【カクシュ】
友人が以前、日本酒の酒蔵に見学に行ったとき、そこの杜氏さんが教えてくれたという話。
見学の後、旅館で宴会をし、そのまま二次会に入って、部屋で呑み続けるのが普通の流れだという。いつもは杜氏さんは一次会でお帰りになってしまうのが常だった。
あの仕事は朝早いから。
だが、今回出席された、そのかなりお歳を召した杜氏さんは帰られない。
聞くと、今年の仕込みも終わり、これで引退を考えているので、明日は休みを取ったとのこと。杜氏さんと夜更けまで酒が飲めるなんて中々出来ることではない。
仲間は皆めちゃくちゃ喜んだという。
酔った勢いか、「ココにゃー、恐ろしい酒がある」と、杜氏さんが口を滑らせた。
皆即座に食いついた。
その酒蔵はT県にあり、純米吟醸としては、結構な石高を出しているところだが、そこの蔵の奥の古蔵には、見るのも呑むのも禁止された、禁断の酒があると言うのだ。
「カクシュ」と杜氏さんは呼んでいた。
杜氏さんいわく、自分も飲んだ事はない。しかし若い頃、箱の封印を解いてその酒瓶を見た事があるという。
杜氏さんの言ったことを要約すると以下の如し。
口の広い、白い陶器製のカメに入り、同じ陶器製の蓋がはまっていた。
それは大きな骨壷の様にも見えて、気味が悪かった。
凡字のようなものが書かれた細い帯で、何重にも厳重に封印されていた。
かなり古いもののようだった
振るとジャボジャボンと音がした。ゴツっという音も時折する。
蓋を開けると、何か骨のようなものが漬けられていた。
原酒のような、かなり高いアルコール濃度の酒のようだった。
匂いを少し嗅いでみると、気が遠くなった。
何かヤバい気がして、口をつけることが、どうしても出来なかった。
「そこまでしながら、どうして呑まなかったのですか?」と聞くと、畏れ多くて呑めたものでは無かったという。
杜氏さんはその後、当時の杜氏長に、めちゃくちゃ怒られたそうだ。
もう少し匂いを嗅いでいたら、呪いと毒で本当に死んでいたぞと怒鳴られた。
長は、若い杜氏さんに泣きながら説教したそうだ。
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「なんだったんですか?結局?」皆は興味深深。
「変な動物の骨と角を漬けてあった」と、杜氏さんは答えた。
以下はその杜氏さんが杜氏長から内々で教えて貰った、その骨と角の話。
聞いた後、全て忘れろと言われたという。
1800年代。当時T県の山奥の村では飢饉に喘いでいた。時は天保の大飢饉の頃。
平地では食えるものは全て採り尽くしたあと、食用になるものを求めて、ある樵が山中をさ迷っていたとき、山道の向こうから、牛と猿の合いの子のような動物がこちらにトコトコ歩いてきているのを見た。
樵は思った。
丸々と太ったその動物を仕留めて持って帰れば、村全体が暫くは凌げる。
それともウチの家族だけで独り占めしようか。肉を塩漬けにすれば数ヶ月は持つだろう。
どうやって連れて帰ろうか?ここで殺すか?俺に卸せるのか?
樵の思案を読んだように、その動物は言葉を喋ったという。
「俺を喰っても美味くはないぞ」
「おまえの村に残っている小豆を、少し喰わせてくれたら、おまえの村を救ってやる」と。
樵は考えあぐねた挙句、取り敢えず村まで連れて行くことにした。自分独りでは、この言葉を話す動物は手に負えないと思ったから。
そいつは、お気楽な感じで素直にトコトコついて来たそうだ。
既に小豆など、とうの昔に食い尽くし、もう何人も食いぶちを間引いていた村人は、樵の話などに耳を貸さず、早速にこの動物を殺して卸そうと殺到した。
十数人がかりで打ち据えた。
でも、その動物は鎚や鍬で頭を何回叩かれても死ななかったという。
腹を裂かれ、体をバラバラにされながら、その動物はずっと静かに呪いの言葉を唱えていたそうだ。
結局、その動物の肉を喰った村人は、じきにその全員が血と自分の臓物を吐いて死んだ。
その肉にありつけなかった女子供や、力の弱い村人だけが逆に生き残ったのだと。
その後、その動物の屍骸はどうなったか?
杜氏長の話はここまでだったという。
何故、忘れなければならない話を俺にしたのかと杜氏さんが問うと、アレを見た者はその謂れを知る必要があるからだ。と杜氏長は言った。
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酒蔵というものは、本来年貢として徴収されてしまうはずの米の、少しずつの上澄みを小作から集め、酒にして売り、その金を小作に還元することが出来た数少ない庄屋さんが前身の場合が多い。村人にとっては当時の現金収入は、何物にも変え難い。
それが本当の意味での「庄屋さま」だ。
故に、そういった酒蔵や醤油蔵は、今でもその地域の盟主であることがが多いのだと。
この酒蔵も例に洩れず、現在は政界財界に口が聞く、その道では知られた存在だという。
ワシはもう辞める。もう、あのカクシュがあるこの蔵に来ることは無い。
アレがあの古蔵にあることは、今の若当主も知らないかも知れない。
この話もあんたたちには関係がない。忘れてくれ。
あんたたちが騒いだところで、何の影響も及ぼすことは無いし、出来ない。
まあ、そもそもあんたたちはアレを見ていないからな。及ぼされる事は無い。
そう杜氏は哄ったという。
酒には呑む以外にも、幾つか用途がある。ひとつは消毒、もうひとつは漬けた状態にしての保存だ。昔は首級も実見に持って行く際には酒樽に漬けていた。
杜氏さんはオジジにこう言われたそうだ。
あのカクシュは呑むモノじゃない。あの骨と角を末永く保存するために、清く酒漬けにしてあるのだと。
いつか誰かが、何かの目的のために、それを使うことがあるかもしれないから。
-終-