余話、渋沢栄一の生涯(2話)
渋沢栄一の学問の師、尾高惇忠、海保漁村(元備)
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
渋沢栄一は、天保11年(1840)の生まれ。生家は血洗島村に10数軒ある渋沢家の宗家(渋沢3家の中ノ家)で、当主は代々、市郎右衛門と称し有数の家柄でした。
栄一の父は、渋沢家の婿養子で、性格は非常に真面目、些細なことでも几帳面な人でした。
勤勉家で、農業をはじめ、養蚕、藍の製造、販売、村人に金の融通もするなど、農、工、商、金融業を営んでいました。この様な家庭環境の中で栄一は育ちました。 また、父の市郎右衛門は、初めは武家になって身を立てようとしたこともあり、武芸はもちろん、学問も四書五経に通じ、俳諧の号は「晩香」と称しておりました。
栄一が6歳になると、父が自ら漢籍の素読を教えました。栄一は、卓越した記憶力を持ち、知識欲も盛んだったため、1年の間に、孝経、小学、大学、中庸と進み、ついには論語にまで及んだと云われています。
7歳になると隣村の従兄で10歳ほど年上の尾高惇忠の許へ通い、四書五経のほかにも『国史略』『日本外史』なども学びました。 尾高は、学問を好み、博覧強記で志士的な風格も備えていた人です。
栄一は、剣術も12歳頃から学び、稽古にも熱心で上達も速く後に千葉道場に入門します。
※渋沢栄一と尾高惇忠(あつただ)
父の市郎右衛門は、初めは武家になって身を立てようとしたこともあり、武芸はもちろん、学問も四書五経に通じ、俳諧の号は「晩香」と称しておりました。
渋沢栄一が6歳になると、父が自ら漢籍の素読を教えました。栄一は、卓越した記憶力を持ち、知識欲も盛んだったため、1年の間に、孝経、小学、大学、中庸と進み、ついには論語にまで及んだと云われています。 豪農、豪商である渋沢家は、学問の大切が理解できる家柄であることが解ります。
7歳になると隣村の従兄で10歳ほど年上の尾高惇忠(ただあつ)の許へ通い、四書五経のほかにも『国史略』『日本外史』なども学びました。 尾高は、学問を好み、博覧強記で志士的な風格も備えていた人です。
大河ドラマでは尾高惇忠は、「水戸学」の水戸藩主徳川斉昭、藤田東湖、武田耕雲斎らを尊敬していた様子が描かれています。
栄一は、剣術も12歳頃から学び、稽古にも熱心で上達も速く後に千葉道場に入門します。
※渋沢栄一の剣術は、川越藩剣術指南役の神道無念流・大川平兵衛に学んだ。 のちに、江戸遊学では神田お玉が池の北辰一刀流千葉道場で、千葉周作の息子の栄次郎について学んだと云われています。
※四書五経とは
中国における,重要古典の名数的呼称。四書とは《大学》《中庸》《論語》《孟子》。この称は宋の程頤(伊川)が《大学》《中庸》の2編を《礼記》中から独立させ,《論語》《孟子》に配したのに始まり,朱子学の聖典とされる。五経とは《易経》《書経》《詩経》《礼記》《春秋》の五つで,儒教における最も重要な経典。五経の名は唐の太宗が《五経正義》を作らせた時に定まったという。
※渋沢栄一の師、海保漁村(元備)
江戸後期の儒学者。名は元備、字は郷老、春農。通称は彦三郎、別名を紀之、漁村は号。寛政10年11月22日、上総国武射(むさ)郡北清水村(千葉県山武(さんぶ)郡横芝光町)に生まれる。父は恭斎(きょうさい)、母は北田氏。3男1女中の三男。初め父について漢文の訓読を習い、1821年(文政4)江戸に出て太田錦城(きんじょう)に入門し、折衷学を学ぶ。1830年(天保1)江戸下谷(東京都台東区)で家塾を開き、その書斎を掃葉軒(そうようけん)とよぶ。佐竹壱岐守(いきのかみ)をはじめ諸侯に招かれたが仕えず、1857年(安政4)幕府に登用されて医学館の儒学教授となる。武士以外を教授にした初めての例という。慶応(けいおう)2年9月18日没、69歳。本所(東京都墨田区)の天台宗高竜山普賢(ふげん)寺(現在、東京都府中市に移転)に葬られる。学風は経学を重んじ、初め古注・新注を併用したが、しだいに古注に傾き、自宅を伝経盧(でんけいろ)と名づけた。著書に『周易(しゅうえき)漢注考』『尚書漢注攷(こう)』『毛鄭(もうてい)詩義』『伝経盧叢鈔(そうしょう)』などがある。
※尾高忠淳は、天保1.7.27(1830.9.13)生まれ 明治34.1.2(1901)没72歳
渋沢栄一の従兄であり、官営富岡製糸場の初代所長,明治前期の殖産興業推進者。武蔵国榛沢郡手計村(深谷市)の名主尾高保孝の子。幼名新五郎,字は子行,藍香と号した。
明治元年(1868)年彰義隊に参加するが脱退,その後振武軍に加わり官軍と戦って敗退。箱館戦争に渋沢成一郎と参戦している。
維新後は明治2年静岡藩勧業付属,3年民部省監督権少佑,次いで大蔵省製糸場の計画を担当した渋沢栄一の漢学の師であり,義兄に当たる(妹千代が栄一の最初の夫人)ことから,同省勧業寮富岡製糸場掛(のち勧業大属)となり,渋沢栄一とともに官営富岡製糸場の建設につくして所長となり, 建設,経営に尽力し養蚕,製糸の振興につとめる。のち第一国立銀行につとめるかたわら,製藍(せいらん)法の改良,研究をおこなった。
長女勇は伝習工女に志願してこれに協力した。また秋蚕の飼育法を研究し,その普及に努力した。9年末同製糸場を辞し,翌年から第一国立銀行盛岡支店,仙台支店に勤めるかたわら,製藍法の改良普及にも尽くし,著書に『蚕桑長策』(1889),『藍作指要』(1890),がある。