銅を触るモノは 銅の歴史も知っておこう 銅鐸 銅矛 エドム人 紀元前に出雲
甲斐川付近に渡来したユダヤ=出雲大社
御浄砂は素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した出雲国 斐伊川の砂を採集し、お浄めをしたものである
中山太神宮 当代 東内 誠
魔よけ の 砂 だと考えてよい
この神社の祭りは 旧正月に3日間行われるが
その周辺50kmほどから参拝客が集る
現代では15万人ほどの過疎の美作の国の人々
15万人もの参拝者。
この社の何処の鍵なのかは 解らない が
この社の鍵は 東内 が明治時代頃まで開けていた
スサノウに なんぞ ワシの血は関係している事は間違いないなあ
スサの王
御矛たての祠を長い年月維持するモノ
荒神谷遺跡 こうじんだに
荒神谷遺跡と命名され、翌1984年には、358本もの銅剣が出土。
遺跡は「出雲国風土記」記載の出雲郡(いずものこほり)の神名火山(かんなびやま)に比定されている
仏教山の北東3kmに位置する斐川町神庭(かんば)西谷にあり、
その翌年には、その時点からわずか7m離れて
銅鐸(どうたく)と銅矛(どうほこ)が出土しました。
西暦前に 海路で エドム人の 精錬技術を持った 人たちが おそらく
島根県か鳥取県 付近に 舟を巧みに操って渡来した
エドムの土地は 中東のイスラエルの辺り
レバノンで伐採した巨木で 舟を作り
インドにも 銅製品を輸出したし
インドシナ半島を通ってマレー半島 そして
出雲に来たのだろう
紀元前の 話しだよ
エドム人の航海技術 建築技術 ユダヤ人の財力
★ある人が こう書いておられる
《古代 出雲の超高層神殿は エドム人の 技術がなければ 建築は不可能である》
ワシの祠は 大吉備津日子命を祀っているが なんか スサノオを隠しているように思うのだ
どうも 隠れ出雲
中東のエルサレムの周辺から 長い旅をして インド洋から インドシナを越えて出雲 甲斐川のあたりに 住みついた
美作の国は 出雲街道の途中なので 甲斐川から 中国山地を越えて 美作 津山 那岐山あたりに やってきた
ワシのトーナイの里も 古道・出雲街道の正規の道で
南北朝の時代でも トーナイの裏山の古道を 天皇も通って 美作市楢原の神宿の村を抜けて 火の神の 川岸に泊まられた
美作市江見から 山の道 南海の 道を 後醍醐天皇の一行も歩かれた ああ これは余談で 話がそれてしまう
エドム人が 出雲に来たのは 2000年以上-3000年まで の話しだから・・・南北朝が 此処で でてきては 話が混乱する
出雲から エドムの者らが 吉備 岡山県にほうへ 進出していき その後 畿内のほうにも 移動したかも 知れん
銅鐸 銅矛の 時代
今より2000-2300年ほども前のことになるか
スサノオの砂を 魔よけとして 売っているのは
福力荒神社である
その社は 美作一宮 中山神社と 中山太神宮
トウナイの実家との 丁度 出雲街道の真中付近にある
その社の鍵は その昔はトーナイが管理していた
ふるくから 岡山県に住み着いたモノ ㈱トーナイ 東内 誠 当代
現代でも 日々 金属屑を探し 仕分ける 別けるモノ
山口県や 鹿児島県にも エドム人か ユダヤ人が舟で来たと思う
山口県には 土井が浜人 という 身長の高い 2000年前の骨が見つかっている
ワシの会社は わずか30数名やけれど 土井というのも背が高い 土井君は 土井が浜人かも知れんなあ
彼も190何センチか 背が高い 此花 営業所の 横田も背が高い ここらもエドム人かも知れん190センチは超える
トーナイ野田営業所の 達也も194センチで
背が高い エドム人の ご先祖かも 知れんなあ
どうも ㈱トーナイ 一家には エドム系が多く集る傾向じゃ
伊勢神宮にも入っているらしいよ トーナイの先祖
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