山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

慶長の仮東海道を歩く

2024-08-15 08:48:52 | エッセイ

 4月の「緊急事態宣言」以降の約2カ月間、家からの発着を基本に歩いていた。体(てい)の良い散歩である。幸いに家から5分も歩けば千葉山から派生する尾根の端っこに取り付くから、使える時間やその日の気分によって自在にコースは変えられ、飽きることはなかった。この間、近隣の里山でも結構な賑わいを見せていた所があったようだが、尾川丁仏参道をはじめ散歩中の山道で人と行き交うことは稀だった。お蔭で少し気になっていた所の納得も幾つかでき、また付随して地域の地誌的、歴史的な事柄への興味も満たすことができた。『やまびこ』277号で紹介した「慶長の仮東海道」もその一つだった。その内、大津野田前の長谷川代官所跡から東光寺村を抜ける「東光寺道」を歩こうかなと6月の例会で呟いたところ、5人の方々が当日の朝、偶然にも顔を見せて下さった。今回の散歩のテーマは、「ブラタモリ」的な歩く愉しみ方を見つけたいと思ったのだが、どうだったろうか。

七兵衛原の一里塚跡

 「慶長の仮東海道」の経緯(いきさつ)と全体の概要は277号を参照して頂くこととして、今回は現二中裏山にあたる七兵衛原から歩き出した。現在は茶畑となっていて尾根の北側が国道一号線(旧バイパス)によって分断されているが、仮東海道は旗指・法幢寺東から入る小さな谷(金子沢)を上がり、国道の切通し辺りから七兵衛原に至っていたと思われる(国道に架かる歩道橋の地点)。歩道橋から七兵衛原の茶畑に出て最高地点(117m)の東側に塚状に盛られた所があり、仮東海道の一里塚跡と考えられている。正規の旧東海道では本通七丁目に一里塚跡の碑が建てられているが、七兵衛原の塚は仮東海道中でこれに相当することになる。七兵衛原から二中体育館裏に下りる道は結構な傾斜で、両側から深くえぐれた切通し状となっている。

長谷川代官所を中心とした元・元島田地区

 平地に下り、附島中、島四小北側の山裾を元島田方向に東進する。この辺りは片瀬といって、今は小さな用水路(伊太川)が流れているが、往時は大井川の最も北側の流れがここまで達していた。この裏山(143.2m四等三角点「野田」)の山頂は「大井の段」といって、慶長9(1604)年の洪水の際に大井大明神(大井神社)の祠を一時避難させた所。私が小学生の頃は、この小さな丘陵を越えて鵜田沢の池(現中央公園)までは遊びのテリトリーだったし、中学生の頃には、できたばかりの中央体育館(現ローズアリーナの前身)へ部活動で山を越えて通ったものだが、いったい野田山のどこを通ったのか今は思い出せない。

鵜田寺の薬師如来坐像

 元島田の北幼稚園の建つ辺りが、島田宿の代官所が現柳町(御陣屋稲荷)に移る(1616年)以前にあった場所。ここから仮東海道は、南ルートの「金谷沢道」と北ルートの「東光寺道」に分かれる。因みに御陣屋稲荷は、この野田代官所の屋敷神であった稲荷社を一緒に遷座したもの。野田の屋敷跡には祠だけが残され、地元の有志家が祀ってきたが、昭和18年、野田山南東の中腹に西野田の氏神「三﨑(みさき)稲荷」として遷座し現在に至っている。この「三﨑」地名は、突き出た場所「岬」地形から来たと考えられ、ここが大井川流れの畔であったことが窺われる。また、少し北に行った鵜田寺(野田薬師堂)は、758年創建と伝えられる島田で最も古い寺であるが、ここに安置されている薬師如来像(県指定文化財)は、日本霊異記によると、ある僧が鵜田の里から大井川を渡る際、河原の下から「我をとれ」という声が聞こえたために穴を掘ってみると薬師如来像が出てきたと記されている。この伝承も、この地の近くに大井川の流れがあったことと共に、古くは大津道が街道の一部として機能していたことを窺わせる。推定される天正の瀬替え(1590年)以前の中世東海道(鎌倉道)は、大津道を南下し現島田球場付近から瀬替え以後は大井川の河原となってしまった牧之原台地麓の鎌塚宿に通じていたらしい。仮東海道は、このルートの一部を利用したわけだ。

大谷の峠、ガードレールの下に仮東海道の道形が続く

 代官所から北上し東光寺道を辿る。供方(ともかた)橋(友形の渡し)を渡り、上野田から大谷を上り東光寺との峠となるT字路に出る。左に林道を行けば大草山から双子山へと続く大津東側の尾根、東光寺の集落には右へと下っていく。この峠の標高は104mで、白岩寺山から続く尾根の中で最も低い地点を越えている。かつての道は、T字路突き当たりのガードレールの間を下りていくもので道形も僅かに残っているが、今回は車道を東光寺集落へ下った。この道は今も国一の渋滞や事故の際には、東光寺インターからの迂回路として利用されている。東光寺公会堂より北にトトリ沢の谷に向かい入っていく。トトリ沢の入口右手には、七兵衛原と同様に一里塚跡が残っている。こちらは旧東海道では一里山(上青島)のそれに対応するものだろう。一里は約4キロメートルであるが、この日歩いた七兵衛原からトトリ沢まではGPSの計測では約4.5キロ、見学、休憩を含め約90分を要した。寄り道をしたり、全く完全な仮東海道のトレースではないだろうし、一里塚自体が正確に一里毎に設置されたものでもないだろうから、こんなものか。一里塚の全国的な整備を徳川家康が命じたのは慶長9年2月(1604年3月)で、実にその年秋の大井川氾濫によって、島田区間は仮東海道への移行を余儀なくされたことになる。因みに旧東海道では島田一里塚(七丁目)が江戸から52番目で約208キロということになるから、これは現在の国道一号線での距離とほぼ一致する。

トトリ沢入口の一里塚跡

 しばらくトトリ沢沿いに進んだ後、右手の尾根に向かって急傾斜の道を上がっていく。この道もまた七兵衛原の下りと同様に深い切通しが見られる。茶畑となった尾根に出しばらくして島田・藤枝市境となる変形十字路の清水(きよみず)峠(195m)に到着した。藤枝ライオンズクラブ設置の「双子山⇔駿河台」のハイキング道標と共に、「右 山道・左 東光寺・大津へ至る」と記された石の道標(いつのものかは不明)がひっそりと佇んでいた。これは谷稲葉側から登ってきての標であるから、反対側には東光寺側からのものもあったかもしれないが見つけることはできなかった。峠には茶屋も出て、仮東海道が廃された後も東光寺、大津方面からの清水寺詣の参道として賑わったらしい。また、正規の東海道の裏道としての利用や、生活道としての利用もあったことだろう。こうした往来を示すのは、例えば島田宿一丁目の町屋「稲葉屋」(造酒屋)桑原家は、明暦の頃(1655~57)、稲葉村から移住してきたと伝えられている。ここから谷稲葉南谷に下り、堀之内、音羽町、茶町を通って藤枝宿に合わさるのが東光寺道ということになる。千歳までは図上で残り約5.7キロ、一時間半も要せば充分着くだろうが、今回の散策は清水峠までとした。

清水峠の道標

 実際に東光寺道を歩いてみて感じることは、大津、東光寺、谷稲葉間の峠越えの意外な程の近さである。この東光寺道のルート取りの巧みさが、そのまま現国道一号線のルートとして活かされているわけである。また、地形図をいろいろと眺めている内に、大井川谷口としてある島田が大井川の土砂堆積によって標高が高くなっていること、さらに志太平野の広がりという点にも興味を惹かれたが、これは機会を改めることとする。仮東海道は、南ルートの金谷沢道、七兵衛原から西へ大鳥までのルート、さらに大井川を渡河し菊川宿までのルートと、まだ散策を楽しめそうだ。涼しくなってきたらこのシリーズを再開していきたいと思う。

(2020年7月記)



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