海の日連休中日の富士宮口五合目は、これから山頂を目指す人たち、下りてきた人たちで賑わっていた。息子と二人、そんな賑わいから外れ宝永火口へと向かう水平道を歩き出した。山頂ではなく、須山口登山道を水ヶ塚へ下るつもりなのだ。登りでなくとも、ダウン症の障害を持つ息子が凸凹の坂道を歩くのが苦手なことは充分承知しているから、標準コースタイム3時間に対して倍の6時間を見込んでいた。
宝永第二火口縁に出ると、山頂には雲が掛かっているものの、青空に宝永山や火口の荒々しい壁が映え、普段の里山とは違う高山らしい雰囲気に、息子も満足そうに写真に収まった。第三火口のザレた斜面にやや手こずりながらも時間を掛けて下り、火口底の御殿庭上で弁当を食べた。ここまでは想定の範囲に収まっていたが、三合目・御殿庭中を過ぎた辺りから亀にも及ばぬ歩みとなってしまった。数メートル歩いては停まってしまう。付く距離を変えても、押しても引っ張っても、脅してもすかしても、時折すれ違う登山者の励ましを受けてもさっぱり進まない。焦り、苛立ち、罵りの言葉を浴びせながら、半ば強引に引きずるようにして、それでも200メートルぐらいは下っただろうか、御殿庭下を過ぎた頃には夕暮れが迫り、ここに至って最終のバスにも到底間に合わないことを覚悟した。
息子に与えるだけの残りの食べ物と水も何とか明日までもつだろう。ツェルトの用意もあるし、幸い雨や風の心配もなさそうだった。今日中には帰宅できないことを携帯電話で妻に伝えた。少し動揺したようだったが、迷ったわけではなく現在地は正確に把握していること、一晩過せる用意はあることを伝え、過度な心配は無用と話した。妻は水ヶ塚まで行くと言うので任せた。それでもこの調子では明日、水ヶ塚に着くのが何時になるのか見当もつかない、できるかぎり下っておきたいと思った。程なく日は沈み針葉樹の森は闇に包まれた。須山口登山道は四季を問わず幾度も歩いてきた道だから、状態はよく分かっている。森の中でもヘッドランプがあれば歩ける自信はあったが、息子を連れてとなると小さな躓きも決定的な失策になりかねず慎重を要した。コンパスを合せ、周りを照らし地形とコースサインの有無を確認した後、10メートルほど先に目標を定め、自分の足元を照らしながら数歩進み、振り返ってスリングで確保した息子の足元を照らして数歩進ませる。傾斜の強い場所は体を密着させて下ろした。そんな尺取虫のような歩みの繰り返しが、却って心のリズムに合ったのか、息子は闇にパニックになることもなかった。水ヶ塚に着いた妻から電話が入った。駐車場の警備員が心配して救助要請を尋ねたが「父さんがいるから大丈夫」と話したらしい。その後も何度か電話をよこし、私は今いる位置と息子の状態を伝え、息子にも妻の声を聞かせた。水ヶ塚に下るまでずっと携帯が繋がることは確信でき、いよいよとなれば連絡ができる状況は心強かった。
1750メートル辺りまで来て、五合目を発ってから12時間以上が過ぎていた。できれば倒木帯辺りまで下りたかったが、息子が動けるのも限界だろうし、加えてさすがに私自身も疲れていた。二人横になれる平らを見つけ、息子に私の防寒着も与え、ツェルトに包んだ。残りのパンを食べ横になると、息子はすぐに鼾をかきながら眠ってしまった。妻にビバークに入ること、明るくなると同時に動き出すことを伝え、私もカッパとビバークシートを被り息子の横で体を休めた。鹿の警戒する鳴き声を聞きながらウツラウツラとする内に、やがて周りは鳥の囀りに変わり辺りが白んできた。翌朝四時過ぎ息子を起こした。ぐっすりと眠れたようで、歩くのに支障はなさそうだった。相変わらずの数歩進んで立ち止るの繰り返しだが、それでも少しずつ下っていった。一合五尺の手前で迎えに上がってきた妻と合流し、持参してくれた食べ物と飲料を口にすると、心無し息子にも安堵の気配が窺えた。さらに2時間余りかけてようやく水ヶ塚にたどり着いた。
所詮、千メートル近い下りは息子には無理筋の計画で、ルート選定の甘さを思い知った。いつまで、どこまで、どういう方法で一緒に歩けるだろうかを自問するのだが、帰ってからの救いには、あの日の写真を眺めながら一人ニヤニヤとしている息子の姿がある。
(2018年11月記)
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