余話、渋沢栄一の生涯(3話)
渋沢栄一の従兄渋沢喜作(渋沢成一郎)
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
大河ドラマに渋沢栄一の従兄、渋沢喜作が登場している。共に徳川慶喜公の家臣として活躍している。
人物像を紹介してみる。
渋沢栄一と渋沢喜作
渋沢喜作(成一郎)、天保9.6.10(1838.7.30)生まれ、大正1.8.29(1912)没、75歳
武蔵国(埼玉県)の渋沢文左衛門の長男。渋沢栄一の従兄。幕末、成一郎と称した。明治元(1864)年渋沢栄一と共に一橋家に仕官し, 平岡円四郎の推挙により、従弟の渋沢栄一とともに一橋家につかえ,幕臣となる。一橋(徳川)慶喜公の将軍就任と共に幕臣となり奥右筆を務める。
明治元(1868)年同志と共に彰義隊を組織したが,脱隊して振武軍をつくり,埼玉の飯能で官軍と戦う。その後箱館の五稜郭の榎本武揚軍に加わる。
戊辰戦争
渋沢成一郎は、慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると、鳥羽・伏見の戦いに参戦した。江戸帰還後、将軍警護を主張し、自分と志を同じくする幕臣らを集め、彰義隊を結成し、頭取に就任する。
3月、結城藩の青山隼太らに依頼され、同藩の内紛仲裁のため、織田主膳を隊長とした一隊を結城に派遣した(のちの結城戦争に発展する)。
4月、徳川慶喜公が謹慎場所を江戸から水戸へ移すと、上野からの撤退を主張するが、武闘派の副頭取・天野八郎との対立が発生し、渋沢成一郎が一橋家の家臣として江戸の街を戦禍から守ことから結成された彰義隊は、天野八郎らの強硬派と対立し彰義隊を脱退したのではないかと推測される。
脱退後、有志とともに田無に集まり振武軍を結成し、5月11日、武蔵国入間郡飯能(現埼玉県飯能市)の能仁寺を本営を移した。
5月23日、大村藩、佐賀藩、久留米藩、佐土原藩、岡山藩、川越藩からなる官軍と戦うが敗戦、上州伊香保(現群馬県渋川市)に逃れ、草津に潜伏した後、榎本艦隊に合流する。8月、振武軍の残党と彰義隊の残党が合体し、新たな「彰義隊」を結成、その頭となる。
榎本武揚率いる旧幕府脱走軍とともに蝦夷地に行き、箱館戦争に参戦する。11月5日、勤王派が実権を握り新政府側に付いた松前城を攻撃した際、渋沢が先陣争いの戦闘に参加せず松前城の金蔵から金を持ち出す軍資金確保を優先したことをきっかけに、彰義隊は渋沢派と反渋沢派に分裂する。榎本武揚が仲裁に乗り出し、渋沢派は「小彰義隊」となり、渋沢が頭取に就任した。 渋沢成一郎が松前藩攻撃で軍資金を確保することを第1の目標にした行為は、理解できないことではないが武士道に反する行為があったことでもあり残念なことあである。
箱館戦争終結直前の明治2年(1869年)5月15日に旧幕府軍を脱走、湯の川方面に潜伏したが、1か月後の6月18日、出頭・投降した。その後、東京の軍務官糾問所に投獄されている。
明治4年渋沢栄一の計らいで大蔵省入省後,製糸法の調査研究のためヨーロッパに留学。帰国後6年退省し小野組糸店に入社。翌年明治7年渋沢商店を開業,横浜に生糸売り込み問屋を,東京深川に廻米問屋を営む。米相場などの投機事業家の側面を持つ人物であった。東京株式取引所理事長。通称は成一郎 (渋沢喜作)