べんきょうなせん(='ω')

べんきょうは論理で考えるトレーニング
熊本県山鹿市中高大学受験の "あすく" です

半分はひとのせい、半分は自分のせい|しあわせになろうよ

2015年09月19日 | 小学から中学へ
 あなたがうまくいかないとき、半分はひとのせいあとの半分は自分のせいです


 半分という"量"は厳密ではありません。実際はどちらかにかたよっているでしょう。仮に半分以上がひとのせいだとして、それでも自分で変えられることはまだ残ってるよということです。逆に全部自分が悪いんだという思い込みも思春期で卒業しちゃいましょう。

 よのなかは、それほど単純にはできてませんよ


魔女のパン|「夏休みの友」の思い出

 個人がものごとを良い悪いふたつにわけるのは自由です。日々の選択がラクになりますからね。でも、よのなかはそれほど単純じゃありません。たとえば子どもは経験不足、大人はシガラミにとらわれていたりします。おなじひとりのひとでも年齢とともに基準は変わります。

 たくさんのひととひとのあいだでならどうでしょう。基準はひとにより少しずつちがいますし、それぞれ違ったひとたちと折り合いをつけていくのがよのなかです。よのなかにおいて良い悪いの完全な決着はたぶんつきません。大きな部分での合意はできても、あいまいなところがかならず残ります。だから、"おたがいに"我慢したり譲り合ったりしますよね。お母さんに我慢をさせ譲ってももらえていた幼児期から、自分も我慢したり譲ることを覚えていくのが思春期です。そこには一抹(いちまつ)のさびしさがともないます。でもそれは大人になれたということです。

 そんなよのなかでも個人的なしあわせだったら折り合いがつくかもしれません。あきらめたり自分を必要以上にせめるのはやめ、しあわせに生きられる方法をみつけるのならきっとうまくいきます。ヒトの想像力はそのために無限にできているのです。

 自分で変えられることを試しましょうよ

予測して行動せよ|しあわせになろうよ


>幸せには、たぶん教育にも、正解はありません。良いことも悪いことも体験して行動したことすべてが人生をつくります。幸せは自身の人生に納得できるかで決まります。結果はその一部に過ぎません。

「幸せを数えたら、あなたはすぐ幸せになれる」
 ショーペンハウエル(1788-1860・ドイツの哲学者)

「ひと並み」って、なんなんだろう?

 わたしは、いまここで餓死(がし)しなくてもすむことに感謝をします。世界にはお腹をすかせた子どもたちがいまだにいっぱいいますし、日本でもいまの状態になって百年もたちません。また、家を焼かれ家族を殺され怒りに満ちた時代や国を知って学びます。心の準備もできず津波にのまれていった子どもたちと残されたその家族のことも思います。

運がないときだって


 うまくいかないとき、だれが悪いかと考えるのはとりあえず横においておきましょう。たぶんだれかが悪いのです。もしかするとだれにもどうしようもなかったのかもしれません。法や政治や技術が解決してくれるかもしれませんし、してくれないかもしれません。ヒトは生き物としての限界からは逃れられないからです。

 残念なことに悪いひとはいます。悪意を持つひとをゼロにすることはムリでしょう(減らすことはできます)。良い悪いの境い目はあいまいだと言いましたが、良い悪いが"ない"とは考えてません。もし相手が意図(いと)的に悪いことをするひとなら、あなたにそれを変えることは難しい。できるのは避(さ)けることぐらい。ドロボウを捕まえる前にドロボウされにくい環境を考えるほうが先です。もちろんドロボウされるほうが"悪い"わけじゃありません。ドロボウにあわないという結果が早く出てトクなのです。

 もし誤解からなにか困ったことが起きたのなら、時間に解決をまかせるほうがうまくいくかもしれません。わたしが自分の考えをすぐに変えることができないように、相手もすぐには変えられないからです。押してダメなら引いてみな。まわりのひとを介(かい)したり、直接は関係の無い行動で誤解を解いたり試します。友達に相談をしたり顔を合わせたらあいさつだけは欠かさないとかね。正面衝突をしてこじれるより、ずっと早く解決ができると思います。


 あなたが"先に"変わってみましょう

 あなたに先に変わる踏ん切りがつかないとしたらそれは、"悪い"ほうが先に変わるべきだと思ってるからじゃありませんか。そんな決まりがあるとはわたしは思いません。それにほら良い悪いの決着は永遠につきませんよ。もしあなたが先に変わったなら相手も変わる可能性は上がると思います。相手も自分だけ変わらないわけにはいかなくなるからです。相手が自分こそ正しいと信じていれば特に変わる可能性も高くなります。良い悪いの決着がつくまで永遠に続けるのか、結果を優先するのか。どちらも意味はあります。選ぶのはあなた次第です。


 本題です。

 子どもに変わって欲しいとき。本人に悪いことをしている自覚がある場合スパッと怒ったほうがうまくいきます。でも多くの場合、子どもは自分がまちがっていないと信じています(経験不足で勘違いが多いですけど)。だから何度も怒ったところでその効果は長続きしません。だれが悪いのかを考えたところでその効果もあまり期待できません。

 だから、あなたが"先に"変わってみましょう

 子どもにあいさつをさせたいなら大人が声に出してハッキリあいさつしてみせることです。子どもにノートを取らせたいなら大人がノートを取ってみせることです。勉強させたいなら…w(辞書や図鑑を引いてみせるぐらいでも良いんですよ)。

 立派な手本たれと言っているのではありません。いつもカンペキな大人であれとも言ってません。いままでやっていないことを変えてみせる"勇気を示せ"と言いたいのです。子どもは自分だけ変わらないわけにはいかなくなります。子どもが自分こそ正しいと信じていれば変わる可能性がより高くなります。

 試してみましょう。ガミガミ怒り続けるよりずっとうまくいきますから。(塾長)


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