Carry me back to Old Virginny

1974~1975年にわたるアメリカ・バージニア州R-MWCへの留学記(手紙)です。

Xmas休暇(4) Wakefieldにて(Williamsburgも)

1974-12-29 | クリスマス休暇

お元気ですか?

私は今Lynchburgよりずっと東にあるWakefieldという農場に住んでいるMrs.Pondという方の家にいます。私とAunt Sallieは27日にLynchburgをあとにして、車で4時間ほどドライブしてWakefieldにやってきました。

Mrs.Pondは彼女の友達です。息子さんが2人いるのですが(養子とのこと)、もう結婚してしかも去年ご主人を不慮の事故で(農場で働いていた時、機械に巻き込まれてしまったそうです)亡くし、広~い農場に一人で住んでいます。私はいっぱんで彼女が気にいってしまいました。老婦人には違いないけれど(Aunt Sallieと違って)頑固でないし、底抜けに陽気でユーモアの持ち主です。ご主人を亡くしたばかりなのに、とってもしっかりしているの。私は食事の手伝いやお皿洗いをしながらよくおしゃべりしたのですが、すばらしい婦人です。

【WakefieldのMrs.Pond宅にてMrs.Pondの愛犬と】

彼女の農場は500エーカーもあると聞きましたが、見渡す限り広々とした畑が続いていて、映画やTVで観た通りの農場風景なのです。こんな所に住めたらステキでしょうね。奴隷が住んでいたという小屋や台所もある大きな家です。

【Wakefield】
 

【食事時を告げる鐘と奴隷小屋】
    

 

Mrs. Pondはとてもお料理が上手で、着いた日はターキーのご馳走をしてくれました。(クリスマス以来、連日七面鳥攻めで、ちょっとうんざりでしたが、でもとてもおいしかった)。七面鳥の料理方法や典型的なメニューなど、すっかり覚えこんでしまいました。

昨日は朝早くからドライブして、Williamsburgへ行きました。Wonderful!!の一言に尽きます。Williamsburgは小さな半島(大きな河に囲まれているの)なので、カーフェリーでJames Riverを渡ります。 James RiverはLynchburgの街中も流れている河ですが、ここは河口なので海のように広いの。無数のカモメが飛び回っていました。James RiverはもちろんKing Jamesにちなんでつけられたので、植民地時代はたくさんのPuritanたちがこの河に沿ってVirginiaに入ってきたわけです。

フェリーはまずJamestown(Virginiaで最も古い町だそうです)に到着しました。この町もとても歴史的な町なのですが、今回はただ走り抜けただけでした。まもなくWilliamsburgに着きました。この町はすべて観光用に、昔のままの姿をとどめているの。電信柱などないし、家々も古いままです。ちょうどクリスマス休暇の時期なので、たくさんの観光客がアメリカ中から来ていました。家々のドアの飾り付けのリースなどもここでは決して人工的なものを使わず、本物の果物を使っています(林檎、レモン、胡桃など) 

5ドルの切符をMrs.Pondが私のために買ってくださったので(彼女とAunt Sallieは何度も訪れたことがあるので、今回は買わなかったのです)それでいろんな家の中に入ることができました。といっても、一つの家の中を見学(ガイドつき)するのに45分ほどかかるので、私が見たのは、Capitol, Raleigh Tavern, Peyton-Randolph House,の3つだけでした。Capitolは植民地時代のself-governmentの中心地です。ガイドは植民地時代の衣裳をつけているの。男の人は三角形の帽子をかぶり、膝までのズボンをはき、白いソックスをつけ、四角いバックルのついた靴を履いているの。女性はもちろんロングドレスを着ています。

Capitolの中では、meeting roomやcourt roomなどを観ました。ここにWahingtonやThomas JeffersonやPatrick Henryらが座って独立戦争をめぐる議論をしたわけです。(もっともオリジナルの建物は焼けてしまって、再建されたそうですが) 

 

Raleigh Tavernは、とおりに沿った大きな酒屋で、玉突き場などもあり、Thomas JeffersonやWilliam Byrdなどがよく出入りしたそうです。William Byrd家はVirginia第一の富豪かつ政治家だったそうですが、William Byrd IIIはここの酒屋で勝負事をし、家の財産をすっかり摺ってしまったんだそうです。フラッシュが無いので、カメラで取れなかったのが残念ですが、無理に暗い中で写したので、ボンヤリと写っているとは思います。

Payton-Randolph Houseとは、最も古い典型的な植民地時代の邸宅です。Paytonはspeaker of the House of Burgessesだったそうです。Everything was wonderful!! 外の通りは4頭建ての馬車が当時のように走り回っていますし、あるサークルでは昔の野外遊びをコスチュームをつけた人たちが演じています。すばらしいhistorical placeです。

 3時半頃Williamsburgをあとにして、車で少し行った所にあるCarter's Grove Plantationというところに行きました。Plantationの広大な敷地に囲まれた大邸宅です。Carter BurwellはHouse of Burgessesの一員でしたし、大富豪だったわけです。この家は1755年に建てられたオリジナルで、当時のままに家具調度も飾られているの。1階2階合わせて部屋が20室もあり、中でもおもしろいと思ったのが、Refusal Roomというものです。この部屋ではWashingtonとJeffersonの2人がプロポーズをして断られたというエポイソードがあるの。JeffersonはBurwellの姪のRebeccaという娘に恋をして、この部屋で求婚したんですって。とにかく私にとっては、ついこの前の学期のコースで苦労して読まされた本の著者たち(Jefferson, Burdなど)の名前がまだ記憶にあったので、とても興味深く見学できました。American Civilizationを学ぶには、もってこいの州に留学できたわけです。本当にいい経験でした。

40分くらいかかって家内を見学し終えた時には、もう夕闇に包まれていて、外に出るとすばらしい夕暮れの景色でした。家のフロントドアの向こうには、この家の敷地である平原(庭なんてもんじゃない)が広々と広がり、その向こうの夕闇の中にJames Riverが悠然と横たわっています。まるで映画のような光景でした。

それからMrs.PondとAunt Sallieとで夕食を取りに出かけました。再びフェリーで河を渡り、しばらくドライブしてHouse of Old Surreyという名前の可愛らしいレストランで(ここの女主人はMrs.Pondの友達なの)お食事をしました。すべてここの女主人のお手製の料理だそうです。デザートに食べたレーズン・ピーナッツ・パイ(ものすごくコッテリしているの!)は、彼女のご自慢で、作り方は秘伝だそうです。言い忘れましたが、この付近はピーナッツの産地です。どこへ行ってもピーナッツを売っています。

お食事を終えてから、帰りにMrs.Pondの友達の家にちょっと寄って帰ってきたら9時過ぎでした。

さて、今日27日は日曜日なので、朝10時から教会に行きました。Aunt Sallieは教会で別れて礼拝にでかけ、私はMrs.Pondと教会の裏の日曜学校の建物に行きました。Mrs. Pondは日曜学校の先生をしているの。

【教会の前でMrs.Pondと】

最初は幼稚園程度の子どもたち(4、5人しかいなかった)のクラスを見学して、オルガンに合わせて子供用の賛美歌を歌うのを聞きました。とても可愛かったわよ。それが終わってから、2階のMrs.Pondの教室(小さな部屋)に行きました。そこで10~13歳の子どもたちのクラスで(といっても10歳のGrennをはじめ、 Christie, Mark, Andyという4人だけ)机を囲んで、私が日本について話しをしたの。はじめはみんなモジモジしていたのですが、慣れるとすごく好奇心旺盛で、日本の学校の制度、家の様子、食べ物のことなど、質問攻めに合いました。「日本の政治制度は?」なんて質問も出てギョッとしました。中でもMarkという子は、すごい興味を持っているようでした。みんな自分の名前をカタカナと平仮名で書いてもらいたがって、私がみんなの名前を書いてあげたの。それから数個の日本語を教えてあげたり、最後に折り紙で千羽鶴を教えました。折り紙はどこで教えても好評です。もっとしゃべりたかったのですが、時間がなくて終わりになりました。

【日曜学校の生徒と】

そのあと、下に降りて遅い礼拝に出ました。大きなチャペルですが、もちろんMrs.Pondはそこにいる人たちと全員知り合いなので、立って私とAunt Sallieを紹介してくれました。 Aunt Sallieはといえば、彼女はR-Mを卒業してすぐここWakefieldに来て、一年間ここのハイスクールで教えたことがあるのです(気の遠くなるような昔!)。だから彼女のかつての教え子(今では60歳を過ぎてるけど)がたくさんいるわけです。

礼拝から帰って、簡単な昼食をとり、今日の午後はtea partyを開くので、その準備をしました。Aunt Sallieを知っている人がみんな合いに来るのです。私とMrs.Pondとでdining hallの飾り付けをしました。10種類もあると思われるクッキーズを、Mrs.Pondが1人で作ったのです。それらをたくさんのお皿にきれいに並べてパンチを置きました。2時半から5時まで、自由にいつでもゲストが来られるので、こういうパーティーを「Open House」というそうです。

Wakefieldに住んでいるたくさんの人が入れ替わり立ち替わりやってきました。25、6人は来たと思います。いろんな人としゃべる機会があっていい経験でした。引退したministerだというおじいさんは、今朝5匹の鹿を殺したと言って、夢中になって自慢していました(牧師だというのに、なんだか矛盾を感じないでもない)。今は鹿猟解禁の時期なのです。彼は、今朝向かいの森で21匹のdeerを見たといって得意になっていたら、隣りに座っていた婦人が「同じ鹿が行ったり来たりしてたんじゃないの?」とやり返して、「絶対にちがう!」とretired ministerがムキになって怒り、実に愉快な光景でした。

農場に住んでいる人たちらしく、Lynchburgの人たちとは違って、のんびりしている感じ。性格的にも典型的アメリカ人らしく、ユーモアを好み、大袈裟な言葉を使い、底抜けに人の良い人たちです。Mrs,Pondは私を全員に紹介してくれましたが、彼女は決して私の名前Kumikoをまともに言えません。20~30回私の名前を呼んだくせに、一度としてまともに言わなかったというのは称賛に値します。キュミロとか、クミヨとかキャミヤとか・・・Aunt Sallieはそれを聞くたびに訂正しなければならず、最後にはすっかり頭にきてしまって「もう、彼女には何にも言わない!!」と怒っていました。私のほうも、紹介されてもまるで名前など覚えられず、名前を覚えようなどと努力もせず、ただ挨拶だけしました。

6時半頃までいろいろな人と会い、楽しく時を過ごしました。それからオイスタースープの夕食を軽く済ませ、片づけをし、8時頃から今度は別のお宅の(Mrs.Pondの友達でHannaという名前で呼ばれている婦人の家)のopen house partyに3人で出かけました。行ってビックリ!通りには客人の車がズラリと並んでいます。隣町からも客が来ているの。すごくおおきなマンションで、中に入ると、なんと全員盛装してるの。100人はいたのではないかと思われます。家自体がもんのすごく豪華で、家具調度から柱、階段、壁、シャンデリアがすごく凝った造りなの。「風と共に去りぬ」で観たような典型的な南部の家です。電気はまったく使っていなくて、各部屋に無数のろうそくだけが使ってあります。たくさんの部屋があって、一つの部屋に軽食が並べてあって、自由に食べられるのです。その他の部屋はどこも各人でいっぱいで、老いも若きもみんな素晴らしいドレスを着ていました。Mrs.Pondの家に来ていた人たちもほとんどここに来ていて、再会しました。ここでもいろんな人に紹介されましたが、私は片っ端から忘れました。とにかく、豪華絢爛とは、このことだという気がしました。これもアメリカの生活の一部なのでしょうね。まさに富める国です。

今はそのパーティーから帰ってきて、シャワーを浴びてベッドの中です。もう12:00過ぎです。おやすみなさい!


Xmas休暇(3)Page家にて(Shielaとの出会い)

1974-12-27 | クリスマス休暇

26日の第2便です。

午後Page家から電話があり、シーラが帰国したとのこと、さっそく夜シーラの家に出かけました。シーラは日本を発ってからバンコックやインド、ネパール、ドイツとまわってアメリカに帰ってきたそうです。その間、軍用機を使ったのでほとんどタダ同然だったのですって。いいわね。Wahington D.C.でご主人(Skip)の家でクリスマスを過ごし、彼をそこに残して今日の午後Lynchburgにたどり着いたのだそうです。

お兄ちゃんは良く知ってのとおり、シーラはとっても気さくで明るくていい人です。 Page家には他に22歳になるシーラの弟夫婦も来ていました。彼はRandolph-Macon (Men's) Collegeに通っているそうです。長髪で後ろで束ねているのよ、ヒッピーみたいに。しかも髭面。でも話すととっても感じのいい人です。奥さんもブロンドの可愛い人で、Jenniferという2歳になる子どもがいたのですが、お人形みたいでした。シーラはJenniferが生まれる前に日本に行ったので奇妙な感じがする、と言っていました。

シーラの話だと、最初の日はタケシとノゾミと一緒に楽しく過ごしたけれど、あまりよくcommunicateできなかったんですって?ところが、次の日コバヤシ君と一緒に見物して回ったときには、実に良くわかったと言っていました。コバヤシ君の英語はパーフェクトだと言っていました。AFSでアメリカにいたとは言え、あれから何年もたっているのに、それだけパーフェクトなんて、すごいわね。私は全然自信が無いです。ノゾミはとてもキュートだといっていました。それから、お兄ちゃんとはコミュニケートできなかったにしても、すごくおもしろい人だって。 "He is a kind of entertainer." だって。でもお兄ちゃんのお蔭でいろんな処を見られたし、安い所に泊まれたと本当に感謝していました。最初に東京についた日の夜、中野駅の前に立っていたら、見知らぬ日本人がつかつか歩み寄ってきて、"Are you Mrs.Gout?" と聞いてきたときには死ぬほどびっくりしたと言っていました。それが義朗おじちゃんのことですが、おじちゃんは会社の帰りに偶然彼女たちを見つけたそうですね。(この話はおじちゃんたちがよく知っています) 何から何まで偶然だと本当に驚いていました。瑠璃子おばちゃまの英語もとてもよかった、といっています。主婦で、英会話なんか習う機会もないのに、よくあれだけの会話力を維持できる、と感心していました。それから史朗君たちが"How do you do?"と挨拶したのですって。とっても可愛かったといっていました。

とにかくシーラとご主人はもうすでにJapan Sickにかかっていてとても懐かしがっているの。彼女はシカゴに住むわけですが、今後の計画としては、日本とアメリカ風のミックスした家を建てたいのですって。もちろん日本式お風呂!---これを彼女はもっとも恋しがっています。それから、日本料理のレストランなどを経営したいとも言っていました。それから、彼女の日本人の友達とこんなプランをたてたのですって。シーラがやがて子どもを持ったら、彼女の子どもと1年くらいexchangeして、互いの国の学校に通わせ、その国の文化を交換するというの。すばらしいじゃない?私も一枚加わりました。早く結婚して子ども作らなくちゃ。?

チコタン、耳をかっぽじってよく聞いてください。シーラは私のpronunciationがとても良いと言いましたよ!彼女の教えていた生徒の誰よりもいいし、聞き取りやすい英語だって。私がアメリカに来た第1の目的はpronunciationを矯正することだと言ったら、驚いていました。でも、これは怪しげです。私としてはいっこうに進歩していない気がするから。シーラの英語は(たぶん日本で生徒を相手にしゃべっていたからでしょうが)実にクリアで聞き取りやすいの。とにかく我々はとても楽しくおしゃべりして過ごしました。

私が思うに、彼女は実に健全で明るいアメリカ娘という感じ。彼女を知れて、本当に良かったと思います。R-Mに来て感じたことは、日本にいるときは「アメリカ人」というと単一の概念しかなくて、みんな同じに思えたけれど、やはりそれぞれ人によって違いがあるということです。あたりまえなんですが。憎たらしい人もあり、感じの良い人もあり・・・。シーラは私の昔からのイメージにある「典型的アメリカ人」といったところです。

そうそう、もう一つ思い出したのだけど、お兄ちゃんが東中野の前の家をシーラに見せた時、 "He looked very happy when he pointed that house." といっていました。それで彼女はお兄ちゃんがいかにあの家を懐かしがっているかわかったのですって。

今は夜11:10.明日はAunt SallieとMrs. Morshal(彼女の友人)とでWakefieldへ週末を過ごしに出かけます。早く寝なきゃ。ではまたね!

Happy New Year!!!


Xmas休暇(2) Hiner家・Powell家・Jones家(教会の人々)にて

1974-12-26 | クリスマス休暇

お元気ですか?今頃は新年の準備で忙しいことでしょうね。私がいないから家の掃除ははかどるんじゃない?(散らかす人がいないから)

私の方は昨日のクリスマスも無事に?終わり、今日はのんびりしています。前の手紙でLauraの家のことを書いたと思うけど、22日の夜はAunt Sallieの家に移り、彼女と一緒にMrs. HinerというAunt Sallieの教会のお友達の家に行きました。

Mrs.HinerとMr.Hinerは60歳前後ですが、とても若々しいの。その他に、息子さん夫婦とその子ども(女の子)2人に、もうひとりMr.Hinerの息子さん(John)がいました。とっても大きな家で大きなクリスマスツリーが2本もあるのよ。子どもたちは10歳になるCathyと6歳のSharronという子ですが、2人ともとても人懐っこくて、私とすぐ仲良くなりました。Sharronは両親が日本にいた時に生まれたそうで、東京生まれなのです。Cathyは日本の幼稚園に2年ほどいたそうで、ほんの少し日本語を覚えているの。Sharronは金髪でお人形みたいに可愛いです。私の黒髪がよっぽど気にいったらしく、べったりくっついて三つ編みにしたり、撫で回したりして大変でした(前日髪の毛を洗っておいて良かった!) 私がCathyと話していると、やきもちを焼いて大騒ぎするの。Cathyのほうは、私のことを自分と同い年(つまり10歳!)だと思っていたのですって。私が21歳だとわかるとよほどショックを受けたらしく、"Boy! Twenty-one!!? I can't imagine!!!"と何回も呟いていました。失礼しちゃうわね。私は2人に折り紙とジャンケンなどの日本の遊びを教えてあげると、彼女たちの方ではアメリカの子どもの遊びをいろいろ教えてくれたり、Cathyはフルートを習っているので、私にフルートの手ほどきをしてくれました。

私が着いたときは、フットボールをTVでやっている真っ最中で、みんなそれに夢中になっていたの。子どもたちのお母さんは特にフットボール気狂いで、子どもみたいに大はしゃぎし、私に必死でルールを教えようとするのですが、私はチンプンカンプンでした。

9時頃までそのお宅にいて、別れる時は子どもたちが半分べそをかいて抱きついてきたので、本当に去りがたい気持ちでした。

23日はAunt Sallieと一日がかりで部屋の飾り付けをしました。といっても、Aunt Sallieは命令する一方で、私はこき使われてクタクタになってしまいました。そうそう、午前中はLauraが電話をかけてきてくれて、私とLauraと、リンダ(Dr.Anthonyの家の隣りに住んでいるの)と、リンダの家に寄宿しているAyukoとで、買い物に出かけました。Lauraは27日にデビュー(一定の年齢になった娘たちが社交界ーーというと大袈裟ですが、に紹介されるためのパーティー)があるので、そのための白いイブニング/ドレスを買わなくてはならないそうです。Ayukoたちとセンターで別れて、私はLauraと一緒にドレスを見たのですが、デビューではたくさんの娘たちが白いドレスを着るので、いいのはほとんどもう売り切れてしまっていました。(ちなみに、値段は平均55ドルっくらい。日本でいうと1万5、6千円というわけ。)いいのがないので、結局白い生地とパターンを買って、お母さんに縫ってもらうことになりました。(註:パターンと生地は「私が」選んだの。どうなることやら・・・?)

24日のクリスマス・イブには、夜7時半からの教会のミサにAunt Sallieと行きました。たくさんのクリスマス・キャロルを歌い、聖体拝領を受けました。今回のミサはふだんと違って、牧師さんのMr.WilkinsonがCongregationの中に降りてきて、ただのお説教をするのではなく、congregationのみんなにしゃべる機会を与えました。「みんなにとってクリスマスのwonder, simplicity, heartとは何か?」というテーマを与えて、皆に自由に発言させたの。かなりの人が立って、自分の意見を述べました。simplicityのところでは、私のちょうど前に座っていたカップルが立って意見を述べたのですが、彼等はあとから遅れて入ってきて、ちょっと一風変わっていたの。二人ともすごく度の強そうなメガネをかけて、質素な身なりをしていて、ミサの最中にも2人でじゃれあったりして、嫌な感じ、と思っていたのですが、意見を述べたのを聞くと、彼等はユダヤ人であることがわかりました。男の人の方は聖体拝領を受けましたが、女性の方は受けなかったので、おかしいなと思っていたのです。ユダヤ人はユダヤ教ですから、クリスマスは祝わない風習なのだそうです。(旧約聖書のみを信じているそうです)彼等にとって、この教会に入ることは勇気が要ったでしょうね。ともかく、この日のserviceはとても心に残りました。

25日のクリスマスは、朝Mr. Powell家に朝食を招待されていたので行きました。家族構成はMr. & Mrs.Powellと長女夫婦(Mr. & Mrs. Berger)とその子どもたち(Sue, Mary, John)それにMr.Powellの次女と、8人でした。ちょうどクリスマス・ツリーの下でプレゼントを開けたところで、山のようなプレゼントが置いてありました。こういう光景を見ていると、もう一度子供時代をやり直したくなります。

この日は、昼食にも別の家庭に招かれていました。downtownにあるMethodist Churchの牧師さんの家庭です。Mr. Jonesというの。この家庭はMr. & Mrs. Jonesと、ノース・カロライナで音楽の先生をしている娘さんKarenと、今年大学を卒業して病院の手伝いをしている息子さんDavidの4人でした。私たち2人のほかに、もう2人の人が招かれていて、とても大きな昼食パーティーでした。例のごとくの七面鳥(アメリカはまさに七面鳥の国ですね。何かというと七面鳥が出てきます)のご馳走と、4種類ものデザートが出ました。お食事の後は、全員がおもちゃのラッパや笛や太鼓をもたされて、ジングル・ベルやきよしこの夜などの歌を合奏「させられ」ました。まったく他愛ないというか・・・それからMr.JonesがKarenのピアノに合わせて賛美歌を2、3曲歌われました。とても楽しく過ごしました。

そういえば、24日の夜にAunt Sallieが車で町内を観に連れて行ってくれましたが、どの家も争ってクリスマスの飾り付けをしてあり、(ある地区ではコンテストもあるそうです)、とても綺麗でした。家中に豆電球をめぐらしたり、大きなサンタクロースを照らし出したりしてあったの。そちらのクリスマスはいかがでしたか?

では、またね。


Xmas休暇(1) Lauraの家にて

1974-12-22 | クリスマス休暇

お元気ですか?

今私はLauraという子の家にいます。彼女の家は大学のすぐ近くにあるとても古い家です。昨日(21日)写ってきたのですが、昨日のことをちょっと書きますと、朝8時に目を覚まして部屋の最後の掃除をしました。土曜日といえば、いつもはみんなの笑い声や話し声で賑やかなのに、昨日ばかりは寮内が森閑としていました。ほとんどの子がおとといのうちに帰郷してしまったので、寮に残っていたのは、ほんの数人だったの。隣りのWendyはフランスに留学するので部屋のものをすっかり出すので、バタバタやっていますし、私はのんびりラジオを聞きながらLauraが迎えにきてくれるのを待っていました。ふだん賑やかなだけに、誰もいない寮というのはおそろしく淋しい感じがします。

Lauraの家に移ってから、彼女と彼女のガールフレンドと3人で買い物に行きました。クリスマス・ショッピングといっても私は特にプレゼントする相手も無いので、もっぱらウィンドウショッピング。 Knit shopで毛糸の刺繍用具を買ってきました。クリスマスには間に合わなかったけれど、これに何か漢字をデザインしたのを刺繍して、イースターにでも友達にプレゼントするつもり。こんなアイディアいかが?家に帰ってからLauraといろいろおしゃべりしました。

ところで話はまったく変わりますが、前にアユコさんのことを話したかしら?彼女はAunt Sallieの古い友達(お母さんがAunt Sallieの日曜学校に通っていた関係で)で、こちらの大学に今留学していて、Dr.Anthonyの家の隣りの家に休みの間は滞在しているのですが、彼女は問題を抱えているのです。こちらへきてもう2年半なのですが、周囲の反対をおしきって夜レストランでアルバイトをしていたのですが、そこで知り合った男性と恋愛をしてしまったの。それだけならいいのですが、その相手というのが、前に結婚したことのある子持ちの男性で郵便局員(つまりあまり教養の無い)人なのだそうです。Dr.Anthonyはもしものことがあったらアユコの両親に合わせる顔がない、といって、とても気にしていらっしゃいます。LauraはこのことをAunt Sallieには黙っているように、と言います。Aunt Sallieはいわゆる古いタイプの南部女性なので、こういうことにはまるっきり理解がないからです。Lauraの話しを聞くと、彼女(AuntSallie)は立派な婦人だけど、若い人たちには敬遠されているようです。いわゆる「古き良き時代」の人物なのでしょうね。

夜はLauraのボーイフレンドのKillesも一緒になって夕食をいただきました。典型的なアメリカの家庭といったところです。話題はもっぱらLauraの今度の夏休みのことについてでした。Lauraはサマースクールにいって法律の勉強をしたい、というのですが、両親は反対しているの。彼女の考えでは、R-Mに行っているだけでは何の資格も得られないので、より良い仕事を得るためには法律の学校で学びたいと考えているのです。両親は、彼女があまりに勉強しすぎるので、この夏くらい遊びなさい、と説得しています。将来の仕事についても、特にお母さんの方は、法律事務所の秘書くらいでいいと言うのですが、Lauraはもっと能力の発揮できる仕事をしたいの言うの。自分が何かできるということを、世間に示したいのだそうです。お父さんは、他人を喜ばすためになんか仕事をする必要はない、といって反対しますし、お母さんはただの家庭婦人に収まってもやることはたくさんある、精神的に高尚な生活を送ればいい、と言います。私は口をはさめず、ただ聞いていたのですが、どっちの考えもナットクできる気がしました。LauraはKillesとの結婚を考えているのですが、(できれば来年したいんですって)、彼は法律家を目指しているので、彼の手伝いをしたいと思っているのです。彼も、Lauraと彼女の両親の間にはさまれて困っているようでした。

夕食の後、私とローラとお母さんとでクリスマスツリーの飾り付けをしました。大きな樅ノ木に電灯をつけて、モールや小さな人形を吊り下げました。そのあと、Luraのお父さんがピアノを弾きながら(といってもおじちゃん程度しか弾けないのですが九、クリスマスキャロルや"Virginia is for Lovers"とかいった歌を歌いました。Lauraのお父さんは2、3年前まで教会の聖歌隊にいらしたそうで、とてもいい声をしています。

今日は朝からKillesが家にきて、みんなでおしゃべりしました。Lauraのお父さんとKillesと私とで日本とアメリカの文化の違いについて議論しました。報道の手段の違いで気付いたのですが、日本の新聞は多少右や左に向いているとしても、あくまでも中立の立場で事実を客観的に述べるのを原則としているでしょう?ところがアメリカではすごく主観が混じっているみたいです。KillesやLauraは主観が混じっていて当然だというの。 たとえばニクソンのやったことをもって徹底的に追求するべきだというおん。それが言論の自由だというわけ。 でもアメリカ国民が全部ニクソン反対だったわけではないし、ニクソンのやったことが善か悪かを決めるのは個々人の判断に任せるべきで、新聞はあくまでも中立を保つべきだというのが私の意見。 日本の新聞はほとんどが単なる報道だけど、アメリカの新聞はほとんどが記名入りのopinionだから、その点も違ってくるけどね。 
ワイワイいっているうちにLauraのお兄さんのJipという人が帰ってきて(彼はR-M大学のすぐ隣りのUnited Virginia Bankに勤めていて、お兄ちゃんと同じ24歳ですが、すごく大人っぽいです)議論は中断されました。

Lauraは彼女のお父さんとまったく意見が食い違って頭にきていて、私にしょっちゅう"Don't pay ANY attention to what he says!"と命令するのです。最後には、お父さんが何か私に話し掛けてくるや否やそれを言うので、食事の時にお父さんが私に何か聞いてきたときに、私がLauraに"May I pay attention to him?"と聞くと、大笑いになりました。このときはお父さんは私に「デザートは何が欲しいか?」と聞いてきただけなのでした。

食事の後も何かの話題でLauraの家族が夢中になって話しているとLauraは再び頭にきて私を引きずって2階の自分の部屋に連れて行ってしまいました。Lauraはお父さんをまるっきり尊敬できないのですって。彼女が言うには、Mr.Howell(=Lauraのお父さん)はあまりにも人種偏見を持っていて、私を洗脳するのではと恐れているの。黒人やJewsや日本人に対しても、個々人には親切にしてつきあうけれど、人種全体に対しては強い差別感を抱いていて、馬鹿にしたことを言ったりするそうです。Lauraは、彼が私の前でJewsに対してバカにしたことを言った(らしい、私はよく理解できなかった)ので怒ってしまったのです。お父さんはいろんなアメリカ人の意識を知ることも重要だといって、私にいろいろ教えようとするの。私は別に黒人やユダヤ人に対して何の偏見も持っていないから平気なのだけど・・・。

まだ書き足りないけれど、スペースがないので次にまわします。またね。