山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

山を彫る(7)鳥海山々頂への道

2024-10-25 16:35:50 | 山を彫る

 ようやくたどり着いた御室小屋の脇、建物を風雨から護る石垣の傍らにザックを置き、これから山頂を往復する。岩場では、ストックは邪魔になるから持たないようにと指示があった。杖に頼ることが多くなっている私には不満だったが、言葉に従うことにした。トップを行くThさんは、奥さんの出身が山形県温海町であるということもあって、何回も登っていると聞いていた。足場が悪いので自信の無い人は見合わせるようにとの呼びかけがありAkさんが手を挙げ待機を宣言する。いよいよ山頂を目指して出発。直ぐに、大きな岩塊をへばりついて上り始めたところでMtさんがリタイヤ。道はますます険しくなっていく。Thさんは、当時小学生だったお子様を連れて登ったとも言っていたが、この道については何も語っていない。子供でも登れるんだからと、油断していた部分もある。正直これほど険しいとは、思いもよらなかった。上を目指している筈なのに、今度は岩の間に下っていく。それも段々狭くなる暗い谷間へ。足元に注意しながら片手で先行する仲間の後ろ姿を撮った。谷間の底から再び岩を伝わって上り始める。直ぐに停滞。どうやら先がつかえているらしい。岩の向こうを下る人があり、右上の方では、はしゃぐ声がする。間もなく行列が動き始め、ひと上りで山頂に着いた。なるほど新山の頂上は狭い。2班7人と代表が座れば一杯の広さしかない。ファイトを称え、万歳三唱してから記念写真を撮り、下りも上り同様岩ゴツゴツの道を慎重に下り、デポ地点に戻った。

岩の隙間を抜けて新山山頂へと向かう

岩の積み重なる新山ドームの山頂

 このときの様子を彫ったのが「鳥海山々頂への道」である。岩の谷間へ下っていく様子と、前方岩の間に光が射していて、未来が明るいことに通じているような光景を描きたかったが、後者は止められた。画の全体としての方向の先を白っぽくすると、抜けてしまうのだそうだ。市民文化祭に出品することを意識して私が彫れる限界の10号にしたが、この大きさだと彫りはともかく、摺りの段階で全体にむら無く絵の具を載せることは、なかなかエネルギーの要る作業だった。最近は、いかに彫らないようにするか腐心してきたのに、彫りだすと全体が見えにくくなり、今回も岩の線を彫りすぎ煩雑になってしまったことは、反省。もうひとつ、木田安彦に見る“カスレ”をどうすれば表現できるか研究してきたが平刀を使えば良いことが解ったのは、収穫。岩の表面に一部採用した。この構図が気に入ったので、葉書サイズに画を起こし直し、'10年の賀状として投函した。SHC会員の何人かに、届いていると思います。葉書では、岩の谷間右上のインクを薄くした。この方が狙った通りになったし、作品としても、まとまっていると感じている。
(2010年4月、IK記)

遊佐方面を見下ろす

千蛇谷雪渓を登る

登ってきた千蛇谷を振返る

八丁坂のお花畑

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【2024年10月記】

Ko(甥・中3)Yu(長男・小4)Sho(次男・小1)

2009年8月の合宿山行は、出羽の名峰 鳥海山・月山へと遠征した。IKさんが書いているとおり妻の実家が庄内で、帰省の駄賃に子どもを連れて山に登ったものだった。最初の鳥海山は1997年夏、「恒例としている帰省山形山行は8月16〜17日と鳥海山に行った。“その山では雪で遊べるか、岩に登れるか”これがSho(次男・小1)の出した条件であったが、山形の山は冬の豪雪のおかげで、真夏でも雪渓が残る。若い火山である鳥海山の新山ドームは積み重なった岩が天を突くという。これで決まりである。」ローカリスト(?)の私にとっては、地元の南アルプス以外に通った数少ない山域が飯豊、朝日両連峰と庄内の山々だった。

 本年度の夏山合宿「鳥海山・月山」が無事に終り、担当として安堵しています。今年の東北地方は夏が無かったと言える程不順な気候で、当初この山行も雨が心配されましたが、幸いにも好天を当てることができました。また、数度の山行で私も見たことのない真っ盛りの花々に迎えられました。これが第一の成功のポイントでした。
 道中の長さゆえ、本番の体調を維持するのに苦労された方も見受けられましたが、鳥海山は全員で10時間に及ぶ行程を歩き通すことができました(2名は新山山頂には立てませんでしたが)。皆さんの日頃の鍛錬の成果でしょう。花を見る時の、雪渓を渡る時の皆さんの喜々とした(中にはちょっぴり不安げな)顔も忘れられません。下山口でスイカ、メロンの用意をして待っていてくれたS鉄小型バスのK、S両運転手の心遣いにも感激しました。
(会報『やまびこ』No.151、2009年10月)

参加された故Akさんは「振り向けば日本海、前方は雄大秀麗な山並み、点在する大雪渓、広く長く続く高山植物のお花畑。鳥海山は感動的な交響詩のような山でした。」と感想を述べられたが、私にとっても会心の合宿山行の一つだった。


山を彫る(6)房小山

2024-10-23 09:13:36 | 山を彫る

 会報150記念号アンケートに、好きな山を挙げよという項目があった。迷わず「房小山」と書いた。好きな理由はいくつかあるが、まず、佇まいが良いことを挙げたい。鋸岳直下、樹間から眺めて良し、いくつかの沢を隔てて、静かに座っているところが好ましい。帰りのことを考えるとかいだるいが、急降下してガレの頭を過ぎてから北上する稜線が良い。笹原の中を緩やかに上下する道は、私の最も好む雰囲気である。この稜線には白やしおがたくさんあり、花の当り年にここを通れば顔が火照る程であろう。Saさん(千頭山の会)によれば、私の太腿くらいの木でも樹齢300年は経っていようという代物が並んでいる。一旦、巻き道に入った辺りは、眺めもなく、時々急坂が現れるので気分的にも体力的にもきついが、我慢、我慢。そこを抜ければ笹原が山頂まで続く超明るい道が開ける。山頂までは1時間かかるが、もう大丈夫だ。笹の中に埋もれた木の根っこや石に注意しながら、あっち見、こっち見して歩を進める。天気が良ければ、これ以上の幸せは無い。
 房小山のことを初めて教えてくれたのは、千頭のEnさんである。'98年、御殿場山岳会に富士山の茸狩りに招待された。同席していたEnさんが、酔うほどに「房小山はええぞー、房小山はええぞー」と言っていたのが気になり、行ってみたいなーと思った。チャンスは意外と早く訪れた。'99年県スポーツ祭の折、SHCは島田しらびそ山の会と共にBコース(高校生)を受け持ったが、隊付きのスタッフも多かったため急遽Aコースの房小山に連れて行ってもらうことになった。この時は、千石沢登山口まで川根町のマイクロバスが乗り入れてくれたので、行き帰りの2時間余りを歩くことなく随分楽に行ってこれた。一度で好きになってしまったこの山へ2000年に、なんと3度行く破目になる。4月にAEさん、MKさん、YTさんと、5月には私のDIYの師匠、Osさんと、さらに11月には山の師匠2人を案内した。いずれの山行でも、常の山行にはないエピソードが伴ったことも、この山を忘れられないものにしている。

笹原に続く道(2008年10月・大川連親睦山行)

 久し振りに、今度は県岳連大井川地区の方々と親睦のための登山をした。例によって、山犬段の小屋で大宴会をやった翌日の山登りはつらいものがあるが自業自得ではある。この日も秋の好天日で、私にとっては堪らない場面であった。残念ながら山頂には届かなかったが十二分に楽しんだ。この時の印象を版画にした。笹原の中に点在する、色付き始めた広葉樹と常緑の針葉樹の対比が面白く、そこにまた立ち枯れの白木が絡む様を画にする作業は、手間がかかったけれど楽しいものだった。彫刻刀の使い方を工夫して針葉樹を100本余彫ったのに、摺りの段階で思ったほど表現されていないのには、ガックリきた。紙を変えたり、絵の具の濃度をあれこれしてみても効果が上がらず弱っていたところ、ちょうど我が家を訪ねてくれたYoさんに相談したら、言下にバレンが悪いと指摘された。バレンを借りて再度摺ってみたら、考えていたものに近い仕上りになった。後刻Yoさんを通じて3,900円也のバレンを購入し、それ以来重宝して使っている。大好きな山を画にすることができたし、版画を続けていく上でも収穫の多い作品となった。
(2010年2月、IK記)

この辺りは恰好の鹿の遊び場

【2024年10月記】

房小山は寸又峡を基点に馬蹄形に連なる大間川(寸又川支流)流域尾根の西奥にあたり、山犬段辺りの南赤石林道から望めば鋭峰・黒法師岳から南に続く平らな尾根にイボのように隆起した小さなピークだ。私が初めて訪れたのは、IKさんの5ヶ月前の1999年6月初頭で、県スポ祭のコース下見として千頭Enさんの先導だった。

房小山(1999年6月)

(前略)千石平を通り鋸山へ。樹林の中のあまりはっきりしないピークだ。担いできた千頭山の会の道標を設置。ここから先、いよいよヤブこぎが始まるということでTシャツから長袖に着替え、軍手をはめる。房小山まで三回ほどの深いヤブ。体が完全に隠れ、すぐ前を行く人も見えないほどの笹だが、下はしっかりと踏み跡がついており、思っていたほど歩きにくくはなかった。また要所に赤ペンキでマークを付けたので、道は以前よりはっきりしたと思う。六回ほど小ピークの登降を繰り返す。道はほぼ稜線上を進む。白ヤシオの群生があり、見事な花をつけていた。二重山稜になった地点に着くと右先にポコリと房小山が見えた。右に曲がりあちこちに鹿のフンの落ちているなだらかな斜面を登ると頂上に着いた。スッキリとした明るく感じの良い山頂だ。蕎麦粒山から大札山へと続く尾根、また板取山から沢口山へと続く尾根が望まれた。ここから先、バラ谷山から黒法師へと続く稜線はさらにヤブも深い道なのだろうが、いつか歩いてみたいと思う。
(1999年6月『やまびこ』28号より)

房小山が一般ルート化したのはこの県スポ祭がきっかけで、Enさんをはじめとする千頭山の会の尽力のおかげだった。Enさんは後に赤石頂上小屋の名物小屋番になった。私にとっては、房小山は南アルプス深南部への道筋を拓いてくれたものだった。この山の先を踏んで黒法師岳を目指したのは2年後の秋だった。


山を彫る(5)穂高連峰

2024-10-21 08:35:18 | 山を彫る

 昔、5月のザイテングラードで怖い思いをしているので、ゴールデンウィークに蝶ヶ岳登山を誘われた時は、正直躊躇した。登山コースについて聞いたり調べたりする間に、登山道の大部分が樹林帯の中を行くことが判り、若干気が楽になり連れて行ってもらう決心がついた。1日目は横尾山荘へ入るだけ、3日目は徳沢園から帰るだけとういう余裕のある日程も歳をくった私にはありがたい。
 ゴールデンウィークの最中にもかかわらず車は順調に進んだが、さすがに沢渡の大駐車場は満タンで入れない。係りの案内に従い、少し奥の私設駐車場になんとか納まった。シャトルバスに乗り換え発車すると間もなく釜トンネルを通過する。拡張、舗装され昔の面影はまったく無くビックリ。いかに上高地方面にご無沙汰したかを思い知らされた。
 14:25横尾山荘着。早々に宴会になり明日の登りに備えて力を蓄えた。
 5/4 6:00発。いきなり急登が始まる。40分歩き標高1,800mに達した辺りで槍ヶ岳が見え初め辛い上りが少し慰められた。残雪は厚みを増し傾斜もきつくなる道を、励ましあいながら上ること4時間、樹林帯がようやく終る。穂高連峰をはじめとする北アルプスの核心部が広がっている。一刻も早く頂上に立ちたいのだが、ここからの道が結構長く感じた。好天と好展望に背中を押され10:18頂上着、素晴らしい眺めだった。前穂、奥穂、涸沢岳、北穂、キレット、南岳、中岳、大喰岳、そして北アの盟主槍ヶ岳。峰々を指差しながら思いっきり展望を楽しんだ。
 この時の感動を忘れてはならない想いで原画を起こした。思うは易しく、画にするのはむつかしい。写真をベースにして、大まかに描いた山の輪郭線の中に岩(黒)と残雪(白抜き)を振り分けていくうちに辻褄が合わなくなってしまった。えい、やーでまとめることが私にはできない。割り切りができないので、いつも私の画がチマチマしてしまうのが判っていながら壁を破れず悶々とすることが多い。やむを得ず写真を拡大コピーしたものを原画とした。キャンバスの大きさには決まりがあり、よく使うf6号は410×318である。A3サイズはこれに近い420×297である。これ幸いと大きさをA3とし、高さ方向を115%に拡大して、より高く見せるように工夫したつもりだったが…。摺り上がりを先生に見てもらったところ「写真みたいだね」と一発で見破られてしまった。このひと言は、応えました。
 それ以来、下手でも構わないから原画はシコシコ手描きして作成するように心がけています。見た通り、見えたように表現するなら、何もわざわざ版画にしなくても写真に撮れば良い訳です。大きな反省材料になりました。対象に巡り会った時の感想とか、想いとか、衝撃を切り取って板面に表せるようになりたいものです。

(2009年12月、IK記)

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2007年5月・蝶ヶ岳からの穂高連峰

【2024年10月記】

(2)仙丈ヶ岳で記したようにGWは地元の南アルプスに入ることが多かったが、2007年は北アルプス・蝶ヶ岳にと目先を変えた。こんな感想を会報に残していた。

実に30年振りの上高地入りだった。当時、電車、バスを乗り継いで上高地までで一日を要した(泊ったのは明神か?)が、交通の便は良くなって横尾まで余裕で到着。綺麗になった建物、大勢の観光客やキャンパーには驚いた。横尾からの尾根は、一本調子の急登だが、稜線に出た瞬間に広がる雪の穂高連峰の眺望は、圧巻の一言。離れ難い山頂だった。その見事な眺望と、美味しい食事(殊に徳沢園はステーキ!)、一本3000円のワインでの酒宴といい、全く豪華なゴールデンウィーク山行でした。
最初は南アルプスの三伏峠~小河内岳の予定で、山行を呼び掛けたが、参集したメンバーの人数、状況など勘案しながら二転三転しての本計画だった。結果、身の丈に合い(各々の努力や頑張りがあったのは無論のことだが)、かつ全員大満足で快心の山行となった。

ちなみにIK氏のこの画は、今でも私の仕事デスクの前の壁に掲げられている。

穂高をバックに肩を組むIK氏と私


山を彫る(4)かもしかの遊歩道

2024-10-17 06:44:00 | 山を彫る

 今回の画は、SHC創立10周年記念展示会に出品したので、多くの方が目にされていると思う。けれども、画の中に仕込んだ2、3のいたずらに気がついた方は意外に少なかった。
 10/16バスは紅葉がボチボチ始まった甲斐路を走り信濃路へ。野辺山を経て川上村に入った。回りはレタス畑で埋め尽くされ、収穫の順番を待っていた。畑を突っ切った山裾に今日の宿「岩根山荘」がある。一旦、部屋に荷物を置き、もう一度準備をし直して散策に向かった。ここ金峰山の麓、廻り目平は花崗岩が所々に露出していて、変化に富んだ道が多くある。まず屋根岩に向かう。最初は苦も無く高度を稼ぐが上るにしたがって、梯子や岩の狭間を通るヤバイ所が増えてくる。屋根岩の上に立つには、チョッとした勇気が要る。飛び越えるには広過ぎるし、歩いて渡ろうとすると花崗岩が風化して細かくなった砂利に乗ってしまい滑り易い。木の枝を頼りに、なんとかそこを横切れば大きな岩の頂部に出る。恐る恐る前へ進むと廻り目平が真下に広がっていた。松の緑の中に落葉松やブナ、ナラの黄葉が割り込みいいバランスを保っている。自然の妙技に拍手を送りたい気分だ。右下に目を転ずれば、居ました、居ました。クライマーが岩にへばり付いて、少しずつ上を目指している。眺めを十二分に楽しみ、これから行く先を確かめ、来た道を最大限の注意を払って渡り返した。
 小さな沢を横切り、回り込むようにして「かもしか遊歩道」に入った。切り立つ岩をトラバースするように、その道は続いている。それぞれ「仏岩」「最高ルーフ」「おとの様」「おひめ様」と名前が付けられているようだが、それらの岩の裾を歩いているらしいので、大きさは見当がつかない。岩をよじ登り、またある時は岩を削った廊下状の道を、体を擦りながらトラバースして行った。Nさんが「これじゃぁ『かもしか遊歩道』じゃぁなくて『かもしかの遊歩道』だよ」と嘆いた。これ、いただき。画の題名は「かもしか〈の〉遊歩道」にした。これが、ひとつ目。ふたつ目は、画の右側、岩の上に、カモシカを入れたことだ。細い線で彫ってあるので判り難いが、カモシカがSHCの行列を、じーっと見下ろしている。
 以前からやってみたかったことにも挑戦した。同じ版で紅葉(秋)と新緑(春)を摺った。色を変えるだけで雰囲気がガラッと変わってしまうことを確かめることができ、快感だった。会友の中に、紅葉の岩の中の草が緑では、おかしい。と言ってくれる方が居られました。岩に生えている羊歯とか草類は常緑だと思うのですが。画としてのバランスをとるか、現実をとるか、皆さんなら、どうされますか?
 尚、この画は額装したまま、差し上げます。どなたか納屋でもセカンドハウスでも飾っていただける方が居られましたらお申し出ください。

(2009年10月、IK記)

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金峰山稜線を行く(2004年10月17日)

瑞牆山を望む

【2024年10月記】

この画の基になった2004年10月の金峰山には、珍しく私は同行していない。夏に骨折した足親指が、まだ山を歩けるまでには快癒していなかったためだろう。だから、廻り目平「カモシカ遊歩道」がどんな道で、どんな紅葉が見られたのか分からないが、同行者の「印刷の案内図を見て、幼児連れ親子の散策路を予想し、明日の足慣らしと考えたが道は厳しかった。灰色の花崗岩、清流と唐沢の滝、もみじに感嘆した。」という感想を見ると、なかなかスリルのある山道だったようだ。岩崖と紅葉という題材と思しき写真を手元のストックに探したが、ついぞ見つからなかった。
IK氏の試みた、もみじの刷り色を変えた画を並べて見るのは面白い。葉のそれぞれの色での濃淡も良いなと思った。


山を彫る(3)縞枯山荘

2024-10-13 12:04:54 | 山を彫る

 北八へ行くなら高見石に限るという思い込みがあった。山の師匠のひとり、Mさんに連れられて冬の北八へ入って以来、ここの雰囲気が気に入り度々訪れた。単独だったり、二人だったり、夏には息子と行ったこともある。雰囲気が良いこともさることながら、アプローチが短い点が良かった。バスの終点渋ノ湯から1時間40分で高見石小屋に届く。賽の河原で吹かれたこともあるが、細竹に巻かれた赤布を頼りに行けば、なんとか小屋にたどり着く。ずーっと、そう思い込んでいたのだが、'00年頃から状況が変わった。バスをチャーターすれば、八ヶ岳や北八の一部は、日帰りが可能で魅力あるコースが沢山あることが判ってきて、SHCの目的地として採り上げられるようになった。'00年編笠山、'02年麦草峠周辺、間を縫ってグループ山行も多くある。そして集大成は'03/8集中山行となる。
 このように八ヶ岳が踏まれてくると、当然情報も集まってくる。'05/1の北八グループ山行は縞枯山荘~北横岳~茶臼岳であった。冬山初心者も混じった13人の大部隊だったが案ずることはない。横岳ピタラスロープウェイを利用したからだ。僅か10分で標高2,233mの山上駅に着く。当日は風が強く、我々が乗ったゴンドラをもって運転中止になったことは、降りてから知った。装備を整えて出発。僅か15分で今日の宿泊小屋「縞枯山荘」に着いた。受付を済ませ、今夜の寝る場所を確かめてから、仕度をし直して出発した。目指すは北横岳。坪庭を通過すると急登になるが、樹林帯の中をジグザグに道が切られているので、比較的登り易い。北横岳ヒュッテを過ぎてからが本格的な上りになる。我々の班は若干遅れたが全員無事登頂。強風と視界不良で山頂には長居はできず、記念写真を撮っただけで、もと来た道を引き返した。それでも一応成し遂げた感を抱いて山荘に戻ったところを絵にした。ちょうどA夫妻が入口に差し掛かったところを写真に収めたので、原画の中にもしっかり入れた。一般的に冬景色を彫る時は悩むことが少ない。色彩が乏しいから。雪は白で済み、陰は黒、これに青と灰色の版を用意すれば大概の冬景色は描ける。悦ちゃんのザックは、後で紅をさした。
 白状してしまえば、この画にはお手本がある。縞枯山荘の談話室の壁に、おそらくプロの仕業と睨んでいるが、山荘を昼と夜の姿に彫ったものが掲げられている。非売品と言うことだったので、やむなく池田版を起こしたというのが真相。その作品には比べようもないが、私の中で縞枯山荘が高見石小屋同様、身近な存在になったのは確かである。この図柄は自分でも気に入って、翌年の賀状にしたので、手にされた方も多いと思う。
 この絵には、後日談がある。'06年、渋ノ湯~青苔荘~縞枯山のとき、自作の額に入れてこの画を持参した。F6号とはいえ、余白を取って額装すれば横60cm、縦50cmとなり、運搬が難しい。背負子[しょいこ]にミレーのザックと共に括りつけ持って行った。小屋番は直ぐ最寄りの柱に、もたれかけて置いてくれたが、その後どうなっていることやら。'08/8北八合宿の時、一休みしながら画の存在を確かめたかったのだが、雨の中の歩行となり、私を含め皆ロープウェイ駅に急いで向かっていたため果たせなかった。次に訪れることが待ち遠しいし、楽しみである。

(2009年8月、IK記)

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2005年1月の縞枯山荘

しらびその森を行くIK氏

【2024年10月記】

それまで冬は、安倍奥や高遠の少年自然の家を使ってXCスキーなどで遊んでいたが、2000年の正月から北八ツに通うようになった。殊に冬季には山小屋でまったりと飲み交わす時間が嬉しく、営業している小屋が多くアクセスも容易な北八ツは有り難かった。この時も宿泊は縞枯山荘でIK氏も一緒だった。版画となった2005年の山行は14名の大パーティーで、これが会の冬季合宿のきっかけとなったものだ。
IK氏が気にされていたその後の画の存在であるが、2012年1月、久しぶりに縞枯山荘に泊り、お手本となった2枚の「プロの画」と並んで小屋の談話室の壁に掲げられてあるのをIK氏と共にしっかりと確認した。

小屋に掲げられたIK氏の画(左)