発見!森のぶ~たん号!

毎日更新を目指しているぶ~たんです。
某社の公式ブロガーに当選を機に、地元密着型のブログをはじめました。

戦国城下町一乗谷を歩く Vol.3 平面復原地区、立体復原地区

2011-08-22 16:48:21 | 福井のおススメ
織田軍の豊臣秀吉に焼き尽された朝倉領内の人々はどんな営みをしていたのでしょうか・・・

それをうかがい知ることができるのが

瓢町(ふくべまち)、中惣(なかそう)、権殿(ごんどの)、上殿(うえどの)それぞれに様々なものが出土しています。



それらを過ぎると平面復元地区の赤渕・奥間野・吉野本周辺

上殿ノ橋ノ通り跡と南北幹線道路跡が交差する辺りからぶ~たんのテンションが上がる所。



         庶民の住居跡?染物屋の跡?


            医師の屋敷跡? 

医師の屋敷跡からは薬草をほぐした薬研、匙、「湯液本草」炭化したもの

鉄砲関連の遺物に、北国船の模型、染料の付着した甕、鋳物屋がいたことを示す金属の付着した容器など

出土品がそこにどんな職人、商売人がいたのか

武家屋敷、奥まった山際の寺院跡には京風の庭園があったことまで教えてくれます。


さて、これは何でしょうか?



雪隠(せっちん)トイレ跡と言われています。

ここは皆さん盛り上がっていました



ここから八地谷(やちたに)、雲正寺(うんしょうじ)、斎藤を抜けたところにある

町並立体復原地区(平井、川合殿)は小、中、高校生とぶ~たんにぴったりの施設

有力家臣の屋敷跡も多く、小規模な町屋もあります。

平面ではイメージが湧きにくい暮らしを町並みを立体復原して

当時の衣装を着たマネキンが暮らしぶりを教えてくれます。

今回は特別コースで分かれて見学もできましたが、

ぶ~たんは見学したことがあるので今回は案内人さんについて行きました。

今までぶ~たんが紹介したところは、無料で楽しめますが、

町並立体復原地区のみ有料です。

とても良心的な入場料で、夏休みの自由研究おススメです。

リンクしましたが参考までに

開 場 9時~17時15分まで(入場は16時45分まで)
入場料 ・個人 ・・・210円(税込)
          ・団体(20人以上)・・・ 割引あり
          ・中学生以下・・・・・・・ 無料
          ・70歳以上、障害者・・無料(運転免許証等年齢が確認できるもの 障害者手帳等が必要)

休場日 年末年始(12/28~1/4)


これ、おまけです。



上殿ノ橋ノ通り跡の起点の上殿ノ橋です。

見覚えありませんか?

今ソフトバンクのCMでお父さん一家が一乗谷で避暑をしていますよね。

ウルトラマンが郵便配達するのを驚いて若尾文子お婆さん、樋口可南子お母さん達が立って見ている橋です。

福井に居ながら、あのCMの一乗谷がここの一乗谷と思っていなかった間が抜けたぶ~たんでした。











   







戦国城下町一乗谷を歩く Vol.2 安波賀と下城戸

2011-08-22 11:49:32 | 福井のおススメ
福井市市街地に住むぶ~たんからすると

一乗谷は奥越の山々へ向かう交通の便の悪い所のイメージがあります。

しかし、今は昔 500年前は真逆でした。

足羽川が大きな交易の路だったのです。



                安波賀の三体仏      

坂井市三国湊に北前船が運んできた物資を

今の福井市九十九橋付近迄川をさかのぼり運んできたのは知っていましたが、

朝倉氏はその川を更にさかのぼり、安波賀に船着き場を作り

商業都市として整備し、当時は今のお台場みたいに「安波賀見物」もあったそうです。

川を遡るのはとても大変だったと思うのですが

後日、歴史通の話では水量が減った時を選んいたとか

また、安波賀は安らかな波と書きますが、実際は波の荒い難所で波を安らかにとの祈りで命名したそうです。


安波賀の山際には冒頭の写真の春日神社があります。

朝倉氏が開戦前には必勝祈願をしたことでしょう。



1064年創建、1573年の信長による越前侵攻で焼着尽くされ

江戸に入り福井松平藩主によって再建されました。

今回は時間の関係でコースから割愛されましたが、

神社好きのジンジャラー(ぶ~たん次回行ってみたいスポットです。


500年前の安波賀見物をした庶民同様、物見遊山のぶ~たんの前に現れた

石垣は下城戸(しもきど)・・・朝倉城下への門みたいなものだったのでしょう。

スーパー迷路の入口みたいに、先を見通せない作り。

ここのポイントは、西山光照寺跡同様石の大きさです。



同盟軍の浅井家方面にある上城戸(後日に)との違いを見れば一目瞭然

巨石を見せつけることで、対外的に威圧し財力を見せつけたのです。

見えないところは小さい石で組んでいました。

当時、巨石は自らの財力、人力の象徴だったのかもしれません。

確かこの頃、平泉寺の兄弟のお坊さん同士が巨石で牽制し合い、その上の僧侶が手を焼いたとか。

巨石で威圧し、守ろうとした豊かな暮らしも今は昔・・・

織田軍に焼き尽され500年の時を経て、のどかな田園が続いています。

それまで、庶民はどんな営みをしていたのでしょうか・・・

日差しが強く照りつけ始め、ぶ~たんをかきかき案内人さんの後を追うのでした。