラックの運転手だったクソ親父は、ふだんは家に居ない。
思い出せばにぎやかで楽しい日々だった。
クソ親父がいないときだけは。
それは今も一緒なんだ。
クソ親父さえ居なければ、兄妹関係も良好なままで、
お母んもたくさんの孫に囲まれて、穏やかな余生を送れるはず。
もっと早く、そうしてあげるべきだった。
これまでもクソ親父が暴れることがあった。
その都度、この問題を先送りにしてしまった。
お母んが足を悪くする前に、クソ親父と引き離しておくべきだった。
ウダウダしている間に、今回のようなことが起こってしまったのかもしれない。
自分も早いとこ荷物をまとめ、新居を見つけ、
クソ親父ひとり放置して立ち去り、他の妹弟だれもクソ親父に関わることなく、
そうして孤立させ、余生を独り寂しく送らせる。
家事もお金の管理も何もできないアルコール依存症のクソ親父。
誰も助けてくれず、ただ独りで どうなることやら・・・。
これまで散々お母んを、家族を虐げてきた報いだ。
好き勝手にわがままに生きて来て、周りに迷惑をかけまくってきた人生。
少ない余生でそれを後悔し反省すればいい。
まっとうに働くこともせず、労働,納税と国民の義務を果たしていない。
かろうじて、教育を受けさせる義務だけは守れていたか。
一週間経った。
お母んがいなくなり、クソ親父とふたりだけの生活。
「殺す」とまで言った、あんなに恨み憎んでいたクソ親父。
独りここに残して本当に大丈夫だろうか・・・?
誰にも看取られず死んでゆくのだろうか・・・?
自分に おかしな感情が芽生え始めた。
腐っても父親なのか?
こんな感情は拭い去らなければならない。
じゃなきゃ元の木阿弥だ。
幼い頃から自分たちがクソ親父から受けた痛みを、恐怖を忘れてはいけない。
ずっと耐えてきたお母んのことを忘れてはいけない。
クソ親父に同情する理由なんてないはずだから。
昭和52年(1977年)父と。
今までの武さんの日記の中でも最もシリアスな記事ですね。食い入る様に拝読しました。
にわかには信じ難い内容に思えますが、おそらく何の脚色も入っておらずありのままのお話なのでしょう。
怒りなどで精神がヒートアップするだけで本当に体温が40℃まで上がるのは驚愕しました。
血圧は250ぐらいまで上がるのはマジですけどね。
「オカンが居なくなって一週間」という冒頭から、まさか事故or事件or病気により急逝されたのかと思いましたが、そうではなくて胸を撫で下ろしました。
更に中盤から殺人事件が起きたのかとも思いましたがそれも違った様でホッとしました。
一つ気になった点ですが、お父上はなぜ自分が保護されたのか、すなわちそのメールの内容の事をご存知なのでしょうか?
もしそうなら、たとえ「比喩」だったと判ったとしても「本気」の可能性も無きにしも非ずと思って刺激しない様に今はしおらしくしているのかも?なんて想像してしまいます。
と同時に武さん自信が気まずくならずに今も一緒に居るという点にも驚きました。
やられる前にやる。という例の事務次官の「熊澤事件」を身近(DQ10ゲーム内)で見てしまっただけに・・・
家族同士でそんな事なんて、あり得ない!
とあの事件を見る前なら思えたでしょうけどね。
そして、
みんなが後ずさりする中、武さんがフレボ管理人などという何の収入も得られない貧乏くじの様な役職を引き受けられたそのお人柄は母上様ゆずりだったのですね。
13年越しに合点がいきました。
くれぐれもご自愛下さい。
実際に面と向かって話すのではなく「メール」など文字だけの時にはやはり細心の注意を払わなければ、相手がどう捉えるかなんてわかったもんじゃない。
喋り方も表情も一切見えないのだから。
って事を痛感する出来事でしたね。
あの時に、もっと早く、ああしておけば良かった・・・
時間を戻せるならやり直したい。
首に縄をつけでも病院に連れて行って手術を受けさせるべきだった。
もっと強く言って仕事を辞めさせるべきだった。
そのどれか一つでも歯車を変えるだけで間違いなく今とは違った未来になっていただろう。あの不幸を回避できただろう。
私もこの2~3年ずっとその事ばかり考えてしまいます。
いくら後悔しても詮なき事だと解っていても。
コロナ禍が始まる少し前、実は母を亡くしました。病気というより過労死に近い突然の出来事(心臓発作)でした。
それ以降、どんなに美味しい物を食べても、どんなに感動する景色などを見ても、子供が受験に合格しても、心から喜び楽しめません。本来なら母も一緒にこの場で笑っていたはずなのにと思うとね。
いつか記事に書こうかと思いつつも未だに心が整理できず、以来更新も滅多にしていないのはそのためなのです。
びっくりしました。
お母さんにしてきたことが、犯罪にならないのが不思議。
シェルターに、避難もいいかもです。
早く新居が見つかりますように。
たけおさんも近くに新居が見つかりますように。
そして、その場所がばれませんように。。。
こんばんは、コメントありがとうございます。
まずはお母さまのこと、お悔やみ申し上げますとともに、心中お察しいたします。
あの気丈なれいなさんが、こんなにもふさぎ込むのですから、
その悼むお気持ちの深さが判ります。
リメンバー・ミーの記事のコメント返しはお母さまのことだったのですね。
世間一般の方々には非現実的な内容かもしれませんが、
本記事の内容に一切の脚色はございません。
しいて言えば、現実はもっと凄まじいもので、これでもオブラートに包んで記事にしています。
自分と両親のことだけならばいいのですが、
妹弟たちや、自分のふたりの子ども、
甥っ子姪っ子たちにも関わって来ますので、そうしました。
警察からは、母への暴言と酩酊状態で暴れる恐れがあったことを理由に、
親父を“保護”したと説明を受けました。
母に対し「出ていけ!出て行かんのなら火をつける!」と怒鳴ったそうで、
それが一番の理由だったようです。
親父へ殺意を持っているかもしれない自分からの
“保護”の意味合いもあったのでしょうが、
その件を親父には伝えてはいないと思います。
もしそんなことを伝えていたら、あの親父のことだから、
あの日、帰宅したら自分の部屋は消し炭になっていたに違いありません。
クソ親父にとって母は都合が良かったのでしょう。
気に入らないことがあれば八つ当たりできる格好の人物。
どれだけひどい言葉を投げつけても、
どれだけ暴れても、抵抗もしないし文句も言わない。
実際、誰彼構わず暴力を振るうわけではなく、
母や子どもたちにしか威張らない男でした。
外面が良くて見栄っ張り、内弁慶の典型的なダメ男ですね。
今回のゴタゴタ、結果オーライになるように事を進めて行くつもりです。
まずは母の手術が成功し、リハビリが順調に進めばと思っています。
れいなさんも、もうしばらく時間がかかるでしょうが、
無理をなさらず、ゆっくりと心の傷を癒されてください。
また、過激で歯に衣着せぬ、元気なれいなさんの記事が復活する日を待っています。
こんばんは、コメントありがとうございます。
前にそんなコメントしましたっけ?
みはねさんとこの優しいお父さんの記事か何かかな?
父親という存在が、小さい頃から恐怖でしかなかったので、
アニメやよそのお父さんが優しいのが、子どもの頃は信じられなかったです。
母のみならず、自分ら家族にしてきたことは紛れもない犯罪です。
ですが警察というものは民事しか扱わないため、
家庭での揉め事には介入しませんし、逮捕もしません。
ケガを負わせたり死なせたりして、初めて逮捕になります。
今回の件もDV認定して、警察が親父を監視下に置くことができるよう、
そういった話を進めてはくれましたが、
遠慮しているのかなんなのか?
いかんせん母が告白する内容が弱過ぎて・・・。
あれじゃあDV認定されないだろうな・・・と、
兄妹で母に対して苛立ちを感じているところです。
新居探しを始めないといけませんね。
親父は行動範囲がそんな広くないので、まあ大丈夫でしょう。
万が一見つかったとて、それで干渉してくれば即警察に通報ですよ。