― ブッダ誕生の聖地を読む ― <連載 5>
年末も近づいてくると、大晦日の零時近くに日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える風景が思い浮かぶ。日本にはブッダ文化が広く根付いており、2011年6月には、東日本随一の平安時代の仏教美術の宝庫として知られる岩手県平泉町の中尊寺がUNESCOの世界文化遺産として登録された。奈良や京都には多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっている。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については、一部の仏教関係者を除いて一般には余り知られていない。確かに、ブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
このような観点、疑問から2011年に著書「お釈迦様のルーツの謎」を出版(東京図書出版、末尾に掲載)したが、今回はそれを基礎として、ブッダ教が日本にどのように伝来し、受け入れられたか、そしてブッダ思想が生まれたその歴史的、社会的な背景と今日的な意味の一端をご紹介してみたい。
1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 <連載 1で掲載>
2、ブッダの生誕地ルンビニ <連載 2で掲載>
3、2つのカピラバスツ城の謎 <連載 3 で掲載>
(1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址 <連載 4で掲載>
(2) インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
北インド・ウッタルプラデッシュ州のピプラワ(Piprahwa)村にカピラバスツとされる遺跡がある。その南東1キロほどのところに「パレス」と表示れている遺跡がある。ネパール国境に接するウッタル・プラデッシュ州にあり、直線距離ではルンビニの西南西約16キロのところに位置し、国境からは2キロほどのところにある。しかしネパール側から行こうとすると、パスポート・コントロールのある至近の幹線道路は、ルンビニから約22キロ東のバイラワとインド側のマハラジガンジを結ぶ道路で、大きく迂回をしなくてはならない。
ピプラワのカピラバスツには、骨壷が発見された大きなストウーパ遺跡の周囲に煉瓦造りの建物の遺跡があり、土台部分が残っているので、内部の構造が分かる。四方の建物はほぼ同様の構造となっており、その内部の構造から、ピプラワの遺跡はストウーパを中心とする僧院群のように見える。周囲に「城壁」がないが、僧院群であれば自然であろう。玄奘が、大唐西域記でカピラバスツ国の周囲は量を知らず、人家もまばらと記しているが、その景色と重なる。
ピプラワの遺跡から南東に1キロほどの処にガンワリアの遺跡があり、「ガンワリア発掘サイト」と記された看板にシャキア族のパレス遺跡と説明されている。ここも周囲に城壁らしいものはない。正面の煉瓦造りの建物は重厚であるが、内部は中央の広間の周囲を小部屋(独居房)が取り囲んでいる構造で、ピプラワの僧院遺跡とほぼ同様の構造となっている。「パレス」と称されているだけに、ガンワリアの僧院はより高貴なたたずまいを感じさせる。恐らくより高貴な信者、又は高貴な女性の信者や高僧の僧院であったのであろう。コツコツと今でも修復作業が続けられている。
ピプラワの遺跡も「パレス」と呼称されているガンワリアの遺跡も基本的にはストウーパを中心とする僧院群と見られる。多くの国が群雄割拠していた時代に城壁もないので「城址」や「城都」とは考えに難い。
他方、骨壷にシャキア一族よりの寄贈と記してあり、また遺跡のある場所からシャキア族が使用していたトークンや貨幣などが発掘されているようであるので、シャキア族ゆかりの貴重な遺跡であることは間違いない。
第五章 ブッダ誕生の聖地から読めること <連載 6以下で掲載>
1、根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
2、王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
4、不殺生、非暴力の思想
5、ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
(2014.11.06.)(Copy Rights Reserved)