一
「そうですか、KLMオランダ航空かフィンランド航空なら空席が。分かりました。妻とも検討した上で、お返事申し上げます。ありがとうございました。失礼いたします。」
そういって朝倉健二は電話を切った。
「ケンちゃん、どうだった? 飛行機?」 妻の宏子が尋ねた。
「うん、エールフランスは残席ないけど、KLMかフィンランド航空なら大丈夫だって。アムステルダムかヘルシンキで乗り換えだな。」
「それならいいわ。ねえ、私たちって本当にフランスに行けるのね。」
「ああ、パリはもうそこだよ。」
朝倉健二と妻の宏子はフランス旅行の計画を立てていた。宏子は大のフランス好きで、健二もいつか宏子をフランスに連れて行きたいと願っていた。宏子はフランス語を毎日欠かさず勉強していて、フランス語検定2級も持っている。パリの街でフランス人とフランス語で話すのが夢なのだ。 旅行の予定は3ヶ月先の4月の前半だからまだ時間がある。じっくり準備できる、二人ともそう思っていた。会計事務所に勤める健二にとって2月3月の確定申告の時期は繁忙期だ。それを過ぎたら休みも取りやすくなるし、何より旅行代金も安くなる。行くなら4月だ、健二はそう思っていた。
宏子はある程度フランス語の会話が出来た。健二は英語は出来るが、フランス語は全く出来なかった。健二にもフランス語を話してほしい、宏子はそう思っていた。
あるとき地域情報誌の小さな記事が宏子の目に留まった。
「ねえねえ、ケンちゃん。こんな記事見つけたんだけど。」
そういって宏子は健二に地域情報誌を見せた。
「えっ、何?」健二は記事を見た。
”ネイティブのフランス人に学ぶフランス語会話講座・初心者OK
場所:東京メトロ○○線T駅前・カフェボンジュール
時間:2月4日から3月10日までの毎週土曜日(全6回)15:00~16:30
レッスン料:1万円(教材はプリントを配布、教科書なし) 飲み物代は各自負担
講師:ニコラ・フォンテーヌ(パリ出身)
お問い合わせ:03(☓☓☓☓)☓☓☓☓”
「フランス語かあ。今更勉強してもなあ。」 健二がぼやくと、
「ダメ、フランスに行くんだから勉強して。」
甘ったるい声で宏子は言った。
「この時期って会計事務所は忙しいんだけど。」
「でもレッスンはたった1時間半だけよ。T駅なら地下鉄で2駅だけだし、いいじゃない。」
「そうだな、うーん、休日出勤の帰りにでも寄ろうかな。」
「そうよ、ケンちゃん頑張って。」
「でもフランス人って英語も出来る人多いんだろ? 言っておくけどぼくは英語出来るぞ。TOEICは790点、英検準1級だからな。」
自慢して健二は言った。
「ダメよ、フランスではフランス語。当たり前じゃない。私の叔母さんがフランスに行ったことあるんだけど、英語はあまり通じなかったって言ってたわ。特にパリ以外の地方では。私たちパリ以外にも行くのよ。」
宏子はきっぱりと言った。
「でも宏子は一緒に来てくれないんだろ? 土曜日は入院中のお義父さんのお世話だから。」
「そうねえ。お父さんの入院、3月までかかりそうだから。面会時間は午後だけだし。平日は仕事で病院行けないし。それに私が初級のレッスン受けても・・・」
「しょうがない、あまり気が進まないけど行くとするか。1万円、痛いけど。」
二
初回のレッスンの2月4日、健二は3時20分前にT駅に降り立った。休日出勤で、早退してやってきた。勤め帰りなのでスーツ姿だ。ボンジュールというカフェの場所はすぐに分かった。駅の真ん前だ。当日の朝、宏子にフランス語会話の本を借りて少しだけ予習をした。店の中に入ると、フランス人と思しき若い男性がいた。
「ヴー・ゼット・ムシュー・フォンテーヌ?(あなたがフォンテーヌ先生ですか)」
健二がたどたどしくフランス語で聞くと、
「ウィ。」 フランス人は笑顔で答えた。
「朝倉健二さんですね。伺っています。どうぞお座りください。あと二人生徒さんが来ます。来られてからドリンクを注文しましょう。」
ニコラ先生が流暢な日本語で言った。健二はちょっとびっくりした。
「日本語、お上手ですね。」
「メルシー、もう5年日本に住んでますから。」
そのとき中年の女性が現れた。
「ニコラ!アンシャンテ!!(はじめまして)」
「ウィ、アンシャンテ!」 二コラ先生も笑顔で応えた。
「ジュ・マペル・クミコ・クドウ。(私の名前は工藤久美子です。)」
「工藤久美子さんですね。伺っています。・・・あともう一人来るはずだけど、遅いなあ。じゃ、時間ですしはじめますか。」
時計は3時4分を指していた。そのとき若い女性が店に入ってきた。ニコラ先生を見るなり、
「パルドン、ムッシュー!」と元気に応えた。ちょっと派手な感じのかわいい女の子。短大生ぐらいだろうか。
「ナナコ! 藤野奈々子さん、遅かったですよ。」でも先生は笑顔を崩さなかった。
「ウィ、アンシャンテ・ドゥ・フェール・ヴォートル・コネッサンス。(お会いできてうれしく存じます。)」女の子はきれいに応えた。
「ムワ・オシ(私もです)、奈々子。では全員揃ったのではじめましょう。」
初回のレッスンは軽い内容だった。挨拶の他、基本的な動詞の変化、日本語になったフランス語の単語、といった程度で終わった。残りの時間はフランスの食文化についての先生の話だった。
「ボナペティ、という言葉があります。『どうぞ召し上がれ』とか『よいお食事を』といった意味ですね。こうやってみんなで食事をしたりするときにかける言葉です。」
「じゃ、一人で食事するときは何て言うんですか?」工藤さんという女性が尋ねた。
「一人のときは黙って食べます。」 ニコラ先生が答えた。
「ああ、じゃ、日本語のいただきますとは違うんですね。」 健二が尋ねると、
「そうです、また違います。」 と、先生。
「私留学先でみんなでご飯食べてて、そう言ってました。」と奈々子が言った。
「留学?どこへ?」
「グルノーブルです。去年の夏です。」
「それは素晴らしい、トレ・ビヤンです。ぼくはパリジャンで行ったことないんですけどもね。」
グルノーブルと聞いてニコラ先生は上機嫌だった。
三
4時半を過ぎたが、一同は帰らずに話を続けた。最近の日本のニュースや、社会のこと、スポーツのことなどである。やがて工藤さんが帰り、その後ニコラ先生も帰った。
5時半近くになって健二と奈々子だけになった。
もう帰ろうか、健二は思った。でもここで帰ったらあまりにもこの女の子に愛想ないな、とも思った。そこで話しかけてみた。
「奈々子さん、っておっしゃいましたよね。グルノーブルへ留学されてたって、さっきおっしゃっていましたが、どうでしたか?」
奈々子は尋ねられて意外だ、という感じだったが、それでも答えた。
「ええ、小ぢんまりしたきれいな街です。アルプスのふもとにあって、わりと大きな川が流れてて、ロープーウェイもあるんですよ。」
「よさそうなところですね。実はこの春、ぼくもフランスに行くんです。」
「そうなんですか。いいなあ。どちらに?」
「パリと、モンサンミッシェル、ロワールなんですけどね。個人旅行です。ツアーで行くとフランス語を使う機会がないって、うちの女房がうるさくて。」
「え~え、奥さんフランス語話せるんですか?」
「ある程度できるみたいですよ。フランス語検定2級も持っているし。フランス語毎日勉強してて、フランス大好きな人なんです。でもお互い休み取れるかなあ。」
笑いながら健二が言うと、奈々子が
「お勤め帰りなんですか?スーツなんか着て。」 と尋ねた。
「ええ、この季節うちの職場忙しいんですよ。今日は休日出勤の帰りで・・・。ついでにフランス語勉強して来いって、女房に言われたんですよ。」
愛妻家なんだ、奈々子は内心思った。
「失礼ですが、奈々子さんは大学生?」
「いえ、高校生です。」
健二はちょっと驚いた。
「ごめんなさいね。いや、大人びて見えたから・・・。」
「いえいえ、お勤め、ってどんなお仕事ですか?」
「税理士事務所のスタッフです。ぼくは税理士の資格持ってないんですけど、まあ、税理士の先生の補佐で、申告書の作成や税務相談、その他雑用をやっています。」
「へ~ぇ、なんか難しそう。」
「そうですね。簡単な仕事ではないですね。」
”若い女の子相手に意外と話し弾んでるじゃん、オレ” 健二は内心思った。
”この人やらしくない。敬語で話して、紳士的。それにとってもいい男。” 奈々子は思った。
実は奈々子にはある暗い過去があった。中学1年のとき、男に襲われたのだ。街で中年男にさらわれ、公衆トイレに押し込められた。スカートの下から手を入れられた。男のあのやらしい目つきは今も忘れない。幸い大声を出したところ通行人が助けに来てくれて無事だったのだが、それ以来奈々子は男といえば自然と敵視するようになっていたのだ。そのせいで恋愛には臆病で、誰もが認める美少女だが、恋人はまだいなかった。
ちょっと沈黙があった。
「ぼくは大学を卒業して国税局に就職しました。その後退職して違う仕事をしていたんですが、縁あって今の事務所に雇われたんです。まあ、国税局・税務署で働いていたから所得税の申告書くらいは書けたんで。でも税法は毎年変わるから覚えるのが大変ですね。」
その後も二人は健二の仕事について話し合った。健二はなるべく専門用語は避けて分かりやすく話すようにした。守秘義務についても心がけた。奈々子も興味を持って聞いた。
”この人の話、はっきり言って面白い。私と同じ年頃の男の子なら知らないことばっかり。”奈々子は思った。
「奈々子さんの将来の夢って何ですか? 就きたい職業とか。」
健二が話を奈々子に振った。
「私は・・・お父さんが弁護士なんでやっぱりそっちの道かな?」
「へぇ、司法試験受けられるんですね。すごいなあ。」
「でも私正直言って法律には特に興味ないんです。ただ父があとを継いでほしいようで。これからどんな勉強をしようか、何に情熱を傾けようか悩んでいたところなんです。」
「分かりますよ、その悩み。ぼくも高校生のころは考えました。ぼくは経済学部へ進んだんですけど、まあサラリーマン目指してりゃつぶしが利くかな、って思ったくらいで。税務の道に進もうと思ったのは大学生になってからなんです。おかげさまでまあ、成功してる方かな? 実際、自分のしたいことを大学で見つける人も多いようですよ。」
「健二さんは何で大学を選びました?」
「ぼくは、やはり偏差値です。あと、入試の配点とですかね。」
「どちらの大学か聞いていいですか?」 奈々子は思い切って聞いてみた。
「G大学です。」健二はさらっと答えた。
「うそー!!そんなのすごーい!やっぱり健二さん頭良さそうだから、そうなんですね。」
「ありがとうございます。うちの大学、そんなすごいですかねぇ。」
「すごいですよぉ、G大学。私今2年でB大学の法学部志望なんですけど、うーん、ワンランク以上上だ。」
奈々子はもう尊敬のまなざしで健二を見た。
「そうでもないですよ。B大だっていいじゃないですか。」
そのとき健二はちらっと腕時計を見た。
「げーっ、もう7時回ってる。ごめんなさい、奈々子さん、続きは次回にしましょう。早く帰らないと女房が。次回も来られますよね、奈々子さん。」
来る、と奈々子は返事した。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったですよ。次回またお会いしましょう。ああ、そうだ。握手!」
健二が右手を差し出した。奈々子はしっかりと握手を交わした。
「こちらこそありがとうございます! また来週!!」
二人は店を出た。2月4日。立春とはいえ、2月の夜風はまだまだ寒かったが、二人とも気持ちだけは温かかった。
ただし、家に帰って健二は宏子に怒られた。ポテトコロッケ、もう冷めたじゃない!!
「そうですか、KLMオランダ航空かフィンランド航空なら空席が。分かりました。妻とも検討した上で、お返事申し上げます。ありがとうございました。失礼いたします。」
そういって朝倉健二は電話を切った。
「ケンちゃん、どうだった? 飛行機?」 妻の宏子が尋ねた。
「うん、エールフランスは残席ないけど、KLMかフィンランド航空なら大丈夫だって。アムステルダムかヘルシンキで乗り換えだな。」
「それならいいわ。ねえ、私たちって本当にフランスに行けるのね。」
「ああ、パリはもうそこだよ。」
朝倉健二と妻の宏子はフランス旅行の計画を立てていた。宏子は大のフランス好きで、健二もいつか宏子をフランスに連れて行きたいと願っていた。宏子はフランス語を毎日欠かさず勉強していて、フランス語検定2級も持っている。パリの街でフランス人とフランス語で話すのが夢なのだ。 旅行の予定は3ヶ月先の4月の前半だからまだ時間がある。じっくり準備できる、二人ともそう思っていた。会計事務所に勤める健二にとって2月3月の確定申告の時期は繁忙期だ。それを過ぎたら休みも取りやすくなるし、何より旅行代金も安くなる。行くなら4月だ、健二はそう思っていた。
宏子はある程度フランス語の会話が出来た。健二は英語は出来るが、フランス語は全く出来なかった。健二にもフランス語を話してほしい、宏子はそう思っていた。
あるとき地域情報誌の小さな記事が宏子の目に留まった。
「ねえねえ、ケンちゃん。こんな記事見つけたんだけど。」
そういって宏子は健二に地域情報誌を見せた。
「えっ、何?」健二は記事を見た。
”ネイティブのフランス人に学ぶフランス語会話講座・初心者OK
場所:東京メトロ○○線T駅前・カフェボンジュール
時間:2月4日から3月10日までの毎週土曜日(全6回)15:00~16:30
レッスン料:1万円(教材はプリントを配布、教科書なし) 飲み物代は各自負担
講師:ニコラ・フォンテーヌ(パリ出身)
お問い合わせ:03(☓☓☓☓)☓☓☓☓”
「フランス語かあ。今更勉強してもなあ。」 健二がぼやくと、
「ダメ、フランスに行くんだから勉強して。」
甘ったるい声で宏子は言った。
「この時期って会計事務所は忙しいんだけど。」
「でもレッスンはたった1時間半だけよ。T駅なら地下鉄で2駅だけだし、いいじゃない。」
「そうだな、うーん、休日出勤の帰りにでも寄ろうかな。」
「そうよ、ケンちゃん頑張って。」
「でもフランス人って英語も出来る人多いんだろ? 言っておくけどぼくは英語出来るぞ。TOEICは790点、英検準1級だからな。」
自慢して健二は言った。
「ダメよ、フランスではフランス語。当たり前じゃない。私の叔母さんがフランスに行ったことあるんだけど、英語はあまり通じなかったって言ってたわ。特にパリ以外の地方では。私たちパリ以外にも行くのよ。」
宏子はきっぱりと言った。
「でも宏子は一緒に来てくれないんだろ? 土曜日は入院中のお義父さんのお世話だから。」
「そうねえ。お父さんの入院、3月までかかりそうだから。面会時間は午後だけだし。平日は仕事で病院行けないし。それに私が初級のレッスン受けても・・・」
「しょうがない、あまり気が進まないけど行くとするか。1万円、痛いけど。」
二
初回のレッスンの2月4日、健二は3時20分前にT駅に降り立った。休日出勤で、早退してやってきた。勤め帰りなのでスーツ姿だ。ボンジュールというカフェの場所はすぐに分かった。駅の真ん前だ。当日の朝、宏子にフランス語会話の本を借りて少しだけ予習をした。店の中に入ると、フランス人と思しき若い男性がいた。
「ヴー・ゼット・ムシュー・フォンテーヌ?(あなたがフォンテーヌ先生ですか)」
健二がたどたどしくフランス語で聞くと、
「ウィ。」 フランス人は笑顔で答えた。
「朝倉健二さんですね。伺っています。どうぞお座りください。あと二人生徒さんが来ます。来られてからドリンクを注文しましょう。」
ニコラ先生が流暢な日本語で言った。健二はちょっとびっくりした。
「日本語、お上手ですね。」
「メルシー、もう5年日本に住んでますから。」
そのとき中年の女性が現れた。
「ニコラ!アンシャンテ!!(はじめまして)」
「ウィ、アンシャンテ!」 二コラ先生も笑顔で応えた。
「ジュ・マペル・クミコ・クドウ。(私の名前は工藤久美子です。)」
「工藤久美子さんですね。伺っています。・・・あともう一人来るはずだけど、遅いなあ。じゃ、時間ですしはじめますか。」
時計は3時4分を指していた。そのとき若い女性が店に入ってきた。ニコラ先生を見るなり、
「パルドン、ムッシュー!」と元気に応えた。ちょっと派手な感じのかわいい女の子。短大生ぐらいだろうか。
「ナナコ! 藤野奈々子さん、遅かったですよ。」でも先生は笑顔を崩さなかった。
「ウィ、アンシャンテ・ドゥ・フェール・ヴォートル・コネッサンス。(お会いできてうれしく存じます。)」女の子はきれいに応えた。
「ムワ・オシ(私もです)、奈々子。では全員揃ったのではじめましょう。」
初回のレッスンは軽い内容だった。挨拶の他、基本的な動詞の変化、日本語になったフランス語の単語、といった程度で終わった。残りの時間はフランスの食文化についての先生の話だった。
「ボナペティ、という言葉があります。『どうぞ召し上がれ』とか『よいお食事を』といった意味ですね。こうやってみんなで食事をしたりするときにかける言葉です。」
「じゃ、一人で食事するときは何て言うんですか?」工藤さんという女性が尋ねた。
「一人のときは黙って食べます。」 ニコラ先生が答えた。
「ああ、じゃ、日本語のいただきますとは違うんですね。」 健二が尋ねると、
「そうです、また違います。」 と、先生。
「私留学先でみんなでご飯食べてて、そう言ってました。」と奈々子が言った。
「留学?どこへ?」
「グルノーブルです。去年の夏です。」
「それは素晴らしい、トレ・ビヤンです。ぼくはパリジャンで行ったことないんですけどもね。」
グルノーブルと聞いてニコラ先生は上機嫌だった。
三
4時半を過ぎたが、一同は帰らずに話を続けた。最近の日本のニュースや、社会のこと、スポーツのことなどである。やがて工藤さんが帰り、その後ニコラ先生も帰った。
5時半近くになって健二と奈々子だけになった。
もう帰ろうか、健二は思った。でもここで帰ったらあまりにもこの女の子に愛想ないな、とも思った。そこで話しかけてみた。
「奈々子さん、っておっしゃいましたよね。グルノーブルへ留学されてたって、さっきおっしゃっていましたが、どうでしたか?」
奈々子は尋ねられて意外だ、という感じだったが、それでも答えた。
「ええ、小ぢんまりしたきれいな街です。アルプスのふもとにあって、わりと大きな川が流れてて、ロープーウェイもあるんですよ。」
「よさそうなところですね。実はこの春、ぼくもフランスに行くんです。」
「そうなんですか。いいなあ。どちらに?」
「パリと、モンサンミッシェル、ロワールなんですけどね。個人旅行です。ツアーで行くとフランス語を使う機会がないって、うちの女房がうるさくて。」
「え~え、奥さんフランス語話せるんですか?」
「ある程度できるみたいですよ。フランス語検定2級も持っているし。フランス語毎日勉強してて、フランス大好きな人なんです。でもお互い休み取れるかなあ。」
笑いながら健二が言うと、奈々子が
「お勤め帰りなんですか?スーツなんか着て。」 と尋ねた。
「ええ、この季節うちの職場忙しいんですよ。今日は休日出勤の帰りで・・・。ついでにフランス語勉強して来いって、女房に言われたんですよ。」
愛妻家なんだ、奈々子は内心思った。
「失礼ですが、奈々子さんは大学生?」
「いえ、高校生です。」
健二はちょっと驚いた。
「ごめんなさいね。いや、大人びて見えたから・・・。」
「いえいえ、お勤め、ってどんなお仕事ですか?」
「税理士事務所のスタッフです。ぼくは税理士の資格持ってないんですけど、まあ、税理士の先生の補佐で、申告書の作成や税務相談、その他雑用をやっています。」
「へ~ぇ、なんか難しそう。」
「そうですね。簡単な仕事ではないですね。」
”若い女の子相手に意外と話し弾んでるじゃん、オレ” 健二は内心思った。
”この人やらしくない。敬語で話して、紳士的。それにとってもいい男。” 奈々子は思った。
実は奈々子にはある暗い過去があった。中学1年のとき、男に襲われたのだ。街で中年男にさらわれ、公衆トイレに押し込められた。スカートの下から手を入れられた。男のあのやらしい目つきは今も忘れない。幸い大声を出したところ通行人が助けに来てくれて無事だったのだが、それ以来奈々子は男といえば自然と敵視するようになっていたのだ。そのせいで恋愛には臆病で、誰もが認める美少女だが、恋人はまだいなかった。
ちょっと沈黙があった。
「ぼくは大学を卒業して国税局に就職しました。その後退職して違う仕事をしていたんですが、縁あって今の事務所に雇われたんです。まあ、国税局・税務署で働いていたから所得税の申告書くらいは書けたんで。でも税法は毎年変わるから覚えるのが大変ですね。」
その後も二人は健二の仕事について話し合った。健二はなるべく専門用語は避けて分かりやすく話すようにした。守秘義務についても心がけた。奈々子も興味を持って聞いた。
”この人の話、はっきり言って面白い。私と同じ年頃の男の子なら知らないことばっかり。”奈々子は思った。
「奈々子さんの将来の夢って何ですか? 就きたい職業とか。」
健二が話を奈々子に振った。
「私は・・・お父さんが弁護士なんでやっぱりそっちの道かな?」
「へぇ、司法試験受けられるんですね。すごいなあ。」
「でも私正直言って法律には特に興味ないんです。ただ父があとを継いでほしいようで。これからどんな勉強をしようか、何に情熱を傾けようか悩んでいたところなんです。」
「分かりますよ、その悩み。ぼくも高校生のころは考えました。ぼくは経済学部へ進んだんですけど、まあサラリーマン目指してりゃつぶしが利くかな、って思ったくらいで。税務の道に進もうと思ったのは大学生になってからなんです。おかげさまでまあ、成功してる方かな? 実際、自分のしたいことを大学で見つける人も多いようですよ。」
「健二さんは何で大学を選びました?」
「ぼくは、やはり偏差値です。あと、入試の配点とですかね。」
「どちらの大学か聞いていいですか?」 奈々子は思い切って聞いてみた。
「G大学です。」健二はさらっと答えた。
「うそー!!そんなのすごーい!やっぱり健二さん頭良さそうだから、そうなんですね。」
「ありがとうございます。うちの大学、そんなすごいですかねぇ。」
「すごいですよぉ、G大学。私今2年でB大学の法学部志望なんですけど、うーん、ワンランク以上上だ。」
奈々子はもう尊敬のまなざしで健二を見た。
「そうでもないですよ。B大だっていいじゃないですか。」
そのとき健二はちらっと腕時計を見た。
「げーっ、もう7時回ってる。ごめんなさい、奈々子さん、続きは次回にしましょう。早く帰らないと女房が。次回も来られますよね、奈々子さん。」
来る、と奈々子は返事した。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったですよ。次回またお会いしましょう。ああ、そうだ。握手!」
健二が右手を差し出した。奈々子はしっかりと握手を交わした。
「こちらこそありがとうございます! また来週!!」
二人は店を出た。2月4日。立春とはいえ、2月の夜風はまだまだ寒かったが、二人とも気持ちだけは温かかった。
ただし、家に帰って健二は宏子に怒られた。ポテトコロッケ、もう冷めたじゃない!!