余話「渋沢栄一の生涯」第6話 渋沢栄一と天狗党②
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
安政大獄で徳川斉昭は謹慎を命じられ心臓発作で亡くなり、第10代水戸藩主徳川慶篤(斉昭の長男)のもとにあった勢力が水戸藩内で盛り返してくる。水戸藩は幕府派の門閥派と激派の尊王攘夷派が対立を深めていった。身分の低い激派は鼻を高くして威張り散らすので、軽蔑の意味を込めて「天狗派」と呼ばれた。激派の中心人物、藤田小四郎(藤田東湖の4男)は、安政の大地震で小石川の水戸藩邸で母親を助けるために圧死した父の教えを受け水戸藩領内の加倉井砂山の日新塾に入門し洋式教連、鉄砲射撃、数学、天文、地理学を学んだ。
さらに、水戸の藩校弘道館に入り、19歳の時に起きた「桜田門外の変」に刺激され思想を尖鋭化し、尊王攘夷の激派の中心人物になって行った。
文久3年(1863)3月、22歳になった小四郎は藩主慶篤が京都に赴くおり随行した。京都では水戸藩の思想が広く信奉されていることを知り多くの志士達と結び付いて行く。小四郎は長州、鳥取両藩の同志と話し合い雄大な計画を企てた。徳川斉昭の婦人は有栖川親王の王女なので宮に働きかけ、勅使として江戸に向かつてもらう。その折鳥取、岡山両藩の有志数百名が随行して江戸に入り、幕府に攘夷の決行を迫る。無論長州も強力に支援をする。この機に乗じて藤田小四郎が筑波山に挙兵し、攘夷の先頭に立ち、攘夷決行を幕府に願い出る。これが実現すれば、全国の尊王攘夷論者は一斉に立ち、攘夷を決行することが出来る。
明治維新の4年前、元治元年(1864)いよいよ天狗党挙兵の機運が熟したとみた小四郎は、主だった同志に打ち明けた。「挙兵するには大将が必要である。藤田殿は23歳と若いが参謀の任がふさわしい。藩の重鎮を大将に仰ぎたい」この言葉に、藤田を初め一同が賛同し、大将田丸稲之衛門(水戸藩町奉行)以下170余名の天狗党が筑波神社を拠点に誕生した。天狗党は藩士、郷士、神官、村役人らからなる過激武力集団である。
天狗党は徳川斉昭公の位牌を納めた白木の御輿を先頭に立て宇都宮藩が警備する日光東照宮に向かい進軍し、そして幕府との対立を深め行く。関東の各藩は尊王攘夷の天狗党と対峙するかの決断を迫られる。各藩を二分する騒ぎとなり、挙兵に驚いた幕府は、水戸藩に対し厳重に取り締まること命じた。水戸藩の中でも完全に藩意が二分され、弘道館の内でも激論が戦わされた。各藩の尊王攘夷派は天狗党に対し、莫大な軍資金を何万両も拠出し応援し、天狗党の勢力は千名を超える武闘集団になって行った。