【場末の呑み屋でPeaceを叫んだジジイ】
行きつけのバーがある。
大将は頑固者だが、気さくで、老若男女から人気があった。
こじんまりしたカウンターだけの店には、古くから各界の人々が三々五々集まり、すぐに顔見知りになって、酒と肴を楽しんでた。
おいらも、通い始めて数年になる。
その夜は、小雨の降る肌寒い日だった
「ごめんねババア」の事故以来、ずっと胸にサポーターを巻かされ、息もろくに出来ない状態で、おいらは結構消耗していた。
何故か、急に熱いものが苦手になった。風呂に入るとき、コーヒーを飲むとき、決まって左胸の折れた肋骨の周りが、ギューっと疼く様になっていた。
もうニヶ月以上、この状態が続いている。
不気味なことに、胸には痣のようなものまで出て来た。
病院で言われた通り、どうも右手のような形にも見えてくる。
…考えすぎだ。
気味が悪いが、取り敢えず気のせい、ということにしていた。
こりゃ、冷酒で凌ぐしか楽しめない。
客も殆ど居ない。裸電球も数人の影を投げかけるだけだ。
小雨のはずなのに、音がやけに大きく聞こえる。
カウンターの向こうの大将も、「こりゃ早仕舞いだな」という。
その時、引き戸がカラカラと鳴って客が入って来た。
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見慣れない顔。一見だろうか?
年齢は多分七〇を過ぎている。店の大将と同じ位か。
その割には、Gジャンに濡れたサンダル、ほぼ総白髪を真ん中から分けた長髪で、ヒッピーがそのまま年とった感じの風体だ。
「席はー、あいとるかのう?」
まるで広島弁の三船敏郎がやって来たような声だった。
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「平和が一番じゃ!のぅ、そう思わんか?」
「ピースじゃ!ピース!ピース!ピース!はははははは!」
うるさいジジイだ。
何が楽しいのか、一人で騒ぎ散らして、さっきからピースを連発している。
いつもは朗らかな大将も、顔をシかめている。こういう客は迷惑だ。
「あのー、すみませんが…少し静かに呑めませんか?」思い切って諌めてみる。
そのジジイはきょとんとして、暫くおいらを見つめ、ついで興味深そうに目を細めた。
「にーさん、かなりヤバくなっとるのう」
「何がです?」
「後ろのも、かわいそうに…おぅ、にーさん、もうフラフラじゃ。勘弁してやれぇ」
「?…そんなに呑んでませんよ」
最初の言葉は上手く聞き取れなかった。
てっきり、酔っ払ったおいらのことを言われていると思った。
「違うわ、わかっとらんのー」
ジジイの表情が険しくなる。
「コリャいけん。のぅ、表に出よっとかい、ワレ」
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あー、ヤバい。
殴られる、と思った。
何か言い訳を取り繕って、この場を凌ごうと思った。
言葉が出ない。
睨み付ける視線に完全に縛り付けられていた。
意識に反して、身体が席を立ち、視線に逆らえないまま、店を出てしまった。
雨の中をしばらく歩く。じわじわと身体が湿ってくる。雨の音が、さっきより更に大きくなった。
前を歩いていたジジイは振り向きざま言った。
「にーさん、何でそげなモンにつかれおる?」
「かわいそうにのぉ。じゃけん、おんどれはそこに居たらいけん」
言われるや否や、ドンッと凄い音がして、おいらは胸をドつかれた。
折れた左の肋骨にモロに響く。息がつけずにうずくまった。
おいらのすぐ後ろにあった、別の飲み屋の看板がバリンと音を発てて倒れた。
「!」
振り返ると、壊れた看板の中に、モゾモゾ動く小さなものが見えたような気がした。
目を凝らしたが、灰色で捕らえどころがない。ちっぽけなイキモノのような。
そいつは、確かにギィィイッと微かに一声叫んで、ヨロヨロと暗がりに逃げて行った。
ジジイは言った。
「…オカッパ髪じゃったのぅ」
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唖然と立ち尽くしていたおいらは、促されるままに飲み屋に戻って、ジジイと話をした。ようやく身体の自由が効いてきた。
そして、ごめんねババアの経緯を話した。肋骨に絡み付いている白い手の話も。
「オカッパって…女の子ですか?」
「おう、五歳くらいのな。あいつは元の場所に戻るじゃろ。気にせんでええ」
ジジイいわく、強い恨みは感じられない。しかし自分が死んだことに、気付いていないのではないかと。
しかもジジイには、火傷の跡が見えたらしい。その女の子の直接の死因も、多分それだという。酷い火傷を負って、程なく亡くなったのだろうと。
「そこら辺の辻には色んなモノがおる」
「来るモノは四方から集まって来よるが、ハテ、その後、そいつらはそれから逝き先を決められん。何処へ向かえばいいのか」
「ゆえに溜まってしまうんじゃ。昔からのぅ」
そこはモノが溜まりやすい四辻で、気をつけて運転しているのに関わらず、ちょっとしたタイミングで出合い頭の事故が絶えないのも、ほぼ同じような理由だという。
結局のところ、あの時ぶつかった瞬間、あの女の子は偶然にもおいらに乗っかってしまったのだ。
「じゃ、あのバアさんは?」
「母親。ずっとその娘と一緒におったと思う。戦争の時から、六〇年以上、ずっと」
いきなりの「戦争」という単語に驚いた。
雰囲気出しの裸電球が一瞬、瞬いたような気がした。
おいらはシャツを捲くり上げて、左胸に浮き出した痣をジジイに見せた。
案の定、それは消えかかっていた。
内心ホッとしながら、「この右手にアバラを掴まれていると思う」と告白する。
痣の跡を見ながら、ジジイは言った。
「違う。ソレは左手じゃ」
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「は?」
この痣は、あの白い手が掴んでいたのは、前からではなかった。
左手ということは…つまりあの娘は、おいらの背後からしがみついていたのだ。
おいらとぶつかった瞬間、女の子は母親から振り飛ばされ、とっさにおいらにしがみついたのだろうという。
肋骨が二本折れるほどの強い力で。
『マ・ッ・テ・オ・カ・ア・サ・ン』
解った。あの声の意味が。
でもあの時、バアさんはこっちを振り返らなかった。自分の娘が見ず知らずの男の背中で叫んでいたのに。
なぜ、それに気付かなかった?母親なのに?
「気が触れていれば、それも解らんよ」
いずれにしても…、とジジイは言葉をつなぐ。
「にーさんは、その娘をおぶって、知らずにずっと逃げておったのよ」
「何から?」
「熱い、熱い、熱気からじゃ。空襲の火災のな」
これにも妙に納得した。
近頃、熱いものが苦手になっていた理由。
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あのバアさん…母親は、空襲から逃げているときも、ずっと背中の娘に謝り続けていたのだろうか?
多分、もう息のない娘に。「ごめんね」「ごめんよ」と。
あの暗闇に消えた白髪頭を思い出した。
娘を死なせ、おかしくなった頭で、今もその亡骸を背負って、半世紀以上も、永遠に続く空襲から逃げ惑っているのか。
今では自転車に乗って。
この街の、そこかしこの四つ辻を巡って。
-終-