雑居空間
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 今年の夏前に、久しぶりに地元である新潟県長岡市に帰る用事ができました。地元に帰るのはコロナ禍以降では初めてです。
 城巡りも山登りもコロナ禍以前はやっていなかった趣味なので、ついでに地元をちょっと観光。用事がメインなのであんまりがっつりとは観光できませんでしたが、まずは地元長岡の中心地にあった長岡城と、長岡の東にある悠久山公園へ行ってきました。



 長岡城が築城されたのは江戸時代初期の1616年。堀直寄によって、信濃川に近く水害の多かった蔵王堂城にかわる新しい居城として築かれました。長岡という地名が誕生したのもこの頃なのですが、その語源には諸説あるようです。
 1618年に直寄が村上藩に移封されると、代わりに譜代の牧野忠成が入り、幕末までずっと長岡の地を治めることになります。
 なお、水害対策として信濃川から少し離れたところに作られた長岡城ですが、それでも水害による被害もたびたびあったようです。また、1728年の三蔵火事により、城郭が丸々延焼してしまったこともありました。

 長岡がその名をとどろかせるのは、何と言っても幕末でしょう。当時の藩主は牧野忠雅。牧野家は譜代であるため基本佐幕派でしたが、忠雅は京都所司代や老中なども務めており、攘夷の困難さもよく理解していたようです。
 そして忠雅によって取り立てられたのが、各地へ遊学して見聞を深めていた河井継之助。当初は古参の家老に疎まれて力を発揮できませんでしたが、さらに遊学を重ね、忠雅の死後跡を継いだ牧野忠恭にも重用されます。忠恭の後ろ盾を得て、長岡藩の舵取りをするまでになった継之助は、藩政改革を進めていきます。

 そんな中、時代は大きく動いていきます。大政奉還により幕府が崩壊し、新しい世を作るため、新政府軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争が勃発します。鳥羽伏見に端を発した戦は戦場を徐々に東に移動させ、ついには長岡にも新政府軍が迫ってきました。
 長岡藩の基本方針は「武装中立」。一藩として独立できるだけの力を持ちつつ、新政府軍にも旧幕府軍にも与しないというものでした。この時点では、新政府軍に対抗する奥羽列藩同盟のへの加入も断っています。
 継之助はそのことを、新政府軍の軍艦だった岩村精一郎相手に必死に説くのですが、岩村はあくまでも新政府軍に付くか、旧幕府軍として戦うかの二択以外を認めようとしません(小千谷会談)。岩村はこのときまだ20歳そこそこの若者で血気にはやっていたと言われ、新政府軍の中でも山縣有朋か黒田清隆あたりであれば、もう少し交渉の余地があったと考えられています。
 結局小千谷会談は破談となり、長岡藩は新政府軍との戦に突入します。藩内には新政府軍に恭順すべきという意見も多く、このとき官軍に付くという手もあったとは思うのですが、岩村のあまりな態度に激高したという部分もあるでしょうが、やはり牧野家が徳川譜代であったという点が大きかったのではないかと思います。継之助自身は早々に幕府に見切りをつけ、長岡藩単独で生き残る道を模索するなど時代を見る目を持っていましたが、それでもなお、長岡のトップである牧野家をないがしろにすることはできないという武士的側面も、最後まで捨てることはできなかったように思います。
 長岡藩も奥羽列藩同盟に加わり、奥羽越列藩同盟が成立することになります。

 長岡藩は新政府軍が本陣を置いていた、長岡の南に位置する榎峠を奪取。桑名藩兵が陣取る朝日山と連携し、南からの新政府軍の進軍を食い止めます。
 しかし新政府軍は長岡の西にある信濃川を渡って長岡城を急襲。榎峠に軍を集めていた同盟軍はこれに抗することができず、長岡城は落城してしまいます。
 城を奪われ、一旦は北に後退した同盟軍ですが、まだあきらめたわけではありませんでした。長岡城の北東側には八丁沖という沼地が広がっており、新政府軍はそちらの防御が手薄になっていました。そこで、夜間八丁沖を渡って長岡城を急襲するという作戦を立てます。これの作戦が見事に当たり、長岡城の奪還に成功しました。しかしながら、この戦いの最中に河井継之助が銃撃を受け、重傷を負ってしまいます。自ら先頭に立って兵を鼓舞していた継之助の負傷は、長岡の士気に少なからぬ影響を与えることになります。
 一時は兵を引いた新政府軍でしたが、海軍により新潟を占拠すると長岡に迫り、長岡城を再奪取。同盟軍は会津への撤退を余儀なくされませす。しかしその道中、河井継之助は傷が悪化して死亡。この後、残存部隊は会津戦争を戦ったりしましたが、最終的には長岡藩も降伏し、長岡も多くの犠牲を払った戊辰戦争は終結しました。

 で、この戦いで長岡城はほぼ焼失してしまっています。いくつかの櫓や門は残っていたのですが、それも戦後の復興に充てるために売却。結果的に、長岡城の痕跡はほぼ残っていません。
 現在、長岡城本丸跡にはJR長岡駅が建てられています。二の丸跡にはかつては厚生会館という多目的ホールがあり、現在は厚生会館の機能に市役所や商業施設がくっついたアオーレ長岡という巨大施設となっています。
 ちなみに「アオーレ」とは長岡弁で「会おうぜ」という意味です。





 と、いうわけで、JR長岡駅からスタート。
 長岡と言えば日本三大花火大会のひとつにも数えられる、長岡まつり大花火大会でも有名です。駅前にはその花火大会名物三尺玉(と二尺玉)の打ち上げ筒が並んでいます。これは実際に使用されたものだそうです。



 で、その奥の滝のとなりに、ひっそりと長岡城本丸跡の碑が立っています。
 上に描かれている家紋は、徳川家の三つ葉葵と似ていますが、牧野家の牧野柏です。葵じゃなくて、柏の葉です。



 駅前から少し移動したところにある、アオーレ長岡。結構でかい構造物です。私が長岡を離れてから建てられたものなので、私もあまり中を把握しているわけではありません。



 アオーレ長岡の前に、長岡城二の丸跡の碑があります。



 長岡城址の解説文もあります。



 と、まあ、一応長岡城に関する碑を見たのですが、何しろ遺構がないので、これ以上はどうしようもありません。
 ここからしばらくは特に長岡城とは関係ない、駅周辺の散策となります。



 駅前通りである大手通りの真ん中に、火焔型土器のレプリカが置かれています。
 長岡市の馬高遺跡から火炎型土器が出土しており、火焔型土器のレプリカは長岡のあちこちで見られます。



 これは長岡駅の新幹線の改札奥にある火焔型土器。岡本太郎の言葉が書かれていますが、岡本太郎も火焔型土器に衝撃を受けたようで、初めてを見たときに「なんだこれは!」と叫んだそうな。



 これは長岡駅前にある火焔型土器。



 南の方へ歩いていくと、長岡では有名なラーメン屋「安福亭」があります。
 とにかく大量に乗せられたこってりギトギトの背油が特徴で、太麺との相性もバッチリ。かなり個性的ではありますが、ハマる人にはバチっとハマる。ラーメン好きな方は、長岡を訪れた際にはぜひどうぞ。



 安福亭の近くの三叉路にある千手緑地にも、火焔型土器のモニュメントが置いてあります。これが一番大きいですかね。



 これは夕方頃撮影したものですが、近くには長岡二大神社のひとつ、平潟神社があります。



 ここまで長岡駅から南下してきましたが、長岡の西側を北上していきます。



 ここは長岡では老舗の模型屋「龍文堂」。子供のころはよくお世話になっていました。たくさん並んでいるプラモを眺めているだけでもワクワクしたものです。
 今はもうないけど、昔は長岡駅の東口にも店舗がありました。そっちにはTRPGとかボードゲームとかが置いてあったので、どちらかというと東口店の方によく通っていました。モンスターメーカーと出会ったのも龍文堂だったなぁ。



 龍文堂の先には「まいまいひめ」の像があります。このブログでも前に取り上げたことがありますが、なんか帰省するたびに写真撮ってますね。
 好きんが、まいまいひめ!



 さらに北へ行くと、「長岡空襲 爆撃中心点の碑」というものがありました。恥ずかしながら、これの存在は今まで知りませんでした。
 長岡が空襲に遭ったのは、1945年8月1日の夜。1488人の犠牲者を出しました。長岡祭りの花火大会は、その慰霊の意味も込められています。



 さらに北上すると、山本五十六の生家跡に、山本記念公園があります。



 公園内には山本五十六の胸像が。



 また、山本五十六の生家も再現されています。







 中の様子はこんな感じ。



 近くには、山本五十六記念館もあります。
 前に行ったことがあるし、時間の都合もあって、今回はパスしました。



 山本五十六記念館から東へ少し行ったところに、河井継之助記念館もあります。
 ここも前に行ったことがあるのでパス。ここでは河井継之助の生涯と共に、北越戊辰戦争について詳しく紹介されています。



 さらに東進し、長岡駅の北東部までやって来ました。
 これは江戸時代に作られた農業用水「福島江」。信濃川から水を引き、長岡を南北に縦断しています。長岡藩の表高は7万4千石なのですが、福島江のおかげで実質的には14万石ほどの石高が得られたそうです。それが幕末において、小藩ながらそれなりの存在感を示した一因ともなっています。
 ここにはあんまり写っていませんが、福島江は桜の名所としても知られており、春には川の両側に桜が咲き誇ります。



 この後、長岡駅から東へ4㎞ほどのところにある、悠久山公園に行ってきたのですが、そちらはまた別記事に譲るとして、悠久山から戻ってきた後の駅周辺散策を続けます。



 長岡の道路には融雪パイプが仕込まれていて、冬季は道路から水を出して雪を溶かします。ただ、地下水に含まれる鉄分によって、道路が赤く染まってしまうのです。
 道路が赤いということは当然知っていたのですが、久しぶりに見た正直な感想は、「ここまで赤かったっけ?」でした。まあ、この道が特に赤かったということはあるのですが、それにしても、ここまで赤かったかなぁ?



 駅近くには、四郎丸という地名があります。小学生のころは単に変な名前だなぁとしか思っていなかったのですが、この辺りに四郎丸口門という門があったようで、当然お城に関する地名のはずですよね。
 長岡駅周辺には他にも、城内町とか、殿町、弓町、台町など、お城由来の地名がちらほら見られます。





 これは東の方から流れてきて、長岡城の南、そして90度折れて長岡城の西を通り、信濃川に注ぎ込んでいる柿川です。
 この柿川と、長岡城の東を流れる栖吉川とが、長岡城を守る天然の水堀として機能していました。遺構が残っていない長岡城にとって、往時を偲ぶ数少ないよすがと言っても良いでしょうね。





 長岡駅前に戻ってきたら、大手通が歩行者天国になっていました。どうやら、五十六&継之助まつりが開催されていたようです。
 ちょっと興味はあったのですが、この後用事があるので、会場をぐるっと一周しただけで立ち去らねばなりませんでした。うーん、残念。



 イベントのひとつ、五十六逆立ち競争。山本五十六は逆立ちが得意だったそうです。



 大手通りの交差点の角にある、米百俵の碑。



 最後に、長岡駅構内にある、良寛さんの像。
 長岡駅が改修されるたびに位置が変わったりしていますが、この像は私が子供のころからあり、とても親しみがあります。ビリーバンバンが歌っていた「良寛さん」の歌が脳裏をよぎる……。


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