余話渋沢栄一の生涯(1話)
渋沢栄一を取り巻く人々
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
渋沢栄一は、天保11年(1840)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市)に養蚕と製藍を営む父、渋沢市郎右衛門 、母、栄の長男として生まれました。幼名は市三郎、6歳の時に母の名をとって栄治郎と名付けられた。
生家は血洗島村に10数軒ある渋沢家の宗家(渋沢3家の中ノ家)で、当主は代々、市郎右衛門と称し有数の家柄でした。
地名の血洗島とは「赤城山の山霊が他の山霊と戦って片腕を砕かれた。その傷口をこの池で洗ったとの伝説の地です。古代、この地は、利根川の地域で、寛政時代には50戸、大正の頃は63戸の村落です。渋沢家は清和源氏で足利一族と云われています。
栄一の父は、渋沢家の婿養子で、性格は非常に真面目、些細なことでも几帳面な人でした。
勤勉家で、農業をはじめ、養蚕、藍の製造、販売、村人に金の融通もするなど、農、工、商、金融業を営んでいました。この様な家庭環境の中で栄一は育ちました。 また、父の市郎右衛門は、初めは武家になって身を立てようとしたこともあり、武芸はもちろん、学問も四書五経に通じ、俳諧の号は「晩香」と称しておりました。
栄一が6歳になると、父が自ら漢籍の素読を教えました。栄一は、卓越した記憶力を持ち、知識欲も盛んだったため、1年の間に、孝経、小学、大学、中庸と進み、ついには論語にまで及んだと云われています。
7歳になると隣村の従兄で10歳ほど年上の尾高惇忠の許へ通い、四書五経のほかにも『国史略』『日本外史』なども学びました。 尾高は、学問を好み、博覧強記で志士的な風格も備えていた人です。
栄一は、剣術も12歳頃から学び、稽古にも熱心で上達も速く後に千葉道場に入門します。
14歳になると、近村を回り、家業の藍の製造に欠かせない藍葉の買い付を行い、商売を初めます。渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕の他に、麦、野菜の生産も手がけ、原料の買い入れと販売を担うため、常に算盤(ソロバン)をはじく商業的な才覚が求められました。栄一も、父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行いました。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験が徳川慶喜公の命でバリ万国博覧会に赴き、ヨーロッパの経済システムを学び、後の現実的な合理主義思想に繋がったと云われております。
安政5年(1858)一般的な名を栄一郎と改め、本名を栄一としました。同年の12月に尾高の従妹の千代と結婚します。
文久3年(1863)は、栄一の生涯を通してもっとも特筆すべき年でありました。嘉永6年(1853)のペリー艦隊来航を機に鎖国体制は終わり、安政5年に幕府は、米国等と修好通商条約を結びました。
開港と自由貿易により政局と経済は混乱し、外国人排撃を唱える攘夷論が尊王論と結びつき過激化し、文久3年には朝廷が幕府に攘夷の実行を迫るなど、尊王攘夷運動が高揚して来ました。これらの動きに呼応して、血気盛んな栄一は従兄の尾高惇忠、渋沢喜作と共に攘夷決行の高崎城攻略、横浜焼き討ちの計画の密議したのです。
渋沢栄一の一族
◎先妻の千代
渋沢栄一の妻、ちよ(1841年 - 1882年) - 千代、千代子とも表記されています。渋沢歌子、琴子、篤二の母。尾高惇忠の妹であり、栄一とは従兄妹同士。30歳の時、コレラで死亡しました。
夭逝した子供、庶子を含めると多数の子女がいたが、嫡出の7人の子女とその配偶者およびその子女によって渋沢同族会が組織されました。
◎ 長男:市太郎(1862年) - 母は千代。夭逝[。
◎ 長女:歌子(1863年 - 1932年) - 母は同上。宇多とも表記される。法学者で後に東京大学法学部長、男爵、枢密院議長となる穂積陳重に嫁ぐ。著書に『穂積歌子日記』みすず書房。
◎ 二女:琴子(1870年 - 1925年) - 母は同上。こととも表記される。大蔵官僚で後に大蔵次官、大蔵大臣、東京市長、子爵、龍門社理事長となった阪谷芳郎子爵に17歳で嫁ぐ。
◎ 三女:伊登[(1871年 - 1872年) - 母は同上。夭逝。
◎ 次男:篤二[45] (1872年 - 1932年) - 母は同上。澁澤倉庫会長、妻は公家華族橋本実梁伯爵の娘敦子。渋沢家嫡男であったが1913年に廃嫡となり、18歳となった長男の敬三が嫡孫となる。理由は諸説あり定かではない。新橋の芸者・玉蝶との遊蕩を理由との説もあるが、事業家というより感性豊かな芸術家肌で、一族を統べるには蒲柳の質が心配されており、栄一は自身の没後の異母弟らとの家督を巡る争いの芽を事前に摘むための措置を取ったとも考えられている。
◎ 三男:無相真幻大童子(1883年) - 母は兼子。生後すぐに逝去。
◎ 四男:敬三郎(1884年‐1885年) - 母は同上。夭逝。
◎ 五男:武之助 (1886年‐1946年) - 石川島飛行機製作所2代目社長。母は同上。妻は資生堂創業者福原有信の四女美枝。
◎ 四女:止観妙心大童女(1887年) - 母は同上。死産。
• 六男:正雄[1888年 - 1942年) - 母は同上。日本製鐵副社長。石川島飛行機製作所初代社長[、石川島造船所専務。
◎ 五女:愛子(1890年 - ?) - 母は同上。愛とも表記される。銀行家で後に澁澤倉庫会長、第一銀行頭取、龍門社理事長となった明石照男に嫁ぐ。
◎ 七男:秀雄[(1893年 - 1984年) - 母は同上。田園都市開発取締役、東京宝塚劇場会長、東宝取締役会長。庶子を除き子女の中では、唯一長寿を全うした。また、末兄・武之助と共に第二次世界大戦を生き抜いた人物でもある。
◎ 八男:遍照芳光大童子(1895年) - 母は同上。死産。
◎ 九男:忠雄[45](1896年 - 1897年)。母は同上。夭逝[。
◎ 庶子:文子(1871年-?) - 母は大内くに(1853年 - ?[60])。後に東洋生命社長、武州銀行頭取となった尾高次郎に嫁ぐ。次郎は栄一の妻千代の兄尾高惇忠の子。
◎ 庶子:照子(1875年- 1927年) - 母は大内くに。後に富士製紙社長、武州銀行頭取となった大川平三郎に嫁ぐ。平三郎は栄一の妻千代の姉の子。
◎ 庶子:星野辰雄(1893年 - ?) - 東京印刷社長・星野錫の養子となる。立教大学教授、専門は商法、フランス法。栄一の長女歌子の夫穂積陳重の弟穂積八束の次女と結婚。
◎ 庶子:長谷川重三郎(1908年 - 1985年) -第一銀行頭取。
◎ 養子:平九郎(1847年 - 1868年) - 栄一の妻千代の弟。栄一が幕末の洋行に際し不測の事態でも家系が断絶しない様に見立て養子としたが、栄一帰国前に飯能戦争で新政府軍に敗れて自決しました。。