天智天皇は なかなか天皇になれなかった
裏事情
妹と肉体関係があった?
不比等は 中臣鎌足に 子どもを あげた お子の
可能性があるらしい
天智天皇の お子とも 言われている(藤原不比等さん)
藤原鎌足 阿武山 古墳(たかつきし あぶやま)に確定されている
談山神社(たんざん・じんじゃ)
ウイキでは 鎌倉時代に成立した寺伝によると、談山神社(たんざん)は
藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、
長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、
父 鎌足の墓を摂津安威の地(阿武山古墳 現在の高槻市)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である
壬申の乱のとき
藤原氏は 近江朝 側について いたので
天武天皇時代には
藤原家は干されていたと思うが 藤原不比等は 殺されなかった
それは 歳が幼かった ということもあったかも知れない
上のウイキにも 書かれているが 不比等は次男で 長男も 僧になっているということで
中臣(藤原)鎌足の長男も 死刑は 免れた という事か・・・
大阪府茨木市の大織冠神社
大職冠 という 冠は 日本では 歴代2人しか 授与されていないので この冠をつけて眠っていたのは
藤原鎌足と 断定されている
(阿武山の山頂 京都大学地震観測所の丘
大阪府高槻市リサイクル㈱トーナイ奈佐原ヤードの上 すぐ)
西暦で600年代 今から1300数10年前
三島の国 摂津の国に 藤原鎌足は住んでいた
この辺りの土地が一族の縄張りだったのではなかろうか
藤原不比等も その東 15kmほどの 淀川のヘリ
京田辺市 辺りで 幼少期から20歳代を過ごしている
この時代 壬申の乱
白村江の戦い 日本の歴史で かなり重要な場面なのだが はっきりと 見えないのだ・・・
その後の時代
和銅の時代の7百年初め
吉備の国 岡山県では 備前の国が
またもや 分国させられて
備前は 美作と備前に また分かれる
西暦で7百年初め
美作では 美作の国が出来て千三百年と言っている
(実は みまさか は もっと古い歴史なのにね)
(備前から 別けられて 以降1300年です)
(元の 吉備の国は おそらく1900年以上前からだ)
ワシの里の家 中山太祠にも 藤原正照 という方の お名前が 残ってるのだ 解らん
そんで 明治時代まで ワシの家は
美作一宮の神社である
津山市 中山神社に出入りさせてもらっていた
そんで 百姓でありながらも その宮の東側40km 南にも数10kmほどの 地区の 初稲穂を集める 特権を持っていた と思う 祈り系には 間違いない
藤原氏の内舎人をトーナイ 藤内 という
内舎人 とは 藤原の下で 下働きをする配下のモノ
宮内庁でも 今でも そうだと思う
金属と祈り それを追求 日本人は何処から来たか
それも 追求する バタ屋大阪港トーナイ
あらゆる ヤバイ仕事というか
ケガレル仕事でも トーナイは やる
危険で ヤバイ 仕事は 是非 トーナイにご一報下さい
ヨゴレ仕事 ケガレル仕事 専門
屑解体 クズ売買 クズ輸出 ビル解体
但し 現代では 人殺しなどは 犯罪者とされるので
お引き受けは 出来かねる・・・