吉原・左富士 江戸より14番目の宿
前宿の「原・朝之富士」が、ドンと枠からはみ出すほど大きく描かれているのに対し、これはまた小さく遥か彼方という感じである。この辺が変幻自在の対象への距離感で面白い。しかし、手前に描かれている馬上の篭に乗った三人は子供のように見えるが、真ん中の人物の視点はしっかりと富士山を捉えている。
さて、この一行は江戸へ下っているのか、京へ上っているのだろうか。「左富士」と題されているのは、本来ならば右手に見えるはずの富士が左に見えるからだと、そう解釈すれば西に向かっていることになる。西進していた街道が一時、北へ向かうような地点が、東海道の吉原宿辺りでどこになるのか私には不明だが、例えば川の流れが蛇行し南北逆だったり、太陽が海に沈んだりすると、方角の錯覚を起こしたりすることがある。おそらく初めての旅なのであろう馬上の子供は、その不思議さを楽しんでいるようにも思える。さらに、右端に描かれた山はおそらく愛鷹山なのであろうが、それを無理やりに箱根だと解釈すると、旅立ってきた江戸への想いも感じられる。
と、ここまで書いて、免許更新の際に貰う静岡県のドライブマップをふと手にしたら、表紙が同じ「東海道五十三次・吉原」だった。こちらの絵をよく見ると、東海道の松並木は先の左端で再び曲がりずっと右側へと続いているようにも見える。なんだ、東進しているのか……? 前述の感想は、思い込みに過ぎなかったかもしれないが、手前勝手な解釈も鑑賞なら許されるだろう。
三月の定例山行は「沼津アルプス」。車中から吉原辺りでの富士の印象をと期待していたが生憎の天気で富士は見えないのだ。
(2003年4月記)
【2024年8月追記】
『ウィキペディア』の「吉原宿」の項には次のように記されている。
「吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にあった(元吉原)が、1639年(寛永16年)の高潮により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転した(中吉原、現在の八代町付近)。しかし1680年(延宝8年)8月6日の高潮により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町(吉原商店街)に移転した。このため原宿 - 吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、“左富士”と呼ばれる景勝地となった。往時は広重の絵にあるような松並木であったが、現在は1本の松の木が残るのみである。」
名勝 左富士の碑
現・富士市依田橋町の県道171号の交差点前後は、道が一時的に北北東方向となっていて、交差点には「名勝 左富士」の碑が、少し南には左富士神社(元は悪王子社で改称されたのは明治期)がある。同地点からのパノラマ展望図を作成すると、富士山・剣ヶ峰は6.5°の方位、神社前から左富士バス停までの街道の方位は約23°となるから、たしかに「左富士」の景観が生み出されることになる。また、愛鷹山塊・越前岳は43度、同・愛鷹山は64度の方向に在ることから、「吉原・左富士」図の中で右手にあるのは、“残念ながら”箱根ではなく愛鷹山塊に間違いないだろう。
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