雑居空間
趣味のあれこれを、やたらめったらフットスタンプ




 吉田城の後は、名鉄名古屋本線で名古屋市へ移動。次の目的地は、城跡界の大物、名古屋城です。



 名古屋城といえば、徳川御三家の筆頭格となる尾張徳川家の居城として、天下普請で築かれた巨大城郭。日本100名城はもちろん、姫路城、大坂城と並んで(場合によっては大坂城の代わりに熊本城)日本三名城にも名を連ねています。

 名古屋城の起源は、16世紀前半に今川氏が尾張侵攻のために築いた柳ノ丸まで遡ります。しかし尾張の織田信秀がこれを奪取し、那古野城と改名。後に信秀の息子・信長の居城となります。
 信長が清洲城へ移ると、那古野城には信長の叔父・信光が入りますが、信光は家臣に殺害されてしまいます。その後は林秀貞が入りますが、やがて那古野城は廃城となり、一度は歴史の表舞台から姿を消してしまいます。

 江戸時代に入り、尾張の中心だった清洲城を藩庁とした清洲藩が誕生します。当時はまだ豊臣が健在だったため、清洲は対豊臣の要衝だったわけですが、地形的に水害が多かったり、清洲城も規模が小さい上、地震のため地盤が液状化するなど、問題を抱えていました。
 初代清洲藩主は家康の四男・忠吉でしたが、継嗣の無いまま死去。その後を継いだ家康の九男・義直の代になって、新たに那古野城のあった辺りに、西国大名を動員した天下普請により、名古屋城が築城されます。それに伴い、城や武家屋敷だけでなく、町人や神社仏閣まで含めて、清洲の街をほぼ丸々名古屋へと移転させる、「清洲越し」と呼ばれる大規模な引っ越しを敢行し、名古屋という街が誕生するわけです。

 明治に入ると、名古屋藩知事となった徳川慶勝により、明治政府に名古屋城の破却と金鯱の献上が申し出られました。一旦屋根から降ろされた金鯱は当初は鋳つぶして換金される予定でしたが、その前にウィーンで開かれた万博に出展したところ大評判に。そのため金鯱は名古屋城の屋根に戻され、名古屋城自体も城郭が保存されることになりました。
 しかしながら、太平洋戦争のさなか、名古屋大空襲により天守、小天守、本丸御殿をはじめ、櫓や門など多くの建物が焼失してしまいます。ただ、戦後、名古屋のシンボルとして、積極的に名古屋城の復元事業が進められており、天守や本丸御殿など、往時の姿を見せてくれています。今計画が進んでいる、天守の木造復元工事については、いろいろすったもんだがあるようですけどね。



 名古屋市内は地下鉄が網の目のように張り巡らされていて、名古屋城の近くへも地下鉄で行けるのですが、吉田城見物が予定よりも早く終わったので、名古屋駅から歩いていきました。
 名古屋城は名古屋駅から北東へ2㎞ちょっと。名古屋城の西を南北に流れる堀川に沿って北上していきます。名古屋城が近づいてくると、それほど極端な高低差ではありませんが名古屋城のある東側が高くなっており、名古屋城が台地上に築かれたのだということが確認できます。



 名古屋城の南西にある国道22号線の名城歩道橋の上から、天守方面を眺めて。
 手前に見える公園の辺りは三の丸、というか、愛知県庁や名古屋市役所、県警本部、美術館などを含む、名古屋城の南側のかなり広いエリアが三の丸となっています。
 台地の上に築かれている名古屋城ですが、南北に長く伸びた台地の北西端にあるため、南方面は城から見れば平たんになっています。そのため巨大な三の丸で守りを固めているわけですね。



 その公園に、加藤清正の像があります。加藤清正も天下普請に駆り出され、天守台の石垣などを担当したようです。
 他にもそうそうたる面々が普請に参加しているのですが、名古屋城ではなぜか清正推しが激しく、他の場所でも清正を多々目にすることになります。



 清正像の近くに置いてある、篠島の矢穴石。知多半島の先にある篠島に残されていた石で、石を割るための矢穴の跡が残っています。加藤清正が名古屋城の石垣を築くために採ったという伝承が残されています。



 その近くに、名古屋能楽堂があります。





 本丸を中心として、東に二の丸、南から南西にかけて西之丸、北西に御深井(おふけ)丸があります。本丸、御深井丸、西之丸と二の丸の北半分をひっくるめたエリアが、現在「名城公園」内の「名古屋城」となっています。
 入口はこの西之丸にある正門と、二の丸方面にある東門の二か所です。ここから先は有料で、大人500円、名古屋市内の高齢者100円、中学生以下は無料となっています。



 正門周辺。
 まあ、人の多いこと。さすがに観光地レベルが高いっす。おかげで人を避けて写真を撮るのが難しく、普段は面倒くさくてやらないぼかしなんかも入れてしまいました。



 正門を入ってすぐのところにある総合案内所のスタッフに頼むと、100名城スタンプを出してもらえます。図案はもちろん、名古屋城の天守です。
 他のスタンプ類は表にいくつか並んでいたのですが、100名城スタンプだけは尋ねないと出てこないのは、何かあるんですかね? 破損されたりとか、盗難されたりとか? 川越城もそうだったしなぁ。



 西之丸には西之丸御蔵城宝館があります。
 かつて西之丸にあった三番蔵と四番蔵の外観を再現した建物で、名古屋城が所蔵する「宝」と、名古屋城の情報を紹介する施設だから「城宝館」と名付けられたそうです。

 私が行った時には、「初公開 門外不出巨大杉戸絵」として、名古屋城の本丸御殿内にはめられていた杉戸に描かれていた絵が展示されていました。本丸御殿は空襲で全焼してしまいましたが、襖絵や杉戸絵は事前に取り外されており、焼失を免れました。今復元されている本丸御殿には、これらの杉戸絵を元に復元されたものがはめられていますが、そのオリジナルですね。



 こちらは天然記念物の、名古屋城のカヤ。高さ16メートル、幹回り8メートルで、樹齢は推定600年。空襲にも耐えて生き延びました。
 徳川義直が大坂夏の陣に出陣する前に、この実を食べたとも伝えられます。





 西之丸から本丸方面を眺めて。
 本丸の南西部の角に建つ、西南隅櫓、また未申櫓とも。これは空襲でも焼け落ちなかった、現存櫓のひとつです。
 外観は二階建てですが、内部は三階建てとなっています。石落としがあるところにも1階分ある感じですかね。



 本丸北西部の角には天守がそびえ立ちます。
 うーん、やっぱりでかい。層塔型の5層5階地下1階建てで、下の石垣と合わせ、存在感は抜群ですね。

 石垣に沿っている緑色のパイプが目立つのですが、これは雨どい。最近復元したときにつけた無粋な設備かと思っていたのですが、実は江戸時代から存在していたものだそうです。



 この角度だと木に隠れて見えませんけど、天守の横には小天守があり、橋台で連結されています。
 近くに立っていた説明板によると、橋台は高い土塀で囲われ、塀の軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと並べられていた剣塀と呼ばれる構造になっていたそうです。どのあたりにどのようについていたのかは、よくわかりませんでしたけど。



 なぜか、この日は天守の屋根付近にカラスがやたら大勢集まっていて、不穏な空気を醸し出していました。何かあったんですかね?



 続いて、本丸の北西にある、御深井丸へ。
 御深井丸には火薬の保管庫として穴倉が造られたのですが、爆発の危険性があるためそれらは結局場外に移されました。しかし、大筒蔵、弓矢櫓など、多くの武器庫が存在したようです。



 中心部はだだっ広い広場があるのですが、人が多かった西の丸や本丸周辺と比べて、この辺りは随分とすいていましたね。少しのんびりするにはちょうどいい場所かもしれません。



 国登録の有形文化財・乃木倉庫。
 明治時代の弾薬庫で、かつて名古屋に赴任していた乃木希典に因んで、そう呼ばれています。





 庭園っぽいところもあります。
 しかしこの、水はあるけど水量が少なくて一部底が見えているという状態は、ちょっと見栄え的にいまいちですなぁ。



 御深井丸の北西の角に建つ、西北隅櫓。古くは戌亥櫓とも。こちらも現存櫓です。
 清洲城天守を移築したと伝えられており、清洲櫓とも呼ばれていました。そんなこともあり、隅櫓としては国内でも最大規模のものとなっています。



 北西隅櫓の近くから、西側の堀を眺めて。



 御深井丸を東の方へ移動していくと、御深井丸展示館があります。
 手作りの人形や玩具、また、名古屋城の復元事業など、職人さんの匠の技に関する展示がなされています。



 北西側から見上げる名古屋城天守。



 空襲で焼けた旧天守の礎石が並べられています。



 これは島根県松江市にあった、団原古墳の石棺式石室。
 名古屋の方が寄贈したらしいのですが、名古屋城とは直接関係ないものですかね?



 御深井丸の東端から、北側を眺めて。



 ちかくの石垣に、刻印が刻まれていました。



 名古屋城北東部には御塩蔵構があるのですが、そちらは現在、立ち入り禁止となっています。そこでいよいよ、本丸へと入っていきます。



 御深井丸から、本丸北側にある不明門を通っていきます。
 しかしこの角度から見ると、本丸の外側に設置されている階段とエレベーターが、いかにも取って付けたようで無粋ですね。もっと目立たないようにできなかったのかなぁ。



 本丸と御塩蔵構との間の堀。左側が御塩蔵構だった場所になります。木が多くて、ちょっと様子がよくわかりませんね。



 本丸側からの不明門。
 不明門も空襲で焼けているので、これは復元されたものです。



 不明門の近くに、御殿椿が植えられています。本丸御殿南側にあった御殿椿から接ぎ木されたものです。
 原木は空襲で焼けてしまいましたが、焼けた幹の下から新芽が伸びてきて生き延びたようですが、現在は衰弱してしまい、根株だけが残っているそうです。



 天守を東側から望んで。



 天守の横にある、小天守。



 大天守と小天守は橋台によって連結されています。



 本丸には復元された本丸御殿があります。
 現在、天守は耐震性不足のため立ち入り禁止になっているので、この本丸御殿がメインの見どころとなっています。



 大天守と小天守、そして手前に本丸御殿。



 名古屋城は見どころが多くて長くなりそうなので、この辺で一区切り。
 続きはまた後日投稿します。



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