wisdomというサイトは、内容盛りだくさんで、お薦めです。
盛りだくさん過ぎて、とても全部は読めないけど、
一度、ゆっくり見てみて下さい。
その中でも、”私のキャリアノート”というコーナーは、お気に入り。
村上和雄さん、小柴昌俊さんの話も、とてもいい話でした。
今回は、西澤潤一さん。
第1回分だけ、載せときます。
第1回 「闘い続けるわが独創人生」
終戦直後、私は東北大学電気工学科の学生でした。焼け野原となった街には、必死に
生きようとする人たちがあふれていました。その様子を見ながら私は毎日真剣に考え
ていました。「資源のない島国日本が立ち直り、生きていくためにはどうしたらよい
か」。
考え続けた挙句、「科学技術で立国していくしかない」という確信を持ちました。科
学技術こそが、戦後日本の生命線であると。この時私は一生を科学技術立国のために
貢献しようと決心したのでした。
私はもともと頑固一徹。科学技術で世の中に貢献したいという使命感と、それを実現
するためには「独創」を貫くしかないという信念のもと、今日まで研究人生を送って
きました。
「西澤潤一」というと、どうも「世の理不尽と闘う科学者」というイメージが強いよ
うです。たしかに、私の研究人生は闘いの歴史だといっても過言ではありません。し
かし、私は自分の名利のために闘ってきたわけでは決してなく「独創」をもって世の
中に貢献したいという強い信念を貫いているだけなのです。
私は、日本の科学技術風土になじめなかったのか、日本の学界からは様々な理不尽な
目に遭い、中傷も受けてきました。しかし、私はその都度、自分の主張を曲げず、あ
きらめずに研究を続けてきました。世の中に貢献できる「独創」を何とか世に出した
い一心だったのです。
2002年に世界最大の学会である米国電気電子学会(IEEE)が、私の名前を冠した
「Junichi Nishizawaメダル」を制定しました。日本人としては初めてで、身に余る
光栄を感じています。以前私も受賞いたしましたIEEEエジソンメダルと並ぶものだそ
うで、皆様からはエジソンと並んだと言われ、さすがに恐縮しています。
私は、この4月に新設された首都大学東京の学長に就任いたしました。今でも、私の
信念は少しもゆらいでいません。今、首都大学東京の学長として“独創教育”の実現
に命を燃やしています。
○1+1はなぜ2になるのか?
私は大正15年、父が化学工学者として赴任した仙台市で生まれ、4歳の時に実の母親
を亡くし、“三河義通(きっとう、頑固一徹な三河人)”の血を濃く持つ父親と義母
に育てられました。父は平成13年、満103歳で大往生するまで生涯にわたって私の上
に君臨した専制君主でもありました。
私がまだ、小学校に入る以前のことでした。母と連れ立って歩いているとき、いつも
遅れてしまい叱られていました。それは、「1+1はなぜ、2になるのだろう?」とい
うようなことをいつも考えていたからです。
例えば、「りんご1個とみかん1個を足すと何個になるでしょう?」といった問題があ
ります。普通の考えでは、当然答えは2個となります。しかし、本当に2個と言えるの
でしょうか?なぜなら、りんごとみかんはあくまで別の物体であり、一緒にする(足
す)ことはできないからです。
つまり、2個という答えは単に「数」を足すという前提にたったものなのです。この
前提をはずした場合、答えは別のものになるはずです。子供の私は、その前提にこだ
わり、そこに疑問を抱いていたのです。
私は、これまでの研究人生で「常識や定説を疑え」という態度を一貫してきました。
これは、物事を縛る約束事にとらわれていては、真実を見抜くことはできないと思う
からです。思えば、幼き日の私にはすでにその後の研究人生を貫く姿勢が芽生えてい
たのかも知れません。
このような子供でしたから、小学校に入り父親のゲンコツに強制されて机に向かって
はみても、さっぱり学問が身につきませんでした。小学校低学年のころの私は成績も
かんばしくなく、父は私よりも2歳年下の秀才の弟のほうに期待をかけていたぐらい
です。
ところが小学校高学年になって担任になった先生に可愛がられ、奇跡が起こりまし
た。4、5年時の千葉英胤先生と6年時の高橋裕先生の優しさに触れ、好きな先生に
認めてもらおうと、大いなるやる気が出たのです。その結果、成績は急上昇、中学校
進級の選別を兼ねた卒業試験の成績はとうとう一番になりました。
中学生の頃、生涯にわたって影響を受けた言葉があります。当時の林信夫宮城県知事
が来校されて講演された「未見の我を発見せよ」という言葉です。人間は誰も優れた
能力を持っているが、若い時から切磋琢磨しないとそれに気づかず一生を終えてしま
うといった意味でしょうか。
○戦時下の大学で黙々と実験に励み“特別研究生”に
中学3年の昭和16年、戦争が始まりました。そして戦局いよいよ厳しい折、高校は1
年短縮されて2年で卒業、昭和20年4月、東北帝国大学に進学しました。専攻は、4
月から工学部長に就任する父の鶴の一声で決まりました。
「成績が悪い者が理学部で物理や数学を専攻してもつぶしが利かない。工学部、それ
も通信学科は難しいから電気工学科へ行け」というものでした。しかし、東北大の電
気工学科は、「八木アンテナ」で知られる八木秀次先生以来の伝統を誇る名門でし
た。
大学では、中学のとき水木先生に薦められて高校時代に繰り返し読んだ『現代物理学
の論理』を私なりに実践したいという希望がありました。高圧物理学の専門家で、後
にノーベル賞を受賞した大学者である著者のブリッジマンは、「学問とは、人間が自
然現象を観察し続け、その中に法則性を見出して記述すること」と明示しています。
それに感銘した私は、工学的な手法で裏づけを取りながら科学を探求していくため、
思う存分に実験をしたいと強く感じました。
大学入学後の教養課程での2年間は、教師は戦時研究に忙殺されて休講ばかり。教科
書や参考書も少なくじっくり勉強した記憶もないまま、1年繰り上がった3年目に渡
辺寧教授の研究室で、八田吉典助教授の指導を受けながら卒業研究がスタートしまし
た。
テーマは放電管の絶縁破壊。壊れた実験器具を調整したり、方法を工夫したりしなが
ら黙々と実験を続けました。この時はすでに、自分の頑固一徹ぶりが育まれていた気
がします。こんな努力が実を結んだのか、昭和23年3月の卒業時には成績が1番にな
り、「特別研究生」として返済義務のない奨学金をもらいながら大学に残れることに
なりました。実験に情熱を注いだ結果でした。甚だ成績の悪い1番で、同級生に悪
かったなと思いました。
一方で文学や哲学、芸術などにものめり込んでいました。特に、本については読書と
いうよりも濫読といったほうが良いほどの状態でした。今振り返ってみると、おそら
く今までの人生で5000冊は読破しているのではないかと思います。古本屋さんとは
すっかり馴染みになって、ニーチェやプラトン、キルケゴールの哲学書も濫読しまし
た。
これらの哲学から私が学んだのは、既成の価値観念を破壊し尽くした後に「真実の愛
を基準に本当の価値観を構築していく姿」です。こうして私の人生観は固まっていき
ました。人生とは「愛」を求めることだと思います。私の独創を求める研究人生も
「愛」を抜きには語れません。
こうした、文学や芸術は若い私の心を癒してくれただけでなく、私の研究人生の糧と
なり、土台を築いてくれたと言えます。その後も、研究で壁にぶち当たった時、困難
に見舞われた時など、ずいぶん、文学や芸術に救われたものです。
○“魔法の石”を追い求めて
昭和23年暮、大ニュースが飛び込んできました。私はまだ22歳で、特別研究生になっ
たばかりでした。米国ベル研究所がゲルマニウム(金属と絶縁体の中間の性質を持つ
半導体材料)を使って「トランジスタ」という“魔法の石”を開発したと、連合国軍
総司令部を訪れた渡辺教授から知らされたのです。
何の変哲もない数mm角の固体が、形状が複雑でかさばる真空管に替わって電気を自在
に増幅したり、制御(どちらか一方だけに電気を流す)できる。今になってみれば、
後にIC、LSIへと進化し、エレクトロニクス産業、コンピュータ産業へと20世紀後半
に始まる技術革新時代到来を、高らかに告げる号砲でした。
渡辺先生はさっそく私を含む三人の特別研究生にトランジスタの研究を命じました。
敗戦で荒廃した日本の将来を憂い、世の一隅を照らしたいと気負っていた当時の私た
ちは、トランジスタの研究に挑戦することを決意します。これが私の転機となりまし
た。研究の方向が見えたのです。
トランジスタについて昭和24年当時知らされていたのは、「半導体の表面に2本の細
い金属の針を立てると、一方の針に入れた電気信号が他方の針から増幅されて出てく
る」という断片的な情報だけでした。私は、初めから針2本では複雑だと思い、1本の
針を表面に接触させていわゆる鉱石検波器をつくり、整流特性を調べることから始め
ました。つまりトランジスタよりシンプルなダイオードから攻略しようと考えたので
す。そして、これが図に当たりました。
○ベル研のショックレーとしのぎを削る
一方からは電流が流れるが他方からは流れない、整流特性と信頼性に優れた半導体を
求めて実験を続ける中で、ドイツや米国の文献で「絶縁膜」の存在が特性向上の鍵を
握ると知りました。その理由をあれこれ考えながら、大学院2年目が終わろうとする
昭和25年春、風呂焚きの薪をくべる最中に新しい理論をひらめきました。
半導体には、自由に動き回れる電子が存在する「n型」と、電子が足りなくなって正
孔と呼ばれる空洞が存在する「p型」とがあります。この両者の間でキャリア(電子
や正孔)が移動して電気が流れるのですが、それなら「p型」の代わりに絶縁物を置
けば電子や正孔はより加速されて飛び込み、半導体中の電子が絶縁物中に注入される
こともあり得るのではないか。
言わば、バック台の前に助走区間が出来るようなもので、n型のところを走った電子
はバック台に跳び上がれる、つまり半導体の中で助走が出来るという考えです。私は
これを「ホットエレクトロン注入理論」と名付けました。
ところが昭和25年の夏、米国物理学会誌に、トランジスタの発明で後にノーベル賞を
受賞したベル研のショックレー博士が「pn接合」と呼ばれる新理論を発表しているで
はありませんか。恐る恐る貪り読めば、何と私の「注入理論」とほぼ同じ主旨だった
のです。
先を越されたと悔しがってばかりもいられません。負けん気の強い私は、ショック
レーの新理論を細かく分析していきました。彼の「接合理論」をよく読み返すと、
「pnダイオード」には逆向きの電圧の場合に大きな電圧を加えられず、周波数特性も
落ちる弱点がありました。ところが私は、pnの中間に絶縁性の半導体層(i層)をは
さめば、その弱点を克服できるのではないかとひらめいたのです。
こうして「pinダイオード」と後に世界の半導体製造技術の基本となる「イオン注
入」技術の構想が完成。昭和25年9月11日、私の誕生日の前日に特許を出願しまし
た。
○信念で逆境に立ち向かう
この成果を学会で発表したところ私は総攻撃を受けました。「若造のぶんざいでベル
研の理論にケチをつけるとはなにごとだ!」とはねつけられ、えらい学者先生から
は、公の場で平然と嫌がらせも受けました。
観察と実験を注意深く繰り返し重ねていくと、時折定説とは違うデータが現れる。そ
れを片田舎の若造が実証し、その現象に仮説を立てて報告しても、「文献にない」と
か「欧米では違う」と叩かれる。「珍説」とからかわれ、論文は塩漬けにされ、実用
化研究の協力も拒否され、挙句の果てはほかの研究者に次々に先を越される――。
私にとって初めての学会発表だったのですが、これ以降、私は学界や産業界の理不尽
さと闘い続けることになります。こんなことで私の信念がゆらぐことはなかったので
すが、正直言ってつらい時期でもありました。しかし、このときは無視されたpinダ
イオードでしたが、私はその後も研究を続け、アメリカで評価され大評判になりま
す。
このように、常識や定説にばかりこだわっていては、「独創技術」など生まれようも
ありません。科学技術立国の実現を願う若い私は、こうした逆境にも打ちのめされる
ことなく、ますます果敢に立ち向かっていったのです。
一方で私は、ごく自然と「光」分野の研究に入って行きました。そこで、光通信の三
大要素である「光⇒電気(フォトダイオード)」「光伝送(光ファイバ)」「電気⇒
光(半導体レーザー)」のすべてについて発明することになります。次回はその経緯
からお話しましょう。