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青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話「渋沢栄一の生涯」(4話)渋沢栄一と平岡円四郎①

2021年06月17日 | 渋沢栄一の生涯
余話「渋沢栄一の生涯」第4話 渋沢栄一と平岡円四郎
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
  
 文久3年(1863)、23歳の渋沢栄一は、攘夷を目指すようになり、武器を収集し高崎城を乗っ取り、そこから横浜外国人居留地を襲撃する計画を立てました。これに待ったをかけたのが、渋沢の従兄、尾高長七郎でした。
長七郎は尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩主)を襲撃し、負傷させた事件「坂下門外の変」の関係者の一人でした。襲撃に失敗し京都に潜伏し、政情に詳しく「内密であっても、萇府の目は届く、この計画で本当に国を変えることが出来るのか」と涙ながらに説得し、栄一達は計画を取り止めました。
 尾高長七郎は、「坂下門外の変」で一橋家の平岡円四郎の知遇を得ていました。11月8日、従兄の渋沢喜作と伊勢参宮を名目に郷里を離れ、江戸を経て一橋家の平岡円四郎の家来の手形で箱根の関を越え、11月25日に京都に着き、直ちに勤王の志士たちと交遊し、歳末に伊勢大神宮に参拝しました。
 元治元年(1864)2月8日、長七郎、栄一と従兄の渋沢喜作の攘夷計画の書簡を懐中に入れ捕縛覚悟で平岡円四郎に面会しました。円四郎は、栄一らを助けようと一橋家に推挙し、栄一、喜作は一橋冢に仕官することが出来ました。
 平岡円四郎は、文政5年(1822)生まれ、一橋家の家臣渋沢栄一を採用した一橋冢家臣(家老並)で一橋慶喜公より15歳程年上の有能な家臣です。
 聡明で、藤田東湖や川路聖謨からその才能が認められ、慶喜公の側近になりました。文久2年(1862)、慶喜公が将軍後見職に就任すると、上洛し、「公武合体派」諸侯のまとめ役となりました。元治元年(1864)2月、側用人番頭、5月に「一橋家家老並」に任命されましたが、6月14日、在京の水戸藩士の内紛で暗殺されます。享年43。
 筆者の学んだ、茨城大学瀬谷吉彦教授の「水戸学」の講義で「平岡円四郎は、暗殺されなければ幕末の歴史は変わった」話されました。
 平岡に採用された栄一は、元治元年2月8日、奥口番の「御用談所下役」に命ぜられ、続いて4月中旬に「御徒士」に取り立てられます。
 直ちに、栄一は、平岡の密旨を承けて大阪に赴き海防論者の折田要蔵の門人になりました。
 要蔵は、文政8年(1825)生まれの薩摩藩士、幕府学問所昌平黌に入り、箕作阮甫に蘭学を学び、文久3年(1863)の薩英戦争で砲台の築造、大砲鋳造の主事となりました。
 「攘夷鎖港」を唱え、外国と戦争をする時には、大阪の海防が必要であると唱えます。
 築城学に長じ、幕府から100人扶持を受け、「摂海防禦砲台築造御用掛」になります。
築城学者で、島津藩国父、島津久光の建議の折、摂海防衛の問題で、二条城へ要蔵を召されて、一橋公を始め、老中の板倉摂津守らが意見を聴問しております。
江戸湾を初め、大阪の海防、船の数など「御台場築造掛」として、大阪に15か所の砲台を築くことなど指図をしました。
栄一は要蔵の海防論を学び4月京都に戻りました。
 そして、薩摩藩士、西郷隆盛(38歳)の旅宿「相国寺」に訪ねます。24歳の渋沢栄一は、豚鍋の接待を受け国論の「尊王攘夷」を談判しました。             

※平岡円四郎
平岡円四郎は、旗本の岡本近江守の四男として生まれた。父は勘定奉行配下の役人でしたが、優れた漢詩を詠むことで、岡本花亭という名でも知られた文化人でした。
養子として旗本の平岡家を継いだ円四郎は、幕臣の川路聖謨や、水戸藩の藤田東湖などの傑出した人物から才能を見いだされ、一橋慶喜公の小姓に推薦されました。

慶喜公は聡明で、側近に支えられないでも一人歩きが出来る人でした。それだけに働きがいがないと、円四郎は感じていたようです。しかし、慶喜の非凡さを悟ってからは、熱心に活動を下支えするようになりました。

※次期将軍の座を巡る争い
平岡円四郎は、維新史料綱要という幕末史の基礎的史料に何度か登場しています。初登場は安政5年(1858)3月のことです。慶喜公が将軍家の養子となることを固辞していることについて、福井藩士の中根雪江、水戸藩士の安島帯刀が円四郎の屋敷に集い、密議したということが載っています。
ゆくゆくは慶喜公に将軍職を嗣がせる含みを持たせながら一橋家の養子とした12代将軍の家慶は、後継問題を曖昧にしたまま病没し、13代将軍の座についたのは家慶の実子の家定でした。家定は病弱なため実子をもうけることが期待できなかったので、つぎこそ慶喜を将軍の座につかせるチャンスでした。しかし、肝心な慶喜にその気がないのでは、ともあれ円四郎たちは一橋派として慶喜公を次期将軍に推しはじめました。

ところが、この前年に安政の改革を主導した老中、阿部正弘が病没しており、守旧派の巻き返しが始っていました。中途で終わった安政の改革では、これまで発言の機会が与えられなかった外様の諸藩にまで意見の表明を求めるなど、老中による密室政治を打破しようとしていましたが、それに対する反発もあったのです。
彦根藩主の井伊直弼、会津藩主・松平容保らは親藩および譜代による権力独占への回帰を主張しており、まだ幼くて政治に口を出しそうにない紀州徳川家の慶福を将軍に据えようとする南紀派でした。

対する一橋派は、改革路線の継続を望んだ薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信ら、外様大名が多数を占めていました。
こうした争いでは、誰を味方にするかが重要な意味を持ちます。暴挙を企てる者が味方にいたのでは、かえって窮地に陥ることになりかねません。

維新史料綱要には、安政5年6月に、時勢を慨嘆する水戸藩士らが幕府の要人に対して「除奸」を計画しているとの情報を、円四郎が中根雪江に伝えていることが記されています。
安政5年(1858年)に徳川家定の将軍継嗣をめぐっての争いが起こったときには、平岡と中根長十郎(一橋家家老)は主君の慶喜を将軍に擁立しようと奔走したが、将軍には徳川慶福(紀州藩主)が擁立されてしまい、失敗する。しかも直後の安政の大獄では、大老・井伊直弼から一橋派の危険人物として処分され、小十人組に左遷された。安政6年(1859年)、甲府勝手小普請にされる。

文久2年(1862年)12月、慶喜が将軍後見職に就任すると江戸に戻る。文久3年(1863年)4月、勘定奉行所留役当分助となり、翌月一橋家用人として復帰した。この年、慶喜の上洛にも随行している。京都で慶喜は公武合体派諸侯の中心となるが、裏で動いているのは平岡と用人の黒川嘉兵衛と見なされた。慶喜からの信任は厚く、元治元年(1864年)2月、側用人番頭を兼務、5月に一橋家家老並に任命される。6月2日には慶喜の請願により大夫となり、近江守に叙任される。その2週間後の6月14日、在京水戸藩士江幡広光、林忠五郎らに暗殺されました。享年43。