はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

待機児童0作戦とやら

2013年09月08日 | 日記

 横浜では待機児童が0になったという。これはつまり、名目ではないか。ある特定の条件に合致するヒトの子供だけを「待機児童」として定義すると、その定義に合致する児童は、確かに大甘に基準を引き下げた認可保育園の待機リストからは消えるわけだが、実際には保育園保育を諦め、勤労を諦めざるを得ずに専業主婦となったヒトの子供は、未だに多数居るわけだ。


 数字のトリックと条件のゴマカシで、待機児童0が達成されたわけである。


 女性の働く場は少なく、しかも子供を抱えた場合の雇用は、その多くがパートタイム労働などの「非正規」労働であり、しかも賃金に明らかに格差があり、雇用立場も強くなく、セクハラ、パワハラの温床ともなっている。


 それなりに賃金が高い職業となると、それこそ維新の会のハシモト氏が沖縄の米国兵に「活用」して貰いたい風俗業というハメとなる。これもまた、女性の「活用」の一例なのか。


 目標達成ということは行政にとっては重要なのだろうが、市民にとっては「どのような姿で達成されたか」が問題なのである。ところが、この「達成された目標」の姿が、実はとてもみっともないレベルである、というのが本当なのではないか。


 公的な事業は、公共性が高いにも関わらず、民間が参入しても採算が取れないものが多い。介護保険などに参入していた企業も、その持ち出しの多さに閉口して、地方では次々と閉鎖されている。採算に合うためには、ワタミの介護ビジネスのように、利用者を長時間放置しておくなどの状態や、利用者に対して暴行を働くような質の低い低賃金の従業員で構成するしかなくなる。つまり、介護とか福祉では「儲からない」のである。


 マスゾエさんが大臣だった時期に、大きく前進した介護ビジネスだが、例えばそうした企業の社長などの収益が、同額の売り上げ規模の通常の企業と同程度の給与であるとしたら、当然、現場で働く人間は薄給激務ということになる。そうしなければ、社長のご立派な給与が確保できないわけだ。


 この国の行政は、式次第行政であるから、とりあえず形式が整っていれば、実態はどうあろうと、あるいは実態がヒドイものであっても、我関せずという態度である。申し訳程度に「事前に相手に知らせてから」の検査などが行われ、もちろん事前に検査日時が知らされているので、不都合な部分は施設などの長は、簡単に隠して「無かったこと」にできるわけだ。問題が起きても、それが死者が報告され、マスコミが騒ぐなど、社会問題化しても、式次第的には問題は無いので、現場の人員の個人的な問題とスリ変えられる。


 これは、原発と原子力保安院と原子力委員会の姿と構造が、この国の普遍的な姿であることを意味する。


 私は、その「式次第」主義が、あるいは「前例踏襲主義」が、「事なかれ主義」が、待機児童問題、老人問題、限界集落問題、原発問題に共通して流れる底流だと思っているのである。式次第に齟齬が無ければ、それは「成功」で「成立」したとする、実質を見ない、見られたものではない現実を直視せず、式次第に書かれていた物語通りに話を事後的に合わせてしまう。


 非嫡子以外の子供への差別的現行民法が、違憲であるという、まぁ普通に考えると当たり前の決定が出た。しかし、それでも嫡子と非嫡子は違い「家制度」に対する逆差別だ、などというヒトがいる。しかし、労働人口の都市への移動政策など、核家族化した現在の日本の家族制度を作ったのは自民党政権ではないか。自分だけが総理の孫とか***家を継ぐ、などということを言うわけだ。しかし、残念なことにオレのような庶民は、継ぐべき大した家などは無いのであり、そもそもオレなんかも核家族化した生活をしていたので、祖父母などと一時的には住んだとしても、長期間にわたって同居した記憶が無い。


 大家族制度では確かに「家系の存続」が問題になるのだろうが、採るに足らぬ庶民であるオレの家系など、オレにとって守るべき優先順位は低いわけだ。