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中国の銅輸入急増の一部は金融の担保?銅の歴史追って 高槻市トーナイ東内誠

2014-03-11 07:04:13 | 世界経済動向から銅の相場を考える
■ロイターの報道が 銅相場の欄で 『中国に輸入された銅は担保とされる』 と 言い切って書いている

言い切る表現は 今までにはこの関連の記事には なかった と思う

なので この取材には確信をもって書いたと考えたい

そうでしょプロの商品相場専門の記者が自信をもって書いている と私は思う 

銅インゴットを輸入し それを金融の担保としているのでしょう

厳重に管理されたところに 

保管されるのでしょうね



輸入者の立場では $もしくはユーロを買うか 円を現地で購入してT/Tで原産地へ 送金 しているか?

その銅は 消費されるものでは なくて 金融の担保かな? 解からない? けれども そうかも 知れない



元を売って 外貨を買うことにも なるか そやな

銅をそれに(担保)選ぶ理由は銅のインゴットの価値は 100年保管しても劣化しないこと

遠い将来は 銅も 枯渇する可能性が高い事

(有限な地球の限りのある地下資源であること)

(鉱山の銅の枯渇が 噂されれば 価値は必ずや 高まる)



(ただし 循環型のリサイクルからの供給があるので 全くゼロには ならない)





(しかし 短期的には 6500$周辺の安値も今年前半にあると みられていた)



(おそらく 年間平均では7200$辺り 但し 中国経済の低成長が現実的に なれば 勿論 それ以下もありえる )



しかし 高い率の 輸入関税を支払ってまで 輸入し

担保にするだけの 価値は 金融業にとっては 価値がある



その 銅を保有している企業なのか 個人なのかは 知らないが 資産のバランス ポートフォリオを 人民元だけに バランスしないとする考え方もあるのかも知れません



私が 中国人の立場なら 人民元だけに バランスはしたくない と 考える

株を持つ事も 実は 人民元を持つことだし

国内銀行に 預貯金することも 元にバランスすることになる


資源はグローバルな 価値の財産なので・・・

だからと いって 鉄鉱石を 積んで保管はできん

それは 場所をとるし 保管費用も大きい

鉄鉱石 1万トンを 保管するのは広大な野積み場所が港湾の荷役施設も必要やな



銅の1万トンならば 仮に1m3= 5トンとしたら

2000m3倉庫で またそれは 高く何段にも 積みあがる 1平方に5mの高さで積めば どやろ25トンやな

100平方で 2500トンや



わずか400平方m2厳重管理の倉庫で 1万トン 積めるかな?リフトがあれば 管理が可能



100トンで7800万円としたら 1万トンでは78億円

その相場が2割も 上下したら 凄い 相場や

とにかく 銅は価値があるものなのよ





人類と5000年以上のお付き合いの 深い商品なの銅とは

3.11 朝6時の銅相場 74万円


■東北を襲った 地震 津波 原発事故から すでに3年ですか 3.11 から 1095日 日々日ごろは ついつい 忘れて暮らしておりますが この時代に 生きた日本人として 過去の日本の歴史においても たいへん大きな災害で ありました

あの時 あのころ 1人で運転している時、 夜中に1人で過ごしている時に TVから 流れてくる映像や 音声に 止めどもなく泣いた また たいへんな恐怖感 で した

ともだち 作戦で 米軍が素早く動いてくれたことは覚えています

台湾の方々 タイからも 素早い ご声援を お見舞いを 頂戴した記憶が強い

中国の温首相が 福島県で 5月に 菅直人総理と 生野菜を 報道陣の前で 食って くれた事には 深く感謝した 東内誠でした

その時期 中国で 

ワシらの1000トン積んだ 舟が

被ばくで 入港 通関が通らなかった



仲間が当時の国家の大幹部に 御願いしたが 頑固として現場サイドでは 通関は輸入不許可 無理だった 

船体自体が汚染されていると ご指摘を受ければ 返す言葉も ないから



その当時 在庫 2000トン Kg 70円として 1.4億円

リスクに晒され 右往左往した





環境省へ 相談の電話を入れると



君の 積んで輸出した輸出貨物は カクホウに全て 合法なので 輸出許可となり 国内法に 被爆の 想定はないので





相手国が 輸入禁止とするならば 再輸入せよ

 

その お咎め は無いとする



 との ご回答で あらされましたので お上の ご指示 ご指導に従ったまで でして  再輸入手続き その行為を粛々とワシの供給する貨物のシッパーを する仲間が行った



霞ヶ関への相談は まず 最初 ワシが直接電話した



ワシらも 被爆被害の かなり大きなモノを受けたのだよ その当時は 書けないこともある







スクラップなどの銅の相場は以下に詳しく書いています 下のリンクトーナイも日々更新中ですので 是非貴方のPCのお気に入りに入れて下さいね



㈱トーナイ ホームぺージ↓

http://tohnai.com/top_main.html


廃棄物の処分や リサイクル全般があれば

お気軽に とうない に お申し付けください
関西一円 量があれば お伺いします
工場の解体 重量物の運搬 搬出作業
銅の高価買取り
プラスチックの再生
くず鉄問屋 非鉄問屋 産廃処理も2工場が許可

トーナイの東内誠

電話は072-678-1112 (代表)

以下は 古代史 とうない 吉備国 和気から美作

を調査中の 東内誠

東内が 何故 鉄や銅を しつこく追っているのか

-------




和気広虫・和気氏の先祖=応神天皇? 鉾立石 銅鉱山 和気清麻呂は その子孫?建国2600年?

吉備国 美作市 中山神 五鉾立て神事 藤内何時の時代からか?東内 和気神社から 山道を川上に30km この道は 古代からある道なのだろう その途中にも長福寺などもある 大きなお墓の岡田家? 鷹の羽違い 真言御室派(おむろは)? 美作平福の古代の石棺1500から2200年前か?和の墓地を巡る探検 藤や はた 出てくる 出てくる 岡山県 歴史の宝庫なの?



【神社 藤内 とうない 東内 遺跡 で検索したら
他人様の物を 少し コピー『』↓】
藤は産鉄のキーワードか
中山神が美作国楢原邑神宿に初めて示現したとき,
触媒的役割りを 果たしたのが
「とうない東内/藤内」氏であった。

藤内東内氏は菰を刈って
チマキを作り神を饗応したといい,
その功から以後 明治初年まで美作東半国の初穂料を徴収し,中山神社に納める 職能を担うこととなる
。中山神の古代金属生産とのつながりや,楢原地域の産銅・産鉄の可能性の高いことを指摘したところでもある。

また,フジにかかわる伝承として特異な感じのものが, 出雲と播磨の両国に残っている。

いずれも鉄産にからむもののようで, まずは出雲の話からかいつまんで述べておきたい。
出雲のとうない(藤内)

柳原大納言なにがしが勅使として出雲大社へ下向のみぎり, その警護役のものに

藤内某というものがあった。

能義郡布部というところに至り, 宿泊した長者の家で近辺(比田)に巣くう魔物の話耳にし, 大納言の命により 藤内が退治することになる。 山王権現の使いである猿の案内でめでたく化物を打ち取るが, 頭は人のようで 白髪三尺あまり, 四足は狼・尾は牛に似て,前身黄色の毛に覆われていたという。
 藤内はこの地に留まり, 比田の山麓に宮を建てて鎮守とした。 その後藤内の子孫は四十数代続いて今日に至り, いま田辺の姓を名乗っているという。  
(原話:田辺善明/再話:小汀松之進)

以上 他人様原稿からの一部コピー


このタナベ様 元は とうない 藤内 東内の→田辺様



の 資料が  鉄の博物館から出てきたので



以下は その博物館のHPから 引用させて戴きます

菅谷たたら山内
 菅谷(すがや)山内は、島根県飯石郡吉田村にあって、

出雲地方屈指の鉄師(たたら経営者)であった

田部家が「菅谷たたら」操業のために営んだ集落です。このたたらは、天和元年(1681)の開設と伝えられ、現存する唯一のものとして、高殿も含めて、昭和42年(1967)、重要有形民俗文化財の指定を受けました。山内は、標高約350mの谷間に形成され、高殿、元小屋、米倉、炭小屋のほか、どう場(復元)が配置されて25軒の民家で構成されています。明治18年(1885)の記録によれば、山内の人口は34戸、158人であったといいます。盛行をきわめた中国山地のたたらを支えた山内の状態を知ることができる現存する好例として重要です。

金屋子神

火を扱い製鉄・鍛冶・鋳物などを生業とする人びとが、その守護神として祀っている「金屋子神」は、伝えによれば、高天原から播磨国志相郡岩鍋(兵庫県宍粟郡千種町岩野辺)の地に天降って、鍋、釜など鉄器鋳造の技術を教え、さらに「吾は西方を主る神なれば西方に赴かば良き宮居あらん」と白鷺に乗って出雲国能義郡比田村黒田の奥にあった桂の樹の枝に飛来したとされています(備中・中山あるいは伯耆の印賀を経由したなどの伝承もあります)。
 ここで、安部氏(現宮司の祖先)に出会い、「吾は金屋子神なり、今より此処に宮居し、蹈鞴を立て、鉄吹術を始むべし」と宣言して製鉄法を伝授したのち、その地に祀られたとされています。 (天明4年 下原重仲著:「鉄山秘書」)


金屋子神社本殿と白鷺に乗って飛来する金屋子神(松本春々筆:「玉鋼縁起」より)

金屋子神社に伝わる寛政3年(1791年)の奉加帳によると、その信仰は安芸、備後、美作、播磨、伯耆、出雲、石見など七か国におよんでいます。
 金屋子神社勧請年代は不明ですが、15世紀末に当地の戦国武将尼子経久が幣田を寄進した記録がみえます。しかし、この社の奉加帳にみられるような中国山地一帯に信仰圏を確立するのは、たたらに技術的改良が試みられるとともに、山内が形成され、生産量が増大する江戸時代になってからのことと考えられます。
 金屋子神は、「鉄山秘書・金屋子祭文」によれば、金屋子神、金山彦神、天目一箇神の三神同一神とされています。また、「金屋子縁起抄」では、金山彦命、金山媛命を両親とする子神で、この三柱を合して金屋子大明神としています。その他、八幡神、卓素、天日槍、須佐之男命、稲荷神などの諸説があって、その神格や系譜については判然としませんが、通常は女神と信じられてきました。
 各山内では、祠や高殿に神棚を設け、金屋子神社から分霊して祀り、たたらの操業が安全で収穫が多いこと、さらには、不調のときには呪力によって正常に戻るように念じ、それが現実となった伝承は多いそうです。したがって、その祈りは切実で、操業が不調ともなれば、村下は雪中もいとわず裸足参りをおこなったと伝えられています。また、金屋子神社の神主も崇拝の対象とされたいう伝承もあり、時には神の力を受けて自らも技術指導を行ったことをうかがわせます。
 ところで、金屋子神は、山内で直接にたたら製鉄に関わる人びとだけでなく、炭焼きや砂鉄採集、村里の鍛冶や鋳物工房、さらには鉄や関連物資の輸送・販売に携わる業者にも祀られていました。このように、金屋子神の信仰が意外に広範な地域や様々な職種におよぶのは、神社が関係者にお札や神像の掛軸などを配布し、布教につとめた結果だけでなく、たたらという産業が、地域の人びとの生活に大きな影響を与えるものであったことをよく示しています。 



ところで、金屋子神に関しては、いろいろの珍しい禁忌(タブー)があります。
 その1は、金屋子さんは人間の女は嫌いで、とくに月の穢れ、産の穢れを忌むことです。
仕事場へ女性を入れなかった。妻が生理の時には夫はたたら場へは入らず、出産のときはたたら仕事を休んだ。村下は女のはいった後の風呂には絶対にはいらなかった。などのタブーがあったと伝えられています。
 その2は、犬・蔦(つた)・麻を忌むことで、これは、むかし金屋子さんが吉備の中山という所へ天降らっしゃったとき、四つ目の犬が吠えかかった。そこで蔦にさばって(つかまって)逃げようとしたが、蔦が切れたために犬に咬まれて死んでしまわれたからだそうです。また、地域によっては、逃げようとされた拍子に麻苧(あさお)に絡まって倒れ、ついに死んだとの話もあります。その他、犬が嫌いということについては、白狐に乗って天降りしたとの伝えが付随していることも考えられます。
 その3は、金屋子さんは、血の忌は嫌われるが、死の忌は少しも嫌われないことです。
腕の立つ村下が死んで、どうしても鉄が沸かなくて困ったとき、村下の骨を掘り起こして、たたら場の押立て柱に括りつけたらよく沸くようになった。押立て柱に死屍を括りつけると調子がよい。鉄がよく沸かないときには死人を背負うて歩けばよい。葬式が出ると、その棺を担いでたたらの廻りを歩いてもらった。たたら炭を焼くときは、棺桶の木切れをくべると具合がよい。人が死ぬと棺桶はたたら場の中でつくった。などの言い伝えがあります。

以上 東内誠 博物館 様 から 拝借しました.

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