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熊本市北区植木町にある田原坂。熊本城の政府拠点へ救援に向かう明治政府の官軍と、北上する鹿児島の薩摩(さつま)軍が激突します。大砲をひいて通れる道が田原坂だけでしたから、守るにも攻めるにも要所でした。徴兵制★(ちょうへいせい)による近代軍隊の官軍とサムライだった士族中心の薩軍、どちらも引けません。あまりに激しい銃撃戦に弾が不足し現地で弾の再利用までしたそうです。近代兵器といえど補給が続かなければ有利とは言いきれない。 時代は大きく動きます
日本最後の内戦跡、田原坂。最近資料館が新しくなってますね
>1873年(明治6年)、政府内で朝鮮に対する政策をめぐり対立が起きます。この政策の最終決定は、話し合いによる合議ではなく、大久保利通★らの工作によって決着しました。この決着に反発して政府を去ったのが、西郷隆盛★と、土佐藩出身の板垣退助★です。
>板垣は政府を批判して、1874年、民撰議院設立の建白書★を政府に提出します。政府の実権が薩摩・長州など一部の藩出身の官僚に握られていることを批判し、国民の声を反映する民撰議院、すなわち選挙による国会を開設するべきだと訴(うった)えました。この建白書は新聞に掲載されて大きな反響を呼び、国会開設を求める動きが広まりました。これが自由民権運動★の始まりです。
>1874年、板垣は故郷の高知市で政治結社「立志社」を設立します。板垣は、学校を作ることで、「自由」と「権利」という考え方を民衆に教えます。民権運動の担い手である民権派は増え続け、各地に政治的結社が結成されます。1875年には全国的な連合組織「愛国社」が創立されました。
>一方、「明治6年の政変」で政府を去った西郷隆盛は、武力による反乱を起こします。それまでの特権を奪われた士族たちは、政府に対する不満を募(つの)らせていました。しかしこの西南戦争★で、西郷たちは敗(やぶ)れます。武力では政府に勝てないと考えた士族たちの反政府運動は、言論による自由民権運動へと変わっていきます。
NHK高校講座 | 日本史 | 第27回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展 自由民権運動 - ...(パソコン向け)
政治の実権をにぎる政権による歴史は大きな枠組みをつくります。外国列強に対抗しようとしていた明治政府は富国強兵★の近代化を進めていました。これは政府による仕組みですから、明治政府を造った薩摩藩や長州藩出身の政治家を中心に決められていきます
国会も選挙も主権在民(国民主権)もまだありません。新政府になり職を失ったひと(それまで給料をもらっていた大半のサムライは一斉解雇です)や不平不満を持つひとびとの声は反映されませんでした。ひとびとは、経済力も武力も圧倒的な政府に抑え込まれる存在でしたから。ひとびとによる身近な歴史は動き出すまで時間がかかります
それでも、地域ごとの共同体があり読み書きが根付いていた地方から身近な歴史も動き始めます。新しい時代を自分たちで創りたい というひとびとの意志も歴史を動かします
荒尾市で生まれた宮崎八郎は、ルソーの「民約論」に感銘(かんめい)を受け民権学校「植木学校」を創立します。西南戦争が起こると「熊本協同隊」として薩軍から参戦します
熊本協同隊は、山鹿の光専寺で人民大集会を開き明治政府が任命した役人を罷免(ひめん)、薩軍とともに山鹿を占領し短期間ながら選挙による住民自治を行いました
玉東町にある正念寺や徳成寺には官軍の野戦病院が置かれます。そこで、官軍薩軍の区別なく治療にあたる地元の人々の姿を見た佐野常民が「博愛社」を創立。その後博愛社は日本赤十字社に発展していきます
自由民権運動★は、その仕組みを大きな枠組みに取り込もうとします。 ひとびとに権利を保証することで、ひとびとの活動すべてが国のチカラとなり、不要な対立も避けられます。協調とは、ただ仲良くするこではありません。たがいの立場を踏まえた上で、目的を共有し折り合いをつけることです。対立と協調はともに、個人が意志を持ち行動するニンゲンのチカラです。その対立と協調の結果、いまのわたしたちの暮らしがあります。その記録が「歴史」です
もしかしたら、政権とひとびとが対立する時代も変わっていくのかもしれません。ボクが子どもだった1970年代、核戦争や公害で(アンゴルモアでもw)世界がなくなっちゃうとちょっとだけ本気で心配してました。いまや国家同士による大きな戦争の危険は激減しました。平和を本気で望むひとびとがいて、国同士も協調したほうがはるかにトクだということが示(しめ)されたからです。ひとびとと政権の意思が一部でも共有されたのだと思います。悪いひとびとも悪い政権もなくなるわけじゃありません。でももし、わたしたちひとびとが学び行動し政権がそれを仕組みにしていけたとしたら、ちょっとマシな世界を残していけるのかもしれませんね。わたしはそう思います
わたしたちはそのために歴史を学んでいくのです(藤田)
おすすめまんが~乙嫁語り
歴史学習のながれをつかめ!|明治維新のまとめかた(1)
明治剣客浪漫譚@熊本フィルムコミッション
日本赤十字社が西南戦争から生まれる|熊本と博愛社
>日本では、1877年の西南戦争で多数の死傷者が出ていたことから、ヨーロッパの赤十字活動を参考(さんこう)に、博愛社(はくあいしゃ)が熊本城のジェーンズ邸(てい)におかれました。現在の第一高校のあるところです。ここには熊本洋学校がありました。
山鹿ホテルの解体はじまる|西南戦争の薩摩軍陣地あと
>豊前街道は南関(なんかん)や久留米(くるめ)にぬける交通の要所(ようしょ)だったために、西南戦争において、薩摩軍(さつまぐん)の陣地(じんち)がこの丘におかれていました。
>せいなんせんそう【西南戦争】
江戸から明治にかわり仕事をうしなった、士族(しぞく)がおこした最大・最後の内乱(ないらん)。明治政府の官軍(かんぐん)と、鹿児島の西郷隆盛(さいごうたかもり)と士族たちの薩摩軍がたたかった。薩摩軍は敗(やぶ)れ、士族たちは国会の開設(かいせつ)をめざす自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)をおこなうようになる。
>「1877年(明治10年);いやな内乱(ないらん)西南戦争」
>山鹿市でも、南関にむかう鍋田(なべた)が激戦地(げきせんち)となりました。山鹿市立博物館には、鉄砲(てっぽう)の弾(たま)のあとがのこる民家(みんか)が展示されています。
熊本市北区植木町にある田原坂。熊本城の政府拠点へ救援に向かう明治政府の官軍と、北上する鹿児島の薩摩(さつま)軍が激突します。大砲をひいて通れる道が田原坂だけでしたから、守るにも攻めるにも要所でした。徴兵制★(ちょうへいせい)による近代軍隊の官軍とサムライだった士族中心の薩軍、どちらも引けません。あまりに激しい銃撃戦に弾が不足し現地で弾の再利用までしたそうです。近代兵器といえど補給が続かなければ有利とは言いきれない。 時代は大きく動きます
日本最後の内戦跡、田原坂。最近資料館が新しくなってますね
>1873年(明治6年)、政府内で朝鮮に対する政策をめぐり対立が起きます。この政策の最終決定は、話し合いによる合議ではなく、大久保利通★らの工作によって決着しました。この決着に反発して政府を去ったのが、西郷隆盛★と、土佐藩出身の板垣退助★です。
>板垣は政府を批判して、1874年、民撰議院設立の建白書★を政府に提出します。政府の実権が薩摩・長州など一部の藩出身の官僚に握られていることを批判し、国民の声を反映する民撰議院、すなわち選挙による国会を開設するべきだと訴(うった)えました。この建白書は新聞に掲載されて大きな反響を呼び、国会開設を求める動きが広まりました。これが自由民権運動★の始まりです。
>1874年、板垣は故郷の高知市で政治結社「立志社」を設立します。板垣は、学校を作ることで、「自由」と「権利」という考え方を民衆に教えます。民権運動の担い手である民権派は増え続け、各地に政治的結社が結成されます。1875年には全国的な連合組織「愛国社」が創立されました。
>一方、「明治6年の政変」で政府を去った西郷隆盛は、武力による反乱を起こします。それまでの特権を奪われた士族たちは、政府に対する不満を募(つの)らせていました。しかしこの西南戦争★で、西郷たちは敗(やぶ)れます。武力では政府に勝てないと考えた士族たちの反政府運動は、言論による自由民権運動へと変わっていきます。
NHK高校講座 | 日本史 | 第27回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展 自由民権運動 - ...(パソコン向け)
政治の実権をにぎる政権による歴史は大きな枠組みをつくります。外国列強に対抗しようとしていた明治政府は富国強兵★の近代化を進めていました。これは政府による仕組みですから、明治政府を造った薩摩藩や長州藩出身の政治家を中心に決められていきます
国会も選挙も主権在民(国民主権)もまだありません。新政府になり職を失ったひと(それまで給料をもらっていた大半のサムライは一斉解雇です)や不平不満を持つひとびとの声は反映されませんでした。ひとびとは、経済力も武力も圧倒的な政府に抑え込まれる存在でしたから。ひとびとによる身近な歴史は動き出すまで時間がかかります
それでも、地域ごとの共同体があり読み書きが根付いていた地方から身近な歴史も動き始めます。新しい時代を自分たちで創りたい というひとびとの意志も歴史を動かします
荒尾市で生まれた宮崎八郎は、ルソーの「民約論」に感銘(かんめい)を受け民権学校「植木学校」を創立します。西南戦争が起こると「熊本協同隊」として薩軍から参戦します
熊本協同隊は、山鹿の光専寺で人民大集会を開き明治政府が任命した役人を罷免(ひめん)、薩軍とともに山鹿を占領し短期間ながら選挙による住民自治を行いました
玉東町にある正念寺や徳成寺には官軍の野戦病院が置かれます。そこで、官軍薩軍の区別なく治療にあたる地元の人々の姿を見た佐野常民が「博愛社」を創立。その後博愛社は日本赤十字社に発展していきます
自由民権運動★は、その仕組みを大きな枠組みに取り込もうとします。 ひとびとに権利を保証することで、ひとびとの活動すべてが国のチカラとなり、不要な対立も避けられます。協調とは、ただ仲良くするこではありません。たがいの立場を踏まえた上で、目的を共有し折り合いをつけることです。対立と協調はともに、個人が意志を持ち行動するニンゲンのチカラです。その対立と協調の結果、いまのわたしたちの暮らしがあります。その記録が「歴史」です
もしかしたら、政権とひとびとが対立する時代も変わっていくのかもしれません。ボクが子どもだった1970年代、核戦争や公害で(アンゴルモアでもw)世界がなくなっちゃうとちょっとだけ本気で心配してました。いまや国家同士による大きな戦争の危険は激減しました。平和を本気で望むひとびとがいて、国同士も協調したほうがはるかにトクだということが示(しめ)されたからです。ひとびとと政権の意思が一部でも共有されたのだと思います。悪いひとびとも悪い政権もなくなるわけじゃありません。でももし、わたしたちひとびとが学び行動し政権がそれを仕組みにしていけたとしたら、ちょっとマシな世界を残していけるのかもしれませんね。わたしはそう思います
わたしたちはそのために歴史を学んでいくのです(藤田)
おすすめまんが~乙嫁語り
歴史学習のながれをつかめ!|明治維新のまとめかた(1)
明治剣客浪漫譚@熊本フィルムコミッション
日本赤十字社が西南戦争から生まれる|熊本と博愛社
>日本では、1877年の西南戦争で多数の死傷者が出ていたことから、ヨーロッパの赤十字活動を参考(さんこう)に、博愛社(はくあいしゃ)が熊本城のジェーンズ邸(てい)におかれました。現在の第一高校のあるところです。ここには熊本洋学校がありました。
山鹿ホテルの解体はじまる|西南戦争の薩摩軍陣地あと
>豊前街道は南関(なんかん)や久留米(くるめ)にぬける交通の要所(ようしょ)だったために、西南戦争において、薩摩軍(さつまぐん)の陣地(じんち)がこの丘におかれていました。
>せいなんせんそう【西南戦争】
江戸から明治にかわり仕事をうしなった、士族(しぞく)がおこした最大・最後の内乱(ないらん)。明治政府の官軍(かんぐん)と、鹿児島の西郷隆盛(さいごうたかもり)と士族たちの薩摩軍がたたかった。薩摩軍は敗(やぶ)れ、士族たちは国会の開設(かいせつ)をめざす自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)をおこなうようになる。
>「1877年(明治10年);いやな内乱(ないらん)西南戦争」
>山鹿市でも、南関にむかう鍋田(なべた)が激戦地(げきせんち)となりました。山鹿市立博物館には、鉄砲(てっぽう)の弾(たま)のあとがのこる民家(みんか)が展示されています。