天真寺日記

天真寺の日々を綴ります

ベルちゃん手術前

2006-07-07 23:30:14 | 天真寺
家に帰ると、
天真寺看板犬ベルちゃんに食べ物をあげては×と言われた。
どうして?と聞けば、
ベルちゃんは16歳という高齢のため、
おしりに腫瘍ができ、明日手術をする。
そのため、前日はPM6:00以降は何も食べていけないというわけ。


(お腹を空かせたベルちゃん)

夜中というのに、かわいそうにお腹を空かせている。
でも、何もあげられないのである

そんなベルちゃんの姿を見ながら、私の尊敬する先生のお話を思い出した。

学生時代、勉強したくなかった。
その時、先生に「勉強をしたくないならしなくていいよ」と言われたら、
喜んで勉強をしなかっただろう。
しかしそうしていたなら、今どんな人生を歩んでいただろうか?
先生も注意することは嫌だが、生徒の将来を思ってのことなのだ(感謝)

というお話。

私たちは、仏様に何かにつけて願い事をする。
学業祈願・商売繁盛・家内安全・・・・
私も、仏さまは願いを叶えてくださるものと思っていた。
が、阿弥陀様という仏は、私たちの願いを思い通りに叶えてくれることはないという。

果たして、私は自分の思い通りの人生を歩んできたならばどんな人生になっていただろう。
いいことばかりであったろうか?
「人生は山あり谷あり」といわれるように、
悲しみ・苦しみ・喜びなど様々な瞬間があるが、
その一瞬一瞬が、私たちの人生を彩るのである。

苦しみ・悲しみが、単なる苦しみ・悲しみで終わってしまったならば、それは不幸であろう。
そうではなく、光り輝く瞬間があるのではないか。
今すぐには分からないかもしれないが、私の人生の1ページなのだから。

そんな一瞬一瞬を大切にするように教えてくださるのが仏教の教えであり、
お釈迦様が歩まれた道であろう。
その一瞬一瞬を見守っていてくださるのが阿弥陀様という仏であろう。

そう思いながら、ベルちゃんの手術成功を願う自分がいる。

(龍)



まつどジャーナル

2006-07-06 09:42:14 | 天真寺
先日取材を受けた『まつどジャーナル』に若住職の「ザ・インタビュー はじめまして」の記事が掲載されました。
いろいろなご質問に何気なく答えたことが、ちゃんとした記事になって出来上がってくるから驚きます。
ここは取材下さったFさんの実力ですね!
せっかくのご縁なので、記事をご紹介させていただきます。

「ザ・インタビュー はじめまして」
   天真寺若住職 西原龍哉さん

 昭和51年12月松戸に生まれ、地元の小、中学を卒業。東京の高校そして法政大学法学部とすすむ。「卒業後は、司法書士か弁護士に憧れていましたが、実家が浄土真宗本願寺派の天真寺と言うこともあって、築地にある東京仏教学院で1年間仏教学を学びました。その後、京都の勤式指導所でお経や雅楽の勉強をしました」と、まっすぐ前を向ききちんと背筋を伸ばして話す。
 さらに、伝道院で、百日間籠もってご法話の勉強をした。龍谷大学で修士課程を終えて昨年松戸に戻った。
 現在は、若住職としての仕事の他、アーユス仏教国際協力ネットワークのスタッフとして週2~3回働いている。主に事業関係を担当し、ホームページを通じていろいろな情報を発信している。
 これからは、「お寺は、利害関係を超えて人と人が集まれる場所だと思うので、子供からお年寄りまで何かを楽しく伝える活動の拠点として足を運んで頂きたいと考えています」と。
 ご両親をお姉さまとサポートしてお忙しい毎日を過ごす一方、暇があれば、パソコン、フットサルを楽しみ、温泉、芋焼酎大好きな、若い今風の青年お坊さんである。

なお、新聞にはドアップの写真も載せていただきましたが、ここでは省略させていただきます。

(静)
 




ハンセン病

2006-07-05 22:13:53 | 日々
千葉組僧侶研修会で、
草津にある国立療養所栗生楽泉園(ハンセン病患者の療養所)を訪問。

ハンセン病とは、
1873年ノルウェ-のハンセン氏が発見した「らい菌」によって
主に皮膚と末梢神経が侵される感染症のひとつ。
この菌の毒力は非常に弱く、化学療法の発達によって治癒するようになりました。
が、化学療法がなかった頃、
この病気は不治の病と考えられ恐ろしい伝染病のように受け止められてきました。
そのために、「らい予防法」によって、
全ての患者をハンセン病療養所に終生隔離するという対策がとられました。
(1996年「ライ予防法」廃止)
その療養所の1つが栗生楽泉園である。

ハンセン病は不治の病、遺伝病(感染する病)であると思われていたため、
強制収容にあたっては、患者や家族に事情等は全く無視され、あたかも罪人の逮捕と同様の扱いで、野良着姿のままトラックに押し込まれていった
親や兄弟と一緒に暮らすことが出来ない
実名を名乗ることが出来ない
結婚しても子供を産むことが許されない
一生療養所から出て暮らせない
亡くなっても故郷の墓に埋葬してもらえない
さまざまな非人間的な扱いをされたといいます。

元ハンセン病患者の詩人・塔和子さんに「いのち」という詩がある。


「・・・・笑い泣き/しなやかに飛びはね/すいっと立ち/どんな精巧な細工師の手になるものより/美しい/いのち/この微妙に美しくもろいもの/私も他者も/この神秘な/命の圏内にあり/そこからはみ出すと/忽ち/物体」
(『塔和子全詩集』編集工房ノア)

美しくもろい「いのち」が私たち人間が作り出した価値観の中で「物体」と見なされてしまう悲惨さ。
病にかかった悲しみよりも、
私たち人間が作り出した自分にとって有益か無益かという価値観。
そして、無益なもの有害なものは排除をしようという価値観。
健常者至上主義による悲しみの深さを感じます。

今日講演を頂いた栗生楽泉園自治会長 藤田三四郎さんがこうおっしゃっていた。
「ライ予防法」廃止、違憲国家賠償請求などは、患者の運動で勝ち取ってきた。
しかし、取り除けないものがある。
それは、差別・偏見の眼差しである。
今だに、実家に帰ったことがない。

最後に、
ハンセン病という病で苦しんでいた人がいたことを風化させてほしくない。
ハンセン病とは、不治の病ではないということを伝えたい。
と講演を締め括られた。

今を生きる私たちは、
ただ差別・偏見のまなざしをやめようという議論も必要だが、
その苦しみ・悲しみ時代を生き抜いた人々のメッセージを受け取ることも大切ではないだろうか。

納骨堂の広場にこんな看板が立っていた。
「さえずる宝石 緑が守る」

環境破壊・生きる意味の喪失・・・
今私たちの思いを超えた世界が、私たちの価値観を揺るがすような世界が広がっているのではないか。

(龍)


本願寺新報

2006-07-04 21:05:32 | 天真寺
7月10日にお寺で開催するボランティア「ボランテラ~布チョッキン」に『本願寺新報』の方が京都より取材に来て下さることになり、今日お電話をいただきました。

『本願寺新報』とは、天真寺が属する浄土真宗本願寺派のご本山・西本願寺から発行されている宗門内の新聞です。
御法話や全国の別院の行事の案内、活躍される方々の紹介の記事など、内容充実でとても勉強になる内容です。
また、写真もたくさん載っていますので、私たちも楽しみに拝読しています。

今度のボランティアの機会は、
お寺を地域の交流の場として活用いただき、
またお寺が社会に積極的に関わる機会にできたら、と願っております。

初試みですので、たくさんの方がお集まり下さり、少しでもお役に立てればうれしいな~と思っています。
ぜひ皆さまご参加下さい

また今日、
地域のミニ新聞に出したお知らせを見て下さったご近所の方が、
わざわざ歩いて寄付の布をたくさんお持ち下さいました。

その思いに感謝し、布を役立てるためにも、
当日はチョキチョキ私もお手伝い頑張ります

(静)





お寺の「魔法」

2006-07-03 09:56:28 | 仏教
今日の「朝日新聞」の朝刊25面の読者投稿のコーナー、「ひととき」。
『お寺の「魔法」に感謝』というタイトルでした。
「お寺」とあるのでちょっと目を引き、読んでみました。
記事の内容をご紹介しますね。

  『お寺の「魔法」に感謝』

 小学4年の孫を珠算検定の試験会場まで車で送った。
 初めての試験なので「どうしよう」と落ち着きがない。
 運転しながら「初めてだから、練習のつもりでやればいい」「落ちたら、また受ければいい」「深呼吸しよう」などと言ってみたが、聞こうとしない。
 どうしたらいいかと思っていたそのとき、道の向こうにお寺が見えた。
 そうだ。これだ。
 時間に余裕があったので、境内に車を止めた。
 「ここは、おまえがお母さんのおなかの中にいるとき、丈夫に生まれますようにと、お参りしたところだから、生まれる前から守ってくれているんだよ」。そう説明し、「お参りして行こう」と誘った。
 「声に出してお願いするの」と聞くので、「出しても、心の中で言ってもいいんだよ」と話した。
 孫は、私が渡した硬貨を投げ入れ、黙って手を合わせた。
 効果はあった。試験が終わって出てきた孫は「できたよ。守ってくれたのかな」。
 普段、神仏を信じないのにこんなときだけ利用したようで後ろめたいが、いくら言い聞かせても落ち着かなかった孫が平静を取り戻した。
 結果はどうあれ、落ち着かせてくれたお寺の「魔法」に感謝している。

 (水戸市・女性63歳)


いろいろ考えさせられる、興味深い内容だな~と思いました。
やはり一般的にお寺は「願いごとを叶えてもらうところ」というイメージか、と思ったこと。
それから、お参りした後の反応も面白く読みました。
大人は「利用したようで・・・」と後ろめたい思いをし、対照的にお孫さんは「守ってくれたのかな」と素直に受け取っている様子。

お寺でお参りしたからといって、
仏さまは決して自分の都合通りのお願いごとを叶えてくれるわけではありません。
私たちは生まれた限り、
病気の苦しみも、大切な家族と別れる悲しみも、死ぬこともすべて避けることはできません。
他にだって、
試験に落ちたり、失恋したり、容姿に悩んだり、嫌いな人がいたり・・・
日常の些細なことすら思い通りにならないことだらけで生きているのが現実です。

お参りすることは、決してその悩みをなくすことではないのです。

どんなつらいときでも、悲しいときでも、苦しいときでも、
一人じゃないよ、いつでもどこでもあなたのことを見捨てないよ、だからどんなことがあっても安心して生きてほしい、と願いをかけて下さっている仏さまのおこころに、お参りすることを通して触れることが大切なのです。

この「お寺の魔法」とは、まさに仏さまのはたらきそのもの。

試験の合否とは関係なく、
仏さまにお参りすることでまるで魔法にかけられたように安心できたというのは、やはり子どもさんだから。
きっと素直な心に仏さまのこころが届いたのかな、と感じたことです。

(静)