お市の方、もう一つの菩提寺 自性院 Vol.1の答えは何でしょう?
ぶ~たんの思う答えの1つは、まず自性院について書いてから・・・
足羽山の近くの住宅地の中にひっそりとあるこの自性院(じしょういん)
解説は奈良時代、元は越前東郷赤坂岡山に開創されました。
薬師堂内陣
それがここ福井市西木田に移転したのが、慶長十年(1605年)
徳川幕府が開府され、徳川秀忠公が二代征夷大将軍に就任した年です。
家康公の後継はあくまで徳川家と豊臣側に引導を渡した時です。
(大河ドラマでは向井秀忠さん悩んでましたね)
その年は秀忠公の正妻、お江さんの母上お市の方の二十三回忌にあたりました。
大安禅寺千畳敷の説明板
そして、この福井は秀忠公の兄、結城秀康公が初代藩主を務めていました。
結城秀康公に関してはこのブログ(歩くざふくい 大安禅寺とその周辺Vol.2)でも書いていますのでまた参照下さい。
そして元々はお江さん姉妹が母と共に柴田勝家とかりそめの家族として暮らした北の庄城下。
そこで、秀忠公が義母の菩提を弔う為にお寺を移転させ
お市の方の院号(「自性院」微妙浄法大姉)賜り、お寺の名前も改め
お市の方の菩提寺としたのです。
お市の方の位牌
つまり、兄を差し置いて家康の後継となった秀忠公の
兄秀康公への敬意と親しみ(信頼)の表明する気遣い。
そして、徳川の妻として多くの子を産むことで
徳川幕府の安定(各大名との縁戚政策)に大いに貢献しているお江さんに対する感謝や思いやり。
今でさえ7つ年上の女房はあれこれ言われがちですが、
子だくさんで側室がほとんどいない()のですから
恐妻家ではなく愛妻家だったのでしょうね、秀忠公。
武功は兄秀康に劣りますが、二代目ぼんぼんの持つ温厚さが出ているのかもしれません。
さて、ぶ~たんが気になったもう1つの答えは
・・・が、ちょうど時間となりました~
もう1つの答えは、また次回に
ぶ~たんの思う答えの1つは、まず自性院について書いてから・・・
足羽山の近くの住宅地の中にひっそりとあるこの自性院(じしょういん)
解説は奈良時代、元は越前東郷赤坂岡山に開創されました。
薬師堂内陣
それがここ福井市西木田に移転したのが、慶長十年(1605年)
徳川幕府が開府され、徳川秀忠公が二代征夷大将軍に就任した年です。
家康公の後継はあくまで徳川家と豊臣側に引導を渡した時です。
(大河ドラマでは向井秀忠さん悩んでましたね)
その年は秀忠公の正妻、お江さんの母上お市の方の二十三回忌にあたりました。
大安禅寺千畳敷の説明板
そして、この福井は秀忠公の兄、結城秀康公が初代藩主を務めていました。
結城秀康公に関してはこのブログ(歩くざふくい 大安禅寺とその周辺Vol.2)でも書いていますのでまた参照下さい。
そして元々はお江さん姉妹が母と共に柴田勝家とかりそめの家族として暮らした北の庄城下。
そこで、秀忠公が義母の菩提を弔う為にお寺を移転させ
お市の方の院号(「自性院」微妙浄法大姉)賜り、お寺の名前も改め
お市の方の菩提寺としたのです。
お市の方の位牌
つまり、兄を差し置いて家康の後継となった秀忠公の
兄秀康公への敬意と親しみ(信頼)の表明する気遣い。
そして、徳川の妻として多くの子を産むことで
徳川幕府の安定(各大名との縁戚政策)に大いに貢献しているお江さんに対する感謝や思いやり。
今でさえ7つ年上の女房はあれこれ言われがちですが、
子だくさんで側室がほとんどいない()のですから
恐妻家ではなく愛妻家だったのでしょうね、秀忠公。
武功は兄秀康に劣りますが、二代目ぼんぼんの持つ温厚さが出ているのかもしれません。
さて、ぶ~たんが気になったもう1つの答えは
・・・が、ちょうど時間となりました~
もう1つの答えは、また次回に