【紅月の鬼】
今はもう亡くなってしまったばあちゃんの話。
終戦後、中国から内地に引き上げて来て、新潟に居を構えた母方の祖父母だ。
じいちゃんはなんとか仕事に復帰し、家族はようやく何もないところから人並みの暮らしで再出発ができようとしていた当時のこと。
じいちゃんの帰りはいつも遅かった。
夕暮れ、お袋の妹(おいらにとっては小母さん)が熱を出して寝込んでた。たぶん風邪をこじらせたらしい。
なかなか熱が下がらず、苦しい息で布団のなか喘いでいる。
風通しを良くしようと、それぞれ東・南・北に向いた障子窓をすこしづつ開けておいたという。
東向きの障子窓の隙間からは、昇りはじめた紅黒い満月が大きく顔を覗かせていた。
月明かりを受けた赤暗い部屋のなかで、ばあちゃん、伯母さん、お袋は三人揃って小母さんの看病をしてた。
障子窓から、風がひゅうと吹き込んできたのに気づいた伯母さんが、それを閉めようと東向きの障子に手をかけたとき、外に何かを見た。
なんだろ?
向こうの畦道から、提灯の明かりが近付いてくる。
紅い月明かりの逆光で、誰だかは判らない。
目を凝らすと、何かをずるずると引きずっていることに気づいた。
「お母さん!お父さんが帰ってきたよ!」
小母さんの氷嚢を変えながら、ばあちゃんがいう。
「お父さんはそっちの道からは帰ってこないよ」
「じゃあ、あれはだれ?」
提灯の明かりは、次第に近づいてくる。そしてその速度が速くなってきた。
こちらに走って来ているのだ。
ずるずるずる!ずるずるずる!ずるずるずる!引きずる音も大きくなる。
お袋も、この音に反応して不安そうに叫んだ。
「お父さんは、出る時、こんな音のする荷物持っていかなかったよ!」
おばあちゃんはとっさに、障子窓に飛びつき、横で動けないでいる伯母さんに叫んだ。
「●子(伯母さんの名前)!早くそれを閉めなさい!」
ぴしゃり… 言われるまま障子を閉めた、その途端、
バァアアン!
すごい音がして、閉めたばかりの障子戸が大きく歪んだ。障子紙が吹き飛んだ。
まだ身体の小さかった伯母さんは、後ろにのけぞって尻もちをついてしまった。
ゴロ…ゴロゴロ…ゴリゴリゴリ!
次いで、漆喰の外壁を削り取るような音が、向って右手の壁の向こう側を、南へと移動し始めた。
-----
その先には南向きの別の障子窓がある。
今度はばあちゃんが、転がるようにその窓にとりついて、しっかりと身体で抑え込んだ。
ゴリゴリという音はそこを通り過ぎ、西側に回り込んでくる。
その先はもう一つの部屋に続く、西向きの引き戸だった。
「○○(お袋の名前)!そっちの戸をしっかり閉めなさい!」
必死に戸を押さえつけるお袋のすぐ向こうを、ゴリゴリが通り過ぎる。
その先には北向きの窓があった。
「お母さん!」
「●子!北向きの窓を閉めなさい!」
伯母さんは泣きながら北向きの窓を抑え込んだ。
間一髪、その向こうをゴリゴリが通り過ぎた。
ゴリゴリは、とうとう家の周りを一周して、北の窓から再び、東向きの最初の障子窓にやって来ようとしている。
だが、三方を三人で守っているため、窓を守れる人はもういない。
部屋の真ん中では、小母さんの喘ぎがひどくなってきた。
障子紙も破れてる。
その向こうに、血のように紅い、大きい満月がこちらを向いていた。
表面のあばたが、意地悪そうに笑っているように見えたという。
「お母さん!」
「それを見るんじゃない!」
それぞれに南・西・北を守っていた三人は、しかし東向きの破れた障子窓から目をそらすことができなかった。
障子紙が破れたその格子の向こうに、金棒を振り上げた影がこちらを見ていた。
赤い鬼だった。
3人はそのまま気絶した。
朝、目を覚ますと、3人は真ん中に小母さんを置いたまま、3方向の窓や戸を掴んだまま倒れていたという。
おじいちゃんが朝方に帰ってきたとき、自分の家の壁に横向きに何かを擦ったような深い傷がついていて、びっくりしたそうだ。
それ以降、おじいちゃんはなるべく早めに仕事を切り上げて帰ってくるようになった。
幸いなことに、小母さんの風邪は、そのまま次第に完治したそうだ。
-終-