霧ヶ峰、ここは私にとって不愉快な、というほどではないが愉快ではない思い出のある場所だった。昭和34年、日本楽器(現ヤマハ)に入社、設計課に配属された。当然18才の私らが最年少なのだが、ほとんどが20才周辺の若者で、当時流行っていた青年活動も盛んに行われていた。
ようやく職場に慣れてきた8月盆休に、白樺湖へキャンプに行くことになった。入社後半年も経っていない身では、登山用具などあるはずもなく、リュックザックは親戚から借りて間に合わせた。靴も、スニーカーに毛の生えた程度のものを使うしか思い至らなかった。生憎、山行の直前に台風が襲来し、少なからぬ被害が出た。中央線が不通になり、なんとか列車が動いていた飯田線を利用して長野に向かった。飯田線を全線乗った人は少ないと思うが、とにかく長い。距離的には短いのだが、スピードが遅く、豊橋から辰野までの所要時間が長いのだ。間もなく座ることができるようになったが、難儀していた子連れをみて席を譲った。それから辰野まで何時間かかったのだろう、立ちっぱなしで通した。もとよりローカル線のこと、客の乗降が結構あり、空席もでたのだが、意固地になって立っていた。山のことは、ほとんど忘れたが、飯田線を立ちっぱなしで居たことだけは、記憶に強く残る。
二つ目は、春休みに女神湖に行った、いや、行こうとしたことである。子供の春休みに合わせて、女神湖畔にあった会社の契約保養所を予約した。家族5人がブルーバードに乗り、当時は有料の精進湖道路を通って、一路女神湖を目指す。中央道に入ると降雪に見舞われた。雪は次第にひどくなり、とうとう長坂ICで閉鎖により先へ進めなくなってしまった。ICを降りて公衆電話で蓼科荘にキャンセルを伝えたが、宿の周りは雪が深く、車を乗り入れることが困難になっているとのことで、了解してくれた。宿泊を楽しみにしていた子供をなだめるのに苦労したが、その日の夜遅く家に戻った。
二つの愉快でない出来事のせいではないだろうが、霧ヶ峰からは、なんとなく足が遠のいていた。
'05/6ようやく機が熟し、霧ヶ峰に行けることになった。本番は、欠席になることが判っていたので、下見に参加した。この山の周辺は、昔からスキー、スケートのゲレンデとして開発が繰り返されていたため、山登りは我々レベルでも容易だった。私にとって日本百名山の26座目となった車山を越えて八島湿原に向かう。Nhさんと私は車山湿原を迂回し、車の回送のため八島湿原入口に先回りした。軽装の観光客を後にして、木道を進んだところで目を見張った。湿原全体が見渡せ、その超明るい景観に歓声を挙げてしまった。過去の苦い思い出を吹き飛ばすのに、充分な展開だった。湿原の中央に雪山がチョコンと出ているところが特に面白い。これは画になると、直感し写真を撮った、が‥‥。
版画にするには、画が複雑すぎた。デフォルメする才を持ち合わせないこともあり、表したかったのは原っぱなのか、雪山か、散在する樹木か、焦点がボケてしまった。でも、この明るい景色には、また会いに行きたい。
「蛇足」:本番の日、「望月青年の家」で伝説の「油虫踊り」に参加できなかったことは、今も悔やまれる。
(2010年6月、IK記)
* * *
八島ヶ原湿原
車山のニッコウキスゲ
望月少年自然の家でのキャンプファイヤー
【2024年10月記】
この画の元になった2005年6月の蓼科山・霧ヶ峰の下見には、いつものごとく私も同行しているのだが、この時の写真は見つけることができなかった。代わりに「蛇足」でIKさんが触れている本番(2005年7月)の写真を上げてみた。こんな感想を残していた。
「今回は特にSHCらしい雰囲気の良い山行だった、と私は感じました。それは、蓼科山に登った、ニッコウキスゲを見たということだけでなく、SHCとしての一体感、会員同士の親近感を一層増すことができたからでした。これは何と言っても、キャンプファイヤーを演出してくれたOh君の手柄によるところ大でした。山はもちろん素晴しく、感動も多い。それに併せて、山を通じ人と触れ合い交感できることが、なお喜びを倍加させると思うのです。私はこの世でたった一人であるとすれば、おそらく山に登ることはないと思っています。」(2005年8月、会報『やまびこ』No.101)
本年9月、会山行で再び望月少年自然の家に泊った(本ブログ『事始めとなった八ヶ岳』)が、あの時の殊勲者Ohは既に鬼籍に入り、幻の「油虫」が再現されることはもちろん無かった。IKさんの「八島湿原」(八島ヶ原湿原)の画の明るさは、会のまだ青年期だった頃の活力に満ちた心持ちを映しているようにも感じた。
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