<「払田鳥ノ木」の県道脇から「払田の柵跡」方面を望む>
●歩いた日:2019年7月9日(火)
●歩いた所
・払 田:鳥ノ木、館前、森崎、早坂、下払田、下川原、宝龍
・板見内:一ツ森
・高 梨:穂田原、於園、上り場
●歩いた位置
●歩いたログ(足跡)(道のり6.1km)
(以上の地図:国土地理院)
前回のブログ「旧千畑町千屋を往く-3」の最後で、次にどこを投稿するか、をまだ決めておらず泥縄式になってきた、と書きました。その後、改めて「ブログに掲載したログの累計」を眺めてみると、「千屋を往く-2、3」で「払田の柵跡」辺りから「東山」の麓の「一丈木」まで足を延ばしたものの、「柵跡」の西側が空白になっており、以前のログと繋がっていないことがわかりました。繋がっていてもいなくてもどうでもいいことですが、何となく気になってきて、ログを繋ぐように歩いてみようと思い立ちました。そこで、「駒ヶ岳ムーミン谷」に登ってから3日後の7月9日に、空白地域に当たる「旧仙北町払田」出かけました。
それでは本文に入ります。
「払田の柵跡」のすぐ南側に、県道50号を挟んで「秋田県埋蔵文化財センター」と「払田柵総合案内所」がある。「大曲」方面からそこに向かうと、その少し手前(西)に道路公園があって車を止められるはずだ、と思い車を走らせる。近くまで行くと「払田柵道路公園」の大きな標識があり、道の右手には柵を模して木を立て並べたかなり広い広場があるが、駐車できるような場所が見当たらない。広場の東の端の方に県道から入れる小さな空地を見つけ、そこに車を止めてスタート。
まずは、以前に「払田の柵跡」を歩いた(「高梨を往く-2」)ログと繋ぐため県道を東に向かう。県道の左手にある「払田柵総合案内所」のすぐ手前で左に折れる。この先の道は「高梨を往く-2」で歩くスキーで歩いた道である。県道から逸れたところで東にカメラを向ける。
(「鳥ノ木」の県道脇から東を望む)
右端が県道で道端に「払田柵南門←」の案内板がある。並行して流れる川は立て看板にあるように「払田川」。平屋の建物が「払田柵総合案内所」で「払田の柵」に関する資料などが展示されおり、歴史好きの人には是非見てもらいたい施設である。 左奥が柵の政庁があったとされる「長森」である。
県道から道なりに北、そして左折して西に進むと、道に右手に家が建ち並ぶ。この辺り、「館前」である。「館前」は文字通り館(ヤカタ)の前という意味合いであるが、ここでいう「館」は「長森」の西隣の「真山」にあった戦国時代の城、「堀田城」のことのようだ。現在の大字地名、「払田」もこの城の名に由来するらしい。
なお、「真山」の一番高いところには、東北三大地主の一人であった「高梨」の「池田家」」が建立(T5年)した「高梨神社」が鎮座する。(「高梨を往く-2」に記載)
家並が途切れると右手前方の「真山」の麓にその「池田家」の「払田分家」の庭園が見えてくる。十字路突っ切ってその庭園の脇を進んでいくと、道端にひと際大きな松の木が立ち並んでいる。
📷001:「池田家払田分家」の正門跡
道から少し入ったところに「正門跡」と書かれた古い写真が立て掛けられ、りっぱな門の前で軍服姿をした若者を中心に20人ほどの男女が写っている。
(昔の「正門」が写る古い写真)
出征の折に家族や親族が門前に集まって撮った写真である。大きな門を塞ぐように二本の国旗が斜めに掲げられ、さらに当主と思われる白い顎髭の年配者の前に写る日の丸には「祝出征 ○○○○君」の文字が見える。
写真裏の説明書きによると、正門を入ってすぐ右手に米蔵があって、戦後、その米をトラックで運ぶ際に門が支障になるので、写真の棟門(と云うようだ)は西側の現在の位置に移されたとある。
また、説明書きには「現在の位置(正門跡)から・・・散策して見ませんか」とあるので、中を少し散策することにする。
(その2に続く)
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