岡部・宇津之山 江戸より21番目の宿
駿府を立ち西へ向かうと、最初に越える峠が宇津ノ谷峠(宇津ノ山)だ。この道は、豊臣秀吉の時代辺りから使われ始めた江戸期東海道であるが、その東の谷には在原業平の「駿河なる宇津の山べのうつつにも 夢にも人にもあはぬなりけり」の歌で有名な蔦の細道、さらに下れば焼津の花沢の里へ抜ける日本坂峠には古代東海道が通っていたから、峠越えの道は時代と共に随分と変遷してきたのだ。宇津ノ谷峠に現存する明治、昭和、平成の三つのトンネルは有名で、近代以降もルートを変えながら大動脈東海道の増え続ける需要に対応してきた。
この山域は藤枝の最北端清笹峠から発し、大崩海岸で駿河湾に没する、いわば安倍川水系と大井川水系とを分けている山並である。静岡で大雨でもこちら側は大したことはないなど、標高500メートルにも満たない山並ではあるが、はっきりと自然の境界線にもなっているのだ。我が志太側から見た時、ランドマークのような存在が焼津の高草山である。高校時代に「高草山に雪が降ると春が来る」という言葉を聞いたことがあるが、近年ではとんと経験しない。
(2003年11月記)
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宇津ノ谷峠の変遷
宇津ノ谷峠の一席。
鈴木 雅春
皆さんは、宇津ノ谷越えと問われれば、何と答えますか? 建設省が発行した「東海道宇津ノ谷峠」によれば、東西交通の街道は、奈良時代の万葉の官道日本坂、平安・鎌倉・室町期の蔦の細道、江戸時代の旧東海道と変遷したとある。更に交通量の変化に伴い、東海道の鞠子宿と岡部宿を挟むこの難所の通過には、明治、大正、昭和、平成のトンネルが登場する。宇津ノ谷の地名は、旧東海道と蔦の細道のある地域を指し、また宇津ノ谷峠と呼ばれる場所は、岡部の谷川へ通じる峠、旧東海道の峠と蔦の細道越えの峠の3か所にある。静岡近郊にある東海道の有名な峠と言えば、小夜の中山、薩埵峠、そしてこの宇津ノ谷峠。これらの峠には、道祖神や地蔵信仰とともに、境にまつわる伝説や習俗が古代から育まれてきた。
広重「行書東海道 岡部 宇津の山之図」
宇津ノ谷名物は軒先に並ぶ人食鬼供養の厄除け十団子
宇津ノ谷峠は、鬼と地蔵が登場する十団子(とだんご)の物語として、また在原業平が都落ちする感慨を詠んだ場所として名を馳せてきた。絵画から文学まで文化の缶詰である宇津ノ谷峠は、歌舞伎では陰惨な人殺しの舞台となる。前述の「東海道宇津ノ谷峠」本の中で、山川静夫が黙阿弥の名作「蔦紅葉宇津谷峠」の解説文を執筆している。ただ私自身、残念ながら歌舞伎には縁もなく、又、やや敷居が高く鑑賞しようという気になれない。
今年、講談「慶安太平記」の第7話「宇津谷峠」を聴く機会があった。歌舞伎では長い上演時間の物語である。しかし講談では題名とは異なり、宇津谷峠が登場する場面は、暗闇の峠道と、人が殺される情景が、ほんの7、8分程度語られるにすぎない。だが緊迫感ある語り口の講談を聴くと、無性に宇津ノ谷峠に興味が搔き立てられる。
「浅草のマツノジョウが最高だった」知人からそんな言葉を言われ、「そんなに鰻がうまかったのか」と問い返したのは何年前だっただろうか。コロナ禍の巣ごもり生活の中、松之丞改め天才講談師神田伯山の連続物の講談、YouTubeやラジオに今はまっている。
慶安太平記は、由井正雪が幕府転覆を謀る物語で、落語でも、歌舞伎でも扱われている。神田派の講談では19話の連続物となるが、残念ながら通して聴いたことはない。講談の解説書を読むと、由井正雪の悪事の企みと金をめぐる物語が繰り返される内容のようだ。コロナ収束の折には、是非連続物の演目会場に通い、生の講談を聴きたいと狙っている。
講談を聴くようになって、初めて理解できたことは、大利根月夜の平手造酒、講談・落語との関係。明治から昭和初期まで落語を凌ぐ人気を呈した講談話は、多くの庶民の常識だったようだ。しかし、昭和20年代には「講談師ただいま24人」と題する本が出版される。絶滅危惧職と言われ、講談師を人間国宝と崇め、その文化を保護しなければとまで言われる。そんな中で彗星のように現れた待望の男性講釈師が皆様ご存じの伯山である。宇津ノ谷越えの道が様々な変遷を経てきたように、1983年生まれの真打神田伯山が、年齢を重ね、大成し、老成するごとに、語ってくれるであろう講談「宇津谷峠」の演目を、今後、聴き重ねていければと、心から願っている。「講談の話、これからが本当に面白いところになるのでございますが、何と何とお時間となりました。又の機会にお話しするとして、本日はこれにて、書き終わりといたします。パンパン」
(SHC会報2021年7月号『やまびこ』№291「巻頭エッセー」より)
講談「慶安太平記〜宇津谷峠」▼
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