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青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話「渋沢栄一の生涯」第5話 渋沢栄一と天狗党①

2021年06月21日 | 渋沢栄一の生涯
余話「渋沢栄一の生涯」第5話 渋沢栄一と天狗党①
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

元治元年(1864)5月、渋沢栄一は、一橋家の仕官の人選で関東に下り、従兄の渋沢喜作と共に武州、総州、野州の一橋領を100余日で巡回し、壮士約59人を募り、9月に壮士を率いて京都に帰りました。
しかし、江戸で「坂下門外の変」で老中安藤信正(平藩主)襲撃に加わった従兄の尾高長七郎の助命を嘆願しましたが許されませんでした。
9月、一橋家家老の平岡円四郎が暗殺されました。平岡に代わり、黒川嘉兵衛が重臣となました。黒川は、浦賀奉行組頭で、ペリー来航の事務折衝にあたり、下田奉行組頭の時に、密航をくわだてた吉田松陰を尋問しております。「安政の大獄」で免職されますが、のち慶喜公につかえ,徳川家の目付となった人物です。栄一たちが帰京すると、黒川は、平岡と同じく栄一の手腕を高く評価しております。
12月に「天狗党の乱」挙兵の水戸藩家老、武田耕雲斎等が、中山道を通り、京都に入ろうとします。将軍摂政の一橋慶喜公は、渋沢栄一、渋沢喜作に、天狗党鎮撫の命を下しました。
※黒川嘉兵衛嘉永6年(1853年)浦賀奉行組頭として黒船来航に対処したのを皮切りに、翌嘉永7年(1854年)の再来航に際しても交渉事務を担当し、下田奉行組頭も歴任する。しかし安政5年(1858年)より始まった安政の大獄によって免職させられ、差控となった。 

文久3年(1863年)一橋家に用人見習として取り立てられ、翌文久4年(1864年)には番頭兼用人となり、以後は一橋家側用人・平岡円四郎らとともに徳川慶喜の政治活動を補佐した。慶応2年(1866年)にいったん失脚して一橋家を致仕したが、慶応4年(1868年)再び慶喜に仕え、鳥羽・伏見の戦いに敗れて謹慎する慶喜の助命嘆願のために上洛し、同年2月には目付となった。晩年は京都で過ごした。 

幕末の幕臣。嘉永6(1853)年浦賀奉行組頭。翌安政1(1854)年にペリーが再来した際,その交渉事務を担当,次いで吉田松陰の海外渡航未遂事件でこれの訊問に当たった。安政の大獄で免職・差控に処せられたが,文久3(1863)年7月一橋家用人見習に採用され,翌元治1(1864)年2月番頭兼用人,平岡円四郎と共に徳川慶喜を補佐した。慶応2(1866)年8月疎まれて一橋家用人を去る。鳥羽・伏見の戦の後の明治1(1868)年2月目付に登用され,上洛して徳川救済の嘆願を行った。晩年は京に住み,末路は不明。 嘉永7年(1854年)、マシュー・ペリーの配下の写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアによって撮影された黒川の銀板写真は、外国人が日本国内で日本人を撮影した現存最古の写真の一枚として、2006年に重要文化財に指定された。

※尊王攘夷論の提唱者藤田東湖
水戸藩は徳川御三家の一つである。徳川御三家とは尾張藩、紀州藩、水戸藩の三藩である。
尾張藩、紀州藩からは徳川幕府の将軍職に就けるが水戸藩からは将軍になることは出来ない。水戸藩主は江戸徳川将軍の副将軍・後見役として関東の「押さえ」の役割が与えられた。
水戸藩の成立は徳川家康の11子徳川頼房を祖とする祿高は三十五万石の大藩である。三代水戸藩主徳川光圀(水戸黄門)のもとで「大日本史」の編纂が始まる。この大日本史編纂は、明暦3年(1657)から始まり明治39年(1890)まで250年かけて完成された。
水戸学は大日本史編纂の過程の中で成立した学風で、幕府の官学である朱子学に国学神道の『尊王思想』を加味したものである。徳川幕府は一時的に政権を天皇より預かり、日本国は天皇が治めるとの考えに立つものである。幕末になり水戸第9代藩主徳川斉昭(烈公)によって水戸学は一段と盛になる。水戸藩校・弘道館において後期水戸学の創唱者の藤田幽谷・藤田東湖(幽谷の次男)父子・水戸藩士会沢正志斎が熱烈な尊王論を説いた。
会沢正志斎は文政8年(1825)「新論」を著した。新論は徳川幕府が異国船打払令を発布し、これお好機に国家の統一を強化し、政治改革と軍備充実の具体策を述べたものである。異国船払令は、外国船がしばしば来訪し上陸や暴行事件、特にフェートン号事件が発生したことに対し、江戸幕府が文政8年(1825)に発した外国船追放令である。文化5年(1808)英国軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎港に侵入し、オランダ商館員を捕らえ、食糧・薪水を強要した事件。
日本の沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃し、追い返した。また上陸した外国人については逮捕を命じている。民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王攘夷思想の重要性を説いた。この改革推進のために徳川斉昭は城内の北に藩校弘道館を建設した。藤田幽谷、東湖父子は水戸藩の藩主継承問題では徳川斉昭の擁立に尽力し、斉昭が藩主に就任すると腹心として藩政の改革を押し進めた。藤田幽谷亡き後水戸藩士の藤田東湖は徳川斉昭が進める幕府改革のシンクタンクとして貢献した。